更に慶応元年 〈其の二〉
長州が勤王勢力の回復に沸き立っている頃、幕府では戦慄すべき計画が着々と練り上げられている最中であった。その首謀者こそ誰有ろう、勘定奉行小栗上野介忠順である。彼はまさしく三河侍の生き残りと言うべき忠勇義烈の壮士で、瞠目に価する切れ者でもあり、その有能さは或いは倒幕側でさえこれほどの人材は居なかったかも知れない程である。徳川家への忠誠心と言う点では桜田門外で暗殺された井伊直弼に似ていたかも知れないが、その能力は雲泥の差と言えるほどの傑物だった。井伊直弼という人物は朝廷に無断で通商条約を結んだ訳だが、かと言って彼は開国派でもなんでもなく、一方で幕府の洋学方を縮小したような保守家であった。井伊の場合、御殿政治と言うか権力政界でのし上がっていく為の遊泳術には長けていたし、何よりそれに関する執念が異常でもあった。井伊は逼迫する対外問題に何の興味も持たず、只々己の出世と徳川家に対する忠誠心だけでその頭脳が完結しており、自分が勝手に執り行なった不平等条約が日本にとってどれほど深刻な事態を内外に齎すのか、考えようともしなかった。考える事自体が徳川幕府に対する不忠であるとさえ考えるほどであった。彼は徳川幕府が日本における独裁権を握る絶対支配者であると信じ、無理矢理その妄想に縋り付いて悪名高き安政の大獄を強行し、それが原因で殺されたのだが小栗はそのような誇大妄想など微塵も持たぬ厳粛な実務家であった。彼は外国嫌いの井伊とは違い徳川幕府の威権回復の手段としてフランス公使ロッシュと相談し、徳川家を日本におけるフランスの植民地現地総督のような役割を負うことを約し、いわば日本を売り渡して徳川政権を存続させようと言う信じ難い計画を構想しているのであった。その上小栗の強みは出世の為の世渡りなどまるで考えず上司の無能や怠慢を容赦無く糾弾し、この点でも上に諂い下に倣岸な井伊とはまるで対照的と言えた。
今、長州藩のみならず、日本全土が危機に曝されていた。