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更に慶応元年 〈其の七〉


そういった緊迫の高まる状況にあって、最初に招聘されて以来五年、雇士年二十五俵という殆んど最低条件で飼い殺しにされ続けた翻訳官村田蔵六が名前も大村益次郎と改め、正規の毛利家臣に取り立てられ御譜代百石取軍政専務という大抜擢を受けた。彼は元々長州出身だったが身分が百姓だった為、高名な適塾の主席を取るほどの実力にも拘わらず藩内では完全に黙殺され一旦故郷に戻って家業の村医者を継いでいたが、寧ろ幕府講武所や宇和島藩などがその実力に目を付けて高禄で召抱えた為急いで取り返したものの寧ろ地元の方が、

「あれは百姓じゃないか」

という感情が強く、先に述べたような条件で冷遇を受けたのである。だが、奇妙な男で一度は宇和島で御雇とは言うものの上士格百石取りの好条件から一転、これほどぞんざいに扱われたにも拘わらずそれについて彼は五年間不満の一つも言わず黙々と年二十五俵の薄給で翻訳の仕事をこなし、政治的に激しく変転するこの長州藩にあって時勢に関する意見の一つも口にせず日々をやり過ごしたのである。奇妙と言えば玉石混交、あらゆるタイプの人材が跳梁した幕末と言う時代にあって、彼はまさしく奇人変人の代表と言うべき怪人であった。

猛は周防国吉敷郡鋳銭寺村(現在の山口市)にこの適塾の先輩“火吹き達磨”と呼ばれた異相の天才を訪ね、その前で妙に畏まっていた。畏まると言うよりも硬直していると言った方が良いであろう。無理も無い、まさしく達磨のような黒々とした大目玉が殆んど瞬きもせずに猛を見据えたまま、大村は猛の前で一言も発さず只黙って端座しているだけなのだから。大村が何も言わない為に、猛は次第に息が詰まってくるような感じに捕らわれてくるのであった。相手が何も言わない事も理由だが、大村のその奇抜な面相も対座していると尋常でない焦燥に捕らわれて来るような気持ちにさせるようだ。

「__」

「__」

適塾の先輩とは言うものの一面識も無く、只単に故緒方洪庵がその学力を絶賛していたという知識しかなかった猛は、対座して初めてこの大村が常識を遥かに超越した奇物である事を知った。元々たいした用件が有った訳でもなく、適塾の後輩として今回の重職任命を祝うついでに一度顔を合わせておこうという極気楽な理由で大村の元を訪れたのだが、この予想外の展開に猛は何を言えば良いのか判らず戸惑うばかりであった。沈黙は大村の何と言えばよいのか、癖のような物だ。この人物はその生き方、日常の全てに於いて無駄と言う者が殆んど無く、会話ですら意味の無い事は一言も口にせず、話す必要の無い事は絶対に喋ろうとしない。悪意が有る訳ではなく、只々無駄な行為を認めようとしないのである。私利私欲も無ければ見栄や自己顕示欲も無く、有るのは与えられた役割を黙々とこなそうと言う超然とした意志と緒方洪庵が激賞したその洋学、計算能力、或いは戊辰戦争の際幕軍を悉く敗走させて彼をして幕末最大の功労者たらしめた天才的な用兵の手腕と言った異能であった。軍人としてのキャリアはこの時点ではまだ全く実績が無く能力に関して誰もが未知数で、桂小五郎の推薦による異例の立身であったが、今回の軍政専務の任命はその実力を発揮する最初の舞台であった。只、俗世とは遥かにかけ離れた所に存在するかのように愛想が無く、別に横柄とか傲慢と言う事も無く、寧ろ無私無欲と言う事ではある意味では聖人のような所さえ有るのだが、人との付き合いというものを全く理解できない異常人なのであった。機械に似ている。幕末の奔走家、所謂志士と呼ばれる連中の中には純粋な者もいるにはいるが、大半は騒ぎに乗じて一旗あげようと荒唐無稽な皮算用に明け暮れる野心家か、只世の中の騒動に煽られて訳も判らず喚き散らすだけの狂人、或いは現実離れした妄想に取り憑かれた国学思想家であった。それら有象無象の中に在って、別に自分の存在を誇示するわけでもなく、狂信的な国学思想に取り憑かれたわけでもなく、只々時代の要請に応じてその能力を発揮してそれだけの存在として役目を終えると明治二年に暗殺されて四六年の短い生涯を終えた不思議な人物であった。

大村は黙っている。猛も何をどう話してよいか判らず対座しながら困惑していた。最初に重職就任と毛利家譜代への取立てを祝し、それに大村が恐れ入りますと頭を下げてから全く会話は交わされていない。この沈黙は大村の癖と言うか特技というか、いつもの事なのである。かつて高杉晋作が大村を訪ねた際、両者とも必要な事以外は何も喋らず一時間ほど黙ったまま対座した事も有ったし、後に江戸の彰義隊を討伐した後、薩の西郷と会談した際にもお互い口もきかず、黙ったまま終了したことがあった。別に意図が有る訳ではなく、只いつものように黙りこくったままの大村に対し、猛は何か話題は無いものかと焦っていたが、相手は全く頓着していない様子である。

「ば、幕府が攻めて来るそうで」

えらく間の抜けたような感じで、或いは当たり前の事を言った。

「どないしはるんでっしゃろか」

「それを考えております」

当たり前の答えだが、正に取り付く島も無い様な応対だった。

それっきりであった。

猛は追い詰められたような気分で座り続けた。やがて奥方が患者の来訪__大村は、藩の重職を承る一方で地元では相変わらず医者として病人を診察している__を告げるとそれを潮にこの詰問__何も喋っていないのだが__のような一座は中断し、救われたような気分で猛は大村家を後にした。



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