更に慶応元年 〈其の三〉
三月にはイギリス商人グラバーの手引きによって、薩摩藩士五代才助ら十六名が幕府に秘密で英国に渡航した。グラバーはこの時期活躍した外国商人、分けても武器の売却で巨利を得た、所謂“死の商人”の筆頭であったと言えるだろう。彼は後年、自分こそが徳川幕府に対する最大級の反逆者だ、と嘯いている事からもその暗躍のスケールが察せられる。
元治は結局一年限りで廃止され、四月七日には年号が慶応と改変された。五年前の万延も一年きりで廃止されたが、こう言った慌しくも無意味な制令からもこの時期の世の動きの激しさがしのばれる。
その間も長州は何とか武備を充実し様とあの手この手を用いて悪戦苦闘を続けていたが、如何せん幕府に秘密と言う条件では限界が有るし、いつまでも隠し果せる物ではなく、それとなく動きも捉まれていた。特に小栗を始めとする強硬派は、前述したようにフランスの紐付きで徳川家の経済力軍事力の一層の拡大を目論んでおり、密かに長州に武器を売却せんと手を回していた英国を牽制した。このようなフランスの親幕的政策の理由の一つにはイギリスに対する権益問題が絡んでいる。詳しい事は省くが要するにインド、清国における植民地政策でイギリスに遅れをとったフランスが、アジア進出の足場として日本現政権と私的に結びつき、挽回を図る狙いがある。当然これに対する英国側も反幕勢力を援助したいのだが、一応曲がりなりにも日本公認政府と国際的に公布された徳川幕府の決定に正面から反対する事は出来ず、米英仏蘭四カ国は、対日貿易における抜け駆け禁止条約を結ぶ事になり、イギリスは最後まで反対したが結局は従わざるを得なくなった。こういった背景に自信をつけた小栗は、長州とは何れ事を構える意気込みであった。否、長州だけではない。小栗の構想によると、この軍事力を背景に外様のみならず譜代親藩含め大名を悉く潰して徳川家による中央集権政府を樹立しようと意気込んで、つまり中国やロシアの皇帝のような独裁的絶対権力を確保しようと言うのである。フランスの後ろ盾に勢い付いた徳川方では長州再征に踏み出した。しかし、各藩の反応は非常に冷淡で、特に先の征長の役にはあれほど積極的に、幕府を焚き付けてまで長州に対する強硬政策を主張した薩摩が、もしどうしてもやるのなら、幕府の私闘に過ぎぬと明確に宣言した。その理由は、一つには予算の問題であり、更に今ひとつは国外では諸外国が日本を征服せんと手ぐすね引いて目を光らせており、最大の理由は小栗の徳川独裁政権案が既に知れ渡り、徳川家の武力誇示である戦役に対し、敵意を持って反対しているのであった。しかし、幕府では諸藩の反対を押し切って将軍家茂が親征を決定し、五月十六日には江戸城を発ったがそれでも各藩は背を向けたまま徴集に応じず、幕府と一部の譜代藩のみによる“私闘”として強行された。この、将軍親征はある意味では最大の失策であったかも知れない。何故なら征夷大将軍自身が出向いていけば諸藩も従わざるを得ないであろうと漠然とした、余りに現実離れした期待の元にこれを敢行し、幕府の権力の強大である事を内外に誇示する狙いがあったのだが、薩摩などは待ってましたとばかりに積極的にこれを無視したから徳川幕府の対外信用は一層失墜し、家茂親征は完全に裏目に出た結果となった。反幕的な藩にすれば徳川幕府に恥をかかせ、その権威を落とすのにこれほどの好材料は無かったのである。これにより徳川家が既に大名に対する統制力を失い、日本における公式政府であると言う虚偽が外国に露になりつつあった。それでもフランスは飽くまで幕府に肩入れし、そればかりか前年の元治元年には製鉄所や軍艦ドックの建設を請け負ったのである。それに対するイギリスも何とか雄藩を支援すべく様々な手段を講じ、日本の内政問題は極東における英仏代理戦争の様相を呈してくるのである。この国内政局の混乱は、元を正せばペリーの来航に端を発した外圧がきっかけなのである。こうした外圧が政変の始まりになる事は大概どこの国でも同じだが、日本の場合それが極端であった。
とまれ、徳川幕府によるフランスへの日本買収計画が進む中で、大袈裟に言えば長州の興廃は日本の将来をも左右する問題とさえ言えるほどであった。長州憂国勢力は徳川家の陰謀を知り、何とかこれに対抗すべく、あの手この手を尽くして兵器購入の手段を模索していた。