更に慶応元年 〈其の一〉
元治二年一月には長州藩内の“正義派”が勢力を盛り返し、“俗論派”を一掃して藩論は再び倒幕方針へ転換された。その主力は奇兵隊に代表される無階級軍の“諸隊”による物である、と言うより長州に於いては庶民階級が殆んど倒幕、武士階級の大半が佐幕であって、単なる佐幕倒幕と言った主義主張の政策論争ではなく、少なくとも長州藩内ではこの革命運動は明白な階級闘争であった。如何に長州と言った所で上士階級は現在の身分と安楽な地位が大事であって、それを保障する士農工商といった身分差別政体の総本家たる江戸幕府に対して限りない感謝の念を抱いており、それを覆そう等という不心得は毛ほども持ち合わせては居ない。長州をして一藩勤王とするにはますそう言った藩内の政争に勝利する必要が有った。この時期、革命に参加した、ないししようとした藩では改革派と守旧派の軋轢は程度の差こそあれ必ず起こっており、こう言った点で言えば長州など恵まれている所の騒ぎではない。同じ上士と下士の階級闘争が展開された土佐藩などは当時“賢侯”と呼ばれた前藩主山内豊信の病的な秩序感覚により凄惨な弾圧が繰り返され、肝心の討幕運動よりも藩内闘争による犠牲者の方が遥かに多かったし、尊皇攘夷の本家で所謂幕末騒乱期の初頭に於いていち早く藤田東湖、橋本左内などの警世家を排出した水戸中納言家に至っては余りに仲間割れが激しく、肝心の革命運動には殆んど参加していないのである。
奇兵隊総督は創始者の高杉晋作を振り出しに河上弥市、赤根武人と慌しく代替わりしたが、次々と入れ替わる総督たちを尻目に事実上この奇兵隊を掌握していたのは、明治の元勲としては珍しく死後その脳味噌がサンプルとして保存された、後の山県有朋こと当時の山県狂介であった。現在奇兵隊の実権を握るこの軍監山県は元々百姓の出身で、最初は槍術でのし上がろうとしたが、彼は意外にも組織運営の実務的手腕が高く、いつの間にか隊の事実上の首長に為り果せていた為、晋作もこの狂介に頼まねば隊士の一人も動かせないのである。とは言え、この“正義派”にとって絶望的とも言える状況で山県を説いて奇兵隊を動員させ、幕軍撤退の直後のタイミングを衝いて再び藩内クーデターを実現させた晋作の鮮やかな手並みと機を逃さぬ行動力、それにカリスマ性はこの型破りな天才児が矢張り只の跳ねっ返りではない事をこれでもかとばかりに証明したと言えるであろう。
「高杉さん、やりましたなあ」
猛の祝賀に長い顔に小さな笑いを浮かべ、鋭い目を向けた散切り頭のこの若者こそ、現在長州革命勢力の頭目格である高杉晋作その人であった。正に浮かべた、と言う言葉に相応しい、不意を衝かれて不覚にも思わず顔の上に浮上したような自然で小さな表情であった。後はいつもの力の篭った無表情に戻ったが、今の一瞬に見せた笑みは、闇に青白い火花が散ったように刺激的で小気味良い笑顔であった。
高杉晋作__
所謂維新の志士の中で、土州の坂本竜馬と人気を二分するこの長州出身の革命児は、
「西郷、坂本、桂などならば革命が収まり、時代が変わってもそれなりに役割が有った、もしくは有ったと思われるが、この晋作の場合革命以外に使い道の無いくらい骨の髄までの天才的革命児である」
と評され、或いは別の著名な歴史作家は“治世の能臣、乱世の姦雄”と呼ばれた三国志の曹操をもじって“乱世の英雄、治世の乱臣“と称した。明治維新という日本近代化革命に参加した志士と呼ばれた活動家たちの中で、彼は坂本竜馬と共に、跳躍力を持った存在であったと言えるかも知れない。坂本の跳躍はゆったりと助走を着けた陸上競技のホップステップジャンプであるのに対し、晋作のそれは飛距離を出すよりも相手の虚を衝いて電撃的に炸裂する急角度のドロップキックにも似た鋭さがある。
猛と隼人も幕府出兵のどさくさ紛れに長州藩領に潜り込み、奇兵隊に混じってこの騒ぎに参加したのであった。庶民出身の“諸隊”の面々も口々にクーデターの成功を賀し、騒ぎに興ずる中でその首謀者たる晋作一人が力一杯大きな口を引き締め、一瞬の油断もすまいとするように無表情を保っていた。
「何じゃ、あの態度は」
隼人はどうも高杉という男が好きになれないようだ。
「攘夷の先駆けたる長州の頭領というからどんな男かと思うたが、何と愛想の無い、度量の狭い男である事か」
晋作と言う男は他人の心の動きに対しては超能力のように鋭い感覚と一瞬で判断を下す思索力が有ったが、藩の上士出身の典型的なボンボンだった為、どうも他人の感情を尊重すると言う事が苦手と言うか、嫌な男らしい。
「同じ長州でも久坂殿は人物であった」
隼人は禁門の変で死亡した、故吉田松陰門下の筆頭主席門人の名を上げた。名高き松下村塾でも師匠の松陰は久坂玄瑞を気に入っていたらしく、わざわざ自分の妹と婚約させてまで手元に引き込んだほどの熱の入れようで、どうやら彼をして自らの後継者と思っていたらしい。周旋と呼ばれたこの当時の志士たちの人事交流活動の場に於いて、久坂の糞真面目な弁才と情熱的な顔つなぎは京都政界でも評判で、薩の西郷などは維新後、 「お国の久坂さんが生きておられたら、この西郷、参議などと大きな顔はしておられんでごわした」 と、長州系の政府要人に語ることも有った。それに比べれば晋作は不言実行の四文字を絵に描いたような無愛想で突拍子も無い行動家で、互いの感情を尊重し合う対人活動など思いもよらぬ男なのである。彼が居ずまいを正すのは父親と藩主親子、そして今は無き師匠の吉田松陰位なのである。彼が庶民を借り集めて奇兵隊を組織したのは、或いは傍若無人で縦横無尽な行動力を束縛する同格の上士より、命令し易い下々の方が使い易かったからかも知れない。実際、彼は次から次へと降りかかって来る無理難題を奇抜な機転で次々と切り抜け、進退極まった難局を見事に乗り切っている。こういう型破りで自由奔放な天才タイプは制約を受けていてはその実力を発揮できないのだろう。
奇想天外、大胆不敵、唯我独尊、電光石火、その他様々な四文字熟語を体中からぶら下げたようなこの革命児が思いのままに腕を振るえたのは、長州藩主毛利敬親の穏かな性格による所が大きい。彼は
「そうせい公」
と仇名されたほどに周りの意見に従順で、いかにも教養人らしい淡白な人柄ゆえに晋作のような極端な跳ねっ返りに対しても無慈悲な弾圧を加える事が無かった。これに比べれば土佐の元藩主山内豊信などは性格が幼稚と言うか、自ら今信長などと公言するようなきかん坊で、凡そ考える事が大人とは言い難かった。子分に慕われる親分肌の人物は大人になってもその稚気を失わないと言われるが、この豊信などはその典型であったと言えるだろう。彼が憧れた織田右府も多分にそう言うところは有ったが、自ら先頭に立って室町幕府を粉砕した信長と違い、彼は狂信的佐幕主義者なのである。のどかな毛利敬親と違い、彼は賢公と呼ばれるほど世界情勢に明るく詩人気質で大酒呑みな上に剣で飯が食えると言われた程の豪傑だったから気概も有った、有り過ぎた為に現下の状況に対し現実的に臨む事が出来ず、悪戯に前土佐藩主と言う権勢を振り回し、己の作り上げた詩的な英雄像に酔うばかりであった。坂本竜馬なども度々指摘したように、要するに子供っぽいのであった。その子供が権力を握ったから土佐は上士対下士の対立が深刻化し、本来それを抑えるべき立場の豊信が逆に先頭を切って弾圧を進めた為に藩内外で血の雨が降ったのである。彼は藩主などにならず、一部屋住みのまま好き勝手に活動した方が良かったであろう。豊信の気風の良さに心酔して明治後も彼の傍に仕えた用人もいたくらいだったから、権力者の立場よりも一介の草莽の士であった方がキャラクターに相応しかった。もし、日本の危機に際して一藩を動かし、未曾有の国難を乗り切ろうと言うのであれば、矢張り徳川三百年の中で尤も優秀な大名と言われた亡き島津斉彬くらいの見識と器量が無ければ状況を混乱に陥れるばかりで有害無益でしかないのである。それが出来ねば伊達宗城や鍋島直正のように藩内の近代工業化にでも力を入れるか、さもなくばいらぬ騒動に首を突っ込まずに自重していれば良かったのであろう。これに比べると毛利公は自分自身の力量を頼まず、家臣の正否を見極める、ある意味では人の主たる者に取って最も重要な判断を正確に下した御蔭で長州は思う存分活躍する事が出来たのである。
更にこの晋作の奇抜な所はこれだけの大成功を収めたにも拘わらず、このクーデターの直後に藩外へ出て行った事である。彼の言い分によると、
「人間と言う物は艱難は共に出来ても富貴は共に出来ぬ物じゃ」
との事であったが、それも彼が上士出身のお坊ちゃんで元々権力に執着が無く、また藩主親子に可愛がられているから気が向けばいつでも長州藩内でのし上り、好き放題にその辣腕が揮えるからでもあろう。もし、彼が卑賤の出身で如何に才能が有ってもそれを使う場を与えられない立場ならこう言った思い切りの良い俊敏な活動は無理だったはずである。それこそ土佐藩で郷士にでも生まれていれば切れ者であればあるだけ危険であった。
この藩内クーデターに際し、禁門の変の時と同様池内蔵太が駆けつけ、五人の土佐浪士と共に洋式船葵亥丸を操作して海上から長州勤王勢力を援護した。
「ほうか、池さん、蛤御門の時にも活躍しはったんでっか」
久しぶりに、と言うほどでもない、半年も経っていないが色々有った為に海軍操練所を抜けてから三年くらい会っていないように感じた為、猛達は妙に懐かしい思いで内蔵太と語らった。
因みにこの正月には目出度い一方、前年末に捕えられた水戸の天狗党が先に述べたような残忍な処刑を加えられると言う悲劇も起こった。