続く元治元年 〈其の六〉
別に意味も無い事だが、隼人はこの急激な変転の中で矢張り京を発ち、一路長州へと足を向けた。無論猛も一緒である。何かある度に右から左へ慌しく動いては手におえない事態の前にいたずらに身を翻すだけなのである。山陽道を通っての旅の最中、岡山では倉敷に宿を取った。ここで大橋の若旦那の所に厄介になったが、これが途方も無い厄介事に巻き込まれるきっかけとなったのである。
この若旦那、生まれつき正義感が強いと言うか激情型の善人で、三国志演義などを読んでいて口から血が流れるほどに歯を食い縛ったりするほどに興奮すると言うからその激しさも分かろうと言う物である。おまけに前年の天誅組の乱の後、騒動の有った場所を回って義勇兵をしのんだりしたと言うから、この二人が天誅組の生き残りだと知るとまるで賓.客のように下へも置かぬほどにもてなし、しきりと天誅組の武勇伝を所望した。猛は兎も角、隼人に取っては気分の悪かろう筈は無い。この若旦那のあまりに無邪気な喜びように、隼人など有ろう事か例の木像事件の事まで話し出したから猛の方が慌ててしまった。若旦那は酒以外の何かに顔を紅潮させて益々興奮した。
「それで、先生方」
苗字帯刀を許されたこの中島屋の若旦那、大橋敬之助は猛たちに何やら思い詰めた表情で話を持ちかけた。その迷いを知らぬ純粋な眼差しに猛は思わず悪寒が走った。今のご時世、この手合いはその至純の情熱を貫く為に思い切った飛躍も吝かでないと簡単に先走ってしまい、何を仕出かすか分った物ではない。その見本のような男とコンビを組んでいるだけに反射的に警戒心が働くのだ。
「実は、この倉敷には怪しからぬ賊徒が居りまして」
「ほう」
類は友を呼ぶと言うのか、若旦那の真剣な表情に隼人も引き込まれるように額を着き合わせた。猛の心配は益々募り始めた。
「是非とも、この奸賊に天誅を加えたいと存ずる次第」
「成る程」
隼人は深々と頷いた。猛は早くも腰が浮いている。
「つきましてはご両所の指図を仰ぎ、お力を拝借致したいと思い、不躾ながらここにお願い申し上げまする」
「うむ」
「ちょ、ちょっと待ってや」
若旦那の申し出に隼人はいとも無造作に頷いたが、猛は慌てて口を挟んだ。
「賊徒はええけど、それは一体どこの誰で何を悪い事しよったんでっか」
「これは失礼仕った」
若旦那が慇懃に頭を垂れた。
「物事をお頼みするに何も話さずご助力を申し出るとは何ともご無礼の段、平にご容赦を。さすればお聞き願います、相手はこの倉敷の奸商下津井屋__」
若旦那は事の次第を話し始めた。嘉永のペリー来航この方、安政以来幕府の限定開国により諸物価は高騰し、庶民の生活を直撃し、特に昨年の天誅組騒ぎに引き続きつい最近の禁門の変によって米価が更に跳ね上がった。
「えろうすいまへんなあ」
彼の希望ではない物の、やむなく天誅組に加わって騒ぎに参加した猛が申し訳無さそうに頭を掻いた。
「いえいえ、滅相も無い」
若旦那がかぶりを振った。
「その下津井屋、価格の高騰に付け込み米を買い占めて暴利を貪り、ここ倉敷の庶民は三度の飯さえ食いかね、餓死者は後を絶たず__」
若旦那は歯を食い縛り、固く目を閉じて言葉を切った。隼人も釣り込まれて息を詰めたように頷いている。猛は情け無さそうに項垂れた。
「そればかりでは有りませぬ、この非道を代官所に訴え、一度は下津井屋に検断を下したにも拘わらず、新しく着任した代官はかの賊商めに鼻薬をかがされ下津井屋は放免となり……」
悔しさに身を震わせながら若旦那は俯いた。彼は庶民の難儀を見かねて巨額の私財を投入し、漸く数々の証拠を提示して“奸商“下津井屋を獄に放り込んだにも拘わらず、贈賄の前にあっさりと道義を踏み躙った代官を激しく憎悪していた。
「幕府は腐りきっております」
「全くだ」
若旦那の義憤に隼人も頷いた。
「故にこの下津井屋並びに代官桜井久之助めに誅を加えたいと思い、こうやって打ち明けた次第」
うむ、と隼人は鼻息荒く頷いた。猛は心の中でもうアカン、と呟いた。
大橋敬之助が妻子を置いて中島屋を飛び出したのが元治元年十一月末、その二十日余り後の十二月十八日には同志九人とともに若旦那は憎き“奸商”下津井屋に天誅を加え、亭主吉左衛門と息子寿太郎を斬首にし、火を放って逃げ散った。
“またやったあ!”
度重なる“天誅”に立ち会う羽目になった猛は頭を抱える思いだった。
猛たちとは別行動を取った若旦那は大阪に出て、その後尊王思想家で長州に知己の多い倉敷の富商林孚一を頼り、その脚で長州藩領に入った。この時若旦那は母方の実家立石家の先祖、立石孫一郎の名を名乗り、第二奇兵隊の銃隊長に抜擢されたが慶応二年、隊を無断で動かし、仇の片割れであった倉敷の代官所を襲ったが肝心の代官桜井は外出中で本懐を果たせず、その後長州藩領に戻った所で射殺された。
幕府による長州攻略は薩の西郷などの硬軟織り交ぜた外交手腕により形ばかりの出征となり、十一月十八日を攻撃の開始と決定した物の実際には戦闘は行われる事無く、十二月二十七日には解散となった。
四カ国連合艦隊に降伏した長州は家老三人の首を切って幕府に恭順を表明し、“正義派”の領袖周布政之助も切腹、井上聞多は刺客に教われ瀕死の重傷を負ってそれに危険を感じた高杉晋作は伊藤俊輔と共に藩外へ身を隠した為、幕軍総督徳川慶勝は外国の介入を警戒して敢えて戦闘を控えたのである。しかし、一旦避難した晋作はすぐさま藩内に引き替えし、奇兵隊を動かして十二月十六日には馬関奉行所、三田尻の海軍局を占拠して着々と藩内クーデターを計画していた。この続きは翌慶応元年、即ち元治二年に持ち越される。