続く元治元年 〈其の四〉
七月十二日、薩摩兵四百が入京し、緊張はさらに高まった。この、長州と並ぶ倒幕勢力の一方の雄であった九州の雄藩が前年八月に会津と手を組み、宮中における親長州勢力を追い落とした事は既に述べた。長州勤王勢力は失った信頼を回復すべく言葉を尽くして朝廷に陳情し、無邪気なくらい懸命にその意の有る所を説かんとしたが、悉く拒絶された。この頃の長州は未だ素朴な勤王思想と攘夷主義をより所に行動するだけの団体でしかなかった。さらに彼らに取って悲劇的なことは、時の天皇である孝明帝が実は固陋な佐幕家で、公武合体という穏健思想を好んでいた事であった。長州勤王思想と言うのが元はと言えば階級否定の平等思想を、当時の流行によって偽装した方便である事も先に触れてある。大日本帝国憲法をして、天皇主権と言うその一点のみをついて文字通りの帝国主義だとか専制君主独裁だと非難する向きも多いが、実際はそのような単純な物ではない。徳川幕府の身分制度によって三百年近くも縛り上げられた人民の体には骨の髄まで封建的身分意識が染み付いており、これを払拭して四民平等の世を実現する為には、浮世の全ての権力や権威を超越する絶対的な存在が必要なのであった。欧米における民主主義というものは、キリスト教的一神教によって世俗的階級の全てを否定する事から始まるのであり、根っからの無神論国民である日本人にはその為の宗教的背景が無かったのである。恐らく欧米を視察した伊藤博文などが熟慮した結果だろう、天皇と言う存在を幕末から引き続き階級否定の軸とすべく法制上の主権を与え、その神聖権威を存続させる事になったのである。純粋な勤王思想からすれば、天子を道具の如く扱い、あまつさえ下々の者が分際を弁えずお上を蔑ろにする許し難き輩と言えるのかも知れないが。只、これも一事の方便として必要だっただけであるのに、国内における権力争いの道具として天皇が利用され、第二次大戦における軍部の暴走を引き起こした事もまた事実であった。天皇制民主主義という変形政体の頂点とも言うべき現象が所謂大正デモクラシーであり、その後坂を転がり落ちるように綻びが露呈し、限界に達したのが昭和陸軍の軍事独裁という結末と言えるであろう。矢張り皇室とか王室などと言う制度は権力の集中を容易にシステム化させる危険な存在であり、なろう事なら無い方が良いのでは有るまいか。
長州と言うこの革命勢力の両巨頭の一角でさえ藩内は倒幕佐幕の二色に分断され、常にこの両派のせめぎ合いが藩政を左右していたのである。倒幕勢力の方は村田清風を出発点とする一派で後に吉田松陰とその門下生たちに引き継がれた“正義派”と呼ばれた、自ら称したグループで、その反対勢力は“俗論派”と呼ばれた。無論“正義派”が呼んだのである。現在正義派の首班と言えるのが家老の周布政之助で、彼は故吉田松陰のシンパの一人であり、今は桂小五郎とともに高杉晋作や久坂玄瑞などのまとめ役、いや、抑え役に回っていた。
同じ革命勢力でも薩摩は完全に利害だけで行動を決定し、長州の如きヒステリックな小児的理想主義などを振りかざす事は無く、とうとう倒幕の“同志”であった筈の長州を策謀を持って蹴落とすほどの非情な決断をやってのけた。長州倒幕勢力の根を洗えば、先に述べた下層民による階級闘争であると同時に、安政の大獄の巻き添えで殺された吉田松陰の敵討と言う感情が非常に大きかったろう。特に松陰の主席門下生とも言うべき高杉、久坂の両名はその感情が強かったに違いない。若年揃いの倒幕グループに有っては相当の年長者だった来島又兵衛に率いられた長州軍二千が京を包囲したものの、彼等はひたすら嘆願を繰り返すばかりで一気に攻め入ろうとしなかった。この時長州軍がいち早く洛中を陥れ、朝廷を握っておれば状況の変化とともに流れも変わり、或いは大分違った形で明治維新が訪れたかも知れない。そのまま一気に倒幕に持ち込むのは不可能として、持久戦に持ち込めば或いは相当有利に事が運んだのでは有るまいか。しかし、所詮仮定は仮定である。兎も角も、入京した長州隊は中途半端な地点でいたずらに時間を潰し、乾坤一擲の大勝負であった筈のこの進発でしくじり、決定的に京都政界から失墜してしまったのである。
七月十八日にはついに双方、具体的には長州対日本中の武家大名の連合軍が激突し、世に言う禁門の変は、諸藩連合軍の圧倒的な兵力の前に長州軍の惨敗に終った。結局頑強な包囲を突破して御門の前まで到達したのは八百人ほどであったが、それでも数で劣る長州軍は果敢に戦い、当時の記録に寄れば、
「牙軍(幕軍)及び諸藩の兵また敗る」
と言う有様で、特に会津のうろたえ方は無様そのものでこの時の屈辱のせいであろう、その後は病的なまでに各戦場で凶悪化し、会津若松城の篭城戦において少年までを徴発し、白虎隊の悲劇を生んだ。薩摩の狙撃兵が長州側の指揮官来島又兵衛を仕留める事によって漸く長州兵の士気が後退し、壊乱したのである。その騒ぎの中に有って、矢張り猛と隼人は何も出来ずに手を拱いているうちに、長州の敗走兵が雪崩を打つように京から脱出して来た。長州人が逃亡し、幕軍が追い回す大混乱の最中、猛たちは何も出来ずに右往左往するばかりで長州の助っ人所か自分達の安全さえ確保するのも困難な程であった。
この時、新撰組や会津兵はここぞとばかりに敗残の長州兵をいたぶるように嬲り殺したが、薩の西郷は捕らえた長州人を捕虜として扱わず、怪我の手当てなどを施して保護したのであった。この頃、既に西郷の頭には将来の薩長連合の構想が漠然とでは有るが浮かんでいたのかも知れない、恐らく間違い有るまい。自分で蹴落とした長州に対して難分と勝手な態度ではあるが、それが政治と言うものである。この戦いの後、余りの変節振りに土佐の中岡慎太郎などは西郷に対しその真意を問い質した位で、如何に政治とは言え周りの目からは矢張りこの薩摩の豹変は異常な物と映った模様である。その薩摩が今度は壊走する長州に手厚い施しを行い恩を売ろうと言うのだから、彼等の面の皮の厚さと言うのは信じられぬ程である。
京から落ち延びた長州兵を大阪警備の諸藩も捕らえたが、例の鍵屋の親分も他の幕兵と違い、長州の敗兵を殺しも捕らえもせず逃がしたのである。矢張り市民の感情は“長州贔屓”なのであった。逃げたのは長州兵だけではなく、京の市民もまた戦災にあって避難した。
この敗戦で倒幕派が失った重要人物は長州の来島又兵衛を始め久坂玄瑞が死亡、桂小五郎が行方不明、周布政之助が腹を切り、長州出身ではないが真木和泉などが戦死した他、六角獄に捕らえられていた、隼人も関係した例の木像事件の下手人たちもこのどさくさに紛れて殺された。
弱り目に祟り目という言葉の通り、蛤御門で敗走した長州に対し、昨年の砲撃事件の報復に乗り出した米英仏蘭の四カ国連合艦隊が豊後水道姫島に終結し、砲戦陸戦で散々に長州側を叩きのめした。長州の擁する砲台七十門は悉く旧式の青銅砲で、射程距離がせいぜい1kmという代物であった為相手に全く痛手を与える事が出来ず、いとも簡単に各砲台は破壊され、占領された。面識は無いが、猛に取っては適塾の先輩で長州の翻訳官村田蔵六、後の大村益次郎はこの結果が見えていたらしく、
「我が方の七十門は西夷の一門だにも匹敵しない」
と辛辣に予測していた。
隼人に取っては、先の木像事件の同門の悲劇に続く痛憤であった。
前年五月に幕府には秘密で英国に渡航していた井上聞多、伊藤俊輔らはこの騒ぎをロンドンタイムズで知り、留学の期間にも関わらず急ぎ日本に帰国、伊藤は通訳兼折衝役として英艦に乗船し、井上は上士の身分で有った為藩主及び重臣一同に開国を進めたが攘夷攘夷でいきり立った藩内の空気に圧されて受け入れられなかった。所が先の禁門の変で勢い付いた幕府は長州征伐を発表、七月二十三日にはその為の勅命まで受け、腹背に敵を受けては戦えぬと言う訳で四カ国艦隊に対し、休戦を申し込んだ。この時の長州側の交渉役は高杉晋作で、彼は持ち前の機転でこの難しい局面を乗り切り、英国側はこの人物の見識に好意を抱くに至った。フランスが徳川幕府に私的に__幕府と言うのは実は公的な政治機関ではなく徳川家という私的な存在である__接近したのに対し、イギリスは薩長の、所謂雄藩との関係を強めるべく方針を固めたのである。薩摩に続いて長州もまた秘密開国方針に切り替えたのであった。