更に慶応元年 〈其の四〉
その手段の一つとして登場したのがこの男なのである。
「坂本さんやないですか」
神戸の海軍操練所では塾頭を務めていた土州浪人坂本竜馬である。猛達にとっては一別以来、実に一年近くの再会であった。
「何しに来はったんでっか」
猛の質問に、坂本はにやりと笑ってそのフケだらけの蓬髪を掻いた。
「何、儲け話を持ってきたわい」
「儲け話?」
隼人が厭な顔で聞き返した。彼は金銭感覚の欠如した生一本の志士である。坂本の人物には悪感情を持ってはいない物の、彼のこうした物言いに対して隼人は反射的な拒否反応が起こるのである。といって、この当時の所謂勤王の志士たちが精錬潔白で謹直であった訳ではない。それ所かこの当時の志士たちは京の祇園や島原、長崎の丸山等に通い詰め、芸者を上げて大騒ぎしていたのである。武士などと言うのは身勝手な物で、それだけ豪遊しても金の事を口にするのは男が廃るなどと無茶な事を言い散らし、その癖廓では良い顔をしたい為、結局は手近な商人を嚇しては、
「攘夷の為、皇国の将来の為__」
等と称して遊興費を出させ、その金で遊び回るのである。それでも彼等は金の事を口にするのを卑しむのだから、正常な感覚の持ち主とは到底思えない。もっとも、日本中が混乱しているのだから(その混乱の原因の幾等かは彼等“志士”なのだが。要するに黒船騒ぎに端を発した混乱の最中に在って、積極的に狂乱した訳である)ある種時代の不幸のような物では有るが。
「左様、倒幕の為の軍用金を稼ぐ為にの」
坂本は実に上手い。事実彼はそのつもりではあった。
「操練所は残念だしたなあ」
猛が別の話題を持ち出した。
「マッコト」
坂本が心底残念そうな顔をした。神戸に有った幕府海軍操練所は、責任者である勝安房守海舟が海軍奉行の職を解かれ、操練所自体も閉鎖されてしまったのである。
「わしらが勝手に出て行ったせいでっかいな?」
猛の嫌味ったらしい悔悟に、隼人がまたまた厭な顔をした。操練所閉鎖の理由として幕府上層部の通達は、
「幕府の海軍を育むべき操練所で、不逞の浪人を養っている」
と言うのが理由である。禁門の変に臨んで操練所を抜け出すような連中がいるのでは当然と言えば当然と言えるかも知れない。
「そういう事では無いわい。幕府も阿呆ではなかぞ、自分の金で自分の足元を掬う謀反人を飼うほど間抜けではないわ。奴等は日本の将来など全く考えては居らんが、我が身を庇う事にかけては恐ろしく抜け目が無いからのう」
徳川幕府と言う政府機構は世界でも類を見ない巧みな警察国家だった。幕府に対する反抗的行動を厳しく監視し、少しでも不穏な動きが有る時には有無を言わさず連行し、サディストの火盗改が逆さ吊りにして青竹でどつき回したり、石を抱かせて無理矢理自白させて処刑するか責め殺すか、口を割らず死にもしない頑丈なのは伝馬町の牢屋でコミにする、実に合理的で安定的な治安維持である。その調査能力は旧ソ連のKGBかGRU、ナチスドイツのゲシュタポかシュタージを思わせる、陰険な治安活動である。まさしく隠密同心捜査網と言うべきか。
「それで、その儲け話て?」
猛もあまりこういうことは口にしたくない。別に志士だの武士だのという事ではなく、上方者が銭に汚いと言う偏見が厭なだけだった。
「流石、上方のお人は違うぞな」
懸念した通りの切り返しに今度は猛が顔を顰めた。坂本はそれを無視するともうその話題は触れず、長州に来た用件を説明した。彼は一見野放図で人前でも平気で鼻糞をほじるような男だが、人の顔色を読んで配慮する心配りに長けた一面もあるのである。
「わしは今度、かんぱにいなるものを作る事にしたキニ」
「かんぱにい?」
「そうじゃ」
「一体それは__」
坂本が得たりとばかりに説明を始めた。カンパニー、要するに株主を集めて出資を募り、商業機構を設立する、とどのつまりは株式会社の事である。今、日本にやって来ている西洋人たちの目的は九割までが金儲けである。本国の辞令によってとは言うものの、その動機は利潤なのである。寧ろ国ぐるみで金儲けに精を出していると言って良かった。この頃の西洋諸国の近代化の原動力はジェームス・ワットが実用化した蒸気機関に有る事は説明するまでも無いが、それに伴う殖産工業化、つまりマニュファクチュアによって誕生した資本家の力による所が大きい。つまり、全ては金の力であり、資本家たちの権限は拡大の一途である。その資本家の要請によって国が方針を決定し、海洋を股に架け、世界中を貪って植民地化している訳で、このほどその魔手を極東__彼等の地理概念による、要するに自分達の位置を中心にしての基準なのである__の島国にまで伸ばしたと言う次第なのだ。西洋文明の原動力は機械であると共に資本であると言う事を直感的に見抜いた坂本は、この力を積極的に取り入れんと海軍操練所閉鎖にもめげず、貿易会社を設立し様と奔走しているのであった。彼の実家の坂本家は一応土佐では郷士だが、才谷屋という商家でもあったから、経済に関して抵抗無く構想に取り入れる事が出来るのであろう。
「亀山社中と名付けたわ」
名前の由来は、本拠地を長崎の亀山に据えたからであった。筆者は、個人的には後の海援隊などという取って付けたような名前よりも、このざっくばらんな名前の方が好きである。吉田松陰の松下村塾も所在地の松本村から取った名称で、余りひねくりまわした意図的な名前よりはこちらの方が好感が持てる気がする。
「今、株主を集めて居る所じゃ」
それで長州も株主に勧誘すべく坂本は来たと言う事だが__
「それだけが目当てやないでっしゃろ」
猛の指摘に、坂本はニヤリと返した。
「藤岡君、相変わらず鋭いのう」
自分の胸中を期待した通りに言い当てた猛に対し、坂本はかなり嬉しそうな顔をした。
「実はの、今一番の大株主は薩摩なのじゃ」
これには猛も隼人も目を丸くしたが、坂本は悪戯に成功した子供のように無邪気な笑顔を見せた。
「さ、坂本さん」
これが長州人に知れたら大事である。先の禁門の変以来、長州人たちは薩摩を憎悪しきっており、こんな事が知れたら気が立っている過激な連中に殺される恐れさえあるのだ。
「だからよ、その仲立ちの為にわしがこうして乗り出してきたんぜよ」
薩長連合__この考え自体は別に目新しいアイディアではなく、世が騒然とし始め海防攘夷論が倒幕論へと移行する中で自然と沸きあがってきた構想である。只、現実にはこの両勢力は互いに対抗意識を剥き出しにして相手を牽制し、実利優先の政治的行動が先に立つ薩摩と、矢鱈と理屈を振りかざし、思想信条で暴走に近い活動を繰り返した長州ではまず出発点からしてまるで相反している。尤も、長州が薩摩同様の藩単位で物事を決定する郷土的利己主義であれば話は余計にこじれただろうが。坂本の構想に寄れば、譬えいがみ合う薩長でも利益の為になら感情を抑えて渋々手を握り合うであろうと言う事である。特に長州藩は先の禁門の変以来悪戦苦闘の連続で、条件の持っていき方では感情を抑えてでも薩摩と手を握らねばならないであろう。
「その薩摩の裏切りのせいで我等はこのような苦境に陥っているのではないか」
長州側の言い分であり、当然の感情である。
「さればこそ、薩摩はその背信を悔い、この竜馬に仲立ちを頼んだぜよ」
記録の上ではこの時の詳しいやり取りを残した資料は無いのだが、恐らく坂本はこういう感じの説得を長州首脳部、具体的には長州倒幕勢力の責任者桂小五郎(彼は重厚な性格で、こういう呼び方に相応しかった)あたりに試みたのではないかと思われる。彼は禁門の変の敗走の際、幕軍の追及を命懸けでかわして一時行方不明になっていたが、後世“逃げの小五郎”と呼ばれたその異能を十二分に発揮して幾度となく生死の境を機敏にすり抜け、このほど何とか長州に帰国していたのである。
かくして、坂本の熱心な手引きによって五月二十一日、長の桂は下関にて薩の西郷と会談を行う事になったのだが__