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時に文久三年 〈其の一〉

「天誅!」

ここは大阪、天満橋。神社の境内に相対した二人の男。

文久三年__黒船騒ぎ、所謂ペリー来航から既に約十年が経っている。その十年の間に安政の大獄が強行され、その首謀者の大老井伊直弼が桜田門外で暗殺され、その余勢を駆って世間では相変わらず“天誅”と称する私刑事件が頻発し、幕府の変則的開国政策に伴うインフレが庶民の生活を直撃し、この前年横浜で生麦事件が起こり、混乱続きの国内で今また奇妙な事件が突発した。

二月二十三日の事である。京の三条河原で例によって例の如くまたもや天誅による梟し首が陳列されたのだが、今度の被害者はいつもとは趣が違っている。人間の首ではない。木像の首なのである。

「捨てては置けぬ」

京都守護職松平容保は色めきたった。人間の首が幾つ切り取られてもそれ程とは思わなかったこの温厚な会津中将様が、木像の首三つで血相を変えその下手人の探索に血道を上げる姿を奇異に思うのは、我々が人権思想の普遍化した時代に生きる幸せな世代であるからだろう。何故なら、この時梟されたのは、尊氏、義詮、義満と言った、室町幕府初代から三代までの将軍の首なのである。譬え木像とは言え、征夷大将軍の首を梟すと言うのは武家政治の頂点に君臨する幕府に対する重大な挑戦であり、斬奸状には徳川将軍家に対する弾劾までが書き記されてあった。要するに江戸幕府が現状を改善できねば現政権の首長である徳川家茂もこの通りであると布告した訳である。尤も彼等が非を慣らしたてているのは専ら天皇陛下に対する無礼であり、昭和平成の如き民主主義的観点からの追及ではない。江戸を発った家茂が三月四日、京に上る事になっており、四月十一日には石清水八幡宮に於いて天皇陛下直々に節刀を受け “攘夷”を全国に宣言する事になっている。将軍の身に万が一のことがあっては只でさえ桜田門外の変よりこの方衰退する一方の幕権が決定的に失墜する事になろう。犯人グループの中に会津の間者が混じっており、程なく関係者は捕縛されたが、その中で逃れた男も何人か居た。

「あら、あんたの仕業やったんか」

藤岡猛は好奇心とも何とも言い難い感情を顔に出しながら、目の前で柄に手を掛けていきり立つ、典型的な攘夷志士を見分していた。

「黙れ、洋夷の手先」

猛は奇妙な気分である。言われてみれば成る程、一時期緒方洪庵の適々斎塾、俗に言う適塾に身を置いていたのだが、すぐに落ち零れて辞めてしまっていた。以来、別に熱心に開国思想を説きまわったりするような活動をした憶えも無いのだが、この手の憂国運動家に取っては、それだけでも許し難い売国奴と言う訳なのであろう。それに、蘭学の方は挫折したが、その後も横浜の開港場に出かけたり、元の同門の洋学者と時勢についてあれこれ喋ったりしているし、口には出さねど彼も一応消極的開国派なのである。いや、開国というより外国と戦うのなら相手の武器を知らねば為らぬと言う考えの、開明的攘夷主義とでも言う立場なのであった。目の前の右翼的国粋原理主義者の如き現実離れした感覚では本土防衛などは夢のまた夢でしかない。

「まあ、落ち着け」

猛は出来る限り穏かに言った。この手の所謂“志士”に幾ら理屈を言っても始まらない。それよりも、当座は気持ちを落ち着かせる事が大事である。

「今から、貴様に天誅を加え、軍神の血祭りに捧げてくれる」

「くれんでもええ」

「ふざけるな、良いな、覚悟は出来ておろうな」

「出来てへん」

落ち着いて答える猛を、志士は物凄い眼で睨み付けた。無理も無い。幕吏の追求を掻い潜って日に夜を継いでの逃亡で、神経もささくれ立っているのだろう。さして手柄にもなりそうに無い猛の首などを狙うのは、恐怖心の裏返しなのだろう。

「ならばその腰の物を抜け。洋夷に魂を売り渡した奸賊とは言え、武士の情けじゃ、尋常に剣を交えてからその首を梟してくれる」

「これか」

猛は言われるままに腰の大小に手をやった。

「こんなモンどないすんねん」

すっと鞘から抜いたその得物を目にした時、志士の顔色が変わった。無理も有るまい、鞘から覗いたその得物は、万に一つも見紛う事も無い正真正銘の竹光であった。銀箔さえ張っていない、一目で判る程完璧な竹光である。

「おのれ、貴様」

攘夷志士が色をなして喚き散らした。

「醜夷に内通したばかりか、武士の魂までも。もう許さぬ、今ここで成敗してくれる故、そこに直れい」

本居宣長の系統から広まった平田篤胤の国学思想に身も心も捧げ尽くした純情一筋の国士としては、洋学かぶれのこのような仕様に逆上するのも無理は無い。

「魂ねえ」

猛は静かに、初めて凄味のある笑いを見せて志士を威圧した。その気合に志士も思わず緊張して身構えた。猛が最初に想像していたような弱腰の洋学者ではないらしい事を直感したのだろう。だが、日本国の神聖を守護する攘夷の先駆けとして、このような穢れた売国の奸物に怯む事などは断じて出来なかった。

「俺の魂はの」

猛はドンと胸を叩いた。

「ここにあるんや」

猛の周囲で手応えの有る気合が徐々に厚みを増してくる。光り物を振りかざした兇漢が目の前で吠えているのである。流石に緊張もしようと言う物だ。相手を刺激するのも拙いが、この種の狂人は気合負けすれば即座に斬り掛かって来る。呼吸を合わせながら、静かに相手を抑え付けねば命取りに為りかねない。  それっきり、猛も志士も何も言わなかった。

両者の間に、掴み所の無い緊張感が蟠っている。

志士は正眼、猛は自然体である。

追い詰められて緊張はしている物の、その佇まいは実に堂に入った、重厚な物である。どうやらこの志士は既に幾人かの奸賊に“天誅”を加え、人を斬った経験も経て来ているらしい。生まれてこの方人の一人も手に掛けた事の無い猛などとは物が違うらしい。かと言って、このまま大人しく大事な一命をくれてやる訳にも行かない。丹田に気を撓めると、猛も力を抜いて相手の襲撃に備えた。ふ、と猛の気が弛んだ。油断ではない。わざとそうしたのだ。ギリギリまで緊張していた志士は、その誘いに乗って弾かれるように動いた。地を滑るように間合いを詰めると、中段に構えた刀を真っ向上段に振り被り猛に一太刀を浴びせた。柳に風と言う感じで体をかわした猛が志士の側面に回りこむと、志士は振り下ろした刀を横に払いながら猛との距離を取った。刀を振り切った直後は危険である。再び正眼に構えた志士が、一層厳しい、殆んど狂気に近い目で猛を見据えた。相変わらず力を抜いて志士に対する猛は、ややゆとりのある気配で立っていた。再び志士が斬り掛かった。二の太刀、三の太刀と続け様に斬り掛かるが、何れも外され次第に疲労して来る。竹刀等と違い、重い金属刀はそう何度も振り回せる物ではない。既に十回以上もそれを繰り返したろうか。重い得物を振り回す志士に比べて、竹光を帯びただけの猛は身軽な物で、かわす時も有利だし疲れも殆んど無い。既に水を被ったように汗だくで息を切らせた志士を事も無げに見詰る猛は、やおらにやりと笑った。その笑顔が志士を逆上させた。無論、相手の怒りを誘う為である。元々精神的に不安定だった上に渾身の太刀打ちも悉くかわされ、益々焦りが昂じ易々とこの誘いに乗ってしまった。歯を剥き出しにして撃ち掛かって来た所を、今度はかなり際どい間合いで避けた猛が素早く竹光を引き抜くと、右小手に鋭い一撃を加えた。竹光とは言え縦に打てば剥き出しの手首には堪えるし、猛の一打ちは素人のそれではない、手練の妙技である。志士はそれでも柄を離さなかったが、最早その剣技を思い通りに振るう事は不可能であろう。猛は素早く身を引いて間合いを確保した。

「く__」

筋違いな怨みの視線を猛に向けると無念げにうめいた。

“全く”

猛も何やら気の毒になって来た。赤く腫れた手首に手も当てない根性は天晴れ大和武士と言った所だが、ここまで依怙地だと可愛げがない。何を思ったか猛は懐に手を入れた。

「お!」

袂から引き抜いたその手に握られた重々しく黒光りする硬質な代物を目にした時、再び志士の怒りに火が着いたのであった。無理も無い、猛が懐から取り出した物、それは紛う事なき短筒、アメリカ製のリヴォルバー拳銃であった。

名銃コルトドラグーン。

形式名称コルトM1848、口径・44パーカッション先込め式シリンダー拳銃。三年前の1860年に米陸軍の制式標準装備から外された六連発拳銃で、アメリカ国内で大量にだぶついている為、ただ同然の筈のこの銃を東洋の未開国に高値を吹っかけて売り着けて暴利を貪るぼったくりのメリケン商人から買った物である。

「己、奸物、とうとう本性を顕しおったな」

“本性て何やねん”

猛には、全く理解に苦しむ精神構造であった。

「良いのか」

「何が?」

「こんな所で鉄砲など撃てば御定法に触れるぞ」

“何が言いたいんや”

悔し紛れに何を言い出すかと思えば、辻褄の合わぬ事を。最早頭が正常に働いていないのだろう。

「貴様も役人に捕縛されるぞ」

「斬り殺されるよりゃ、マシや」

脂汗を流しながら目を剥いた志士に銃口を向けると、猛は親指で撃鉄(ハンマー)を引き起こした。チャキっと詰まった音を立てて、シリンダーが動いた。志士は異常な憎悪の視線を猛に浴びせていた。その時__

猛は、ふっと短筒をしまった。志士は怪訝そうに眉根を寄せた。

「もうええ、終わりや」

猛が努めて穏かに言った。

「早よ逃げい、あんたも役人に追い立てられて大変やろが。こんなトコでワシみたいな物の数にもならんカス相手に撃ち殺されてもしゃあない。俺とあんたは行きずりに会うただけや、以後は全く無関係。あんたはあんたで攘夷でも何でも、好きにしたらええが」

 そう言い捨てると猛は志士に背を向けて歩き出した。志士は歯を食いしばって立ち尽くしていたが、やがて怒声を発すると猛に斬り掛かった。

「逃さんぞ、奸賊!」

 声で予告してから志士は、猛然と猛に突っ込んできた。右手の痛みを堪えて懸命に背中に撃ち掛かった一太刀を横に飛んでかわすと、猛は振り向いて志士に応じた。志士が再び太刀を振り上げた時には猛は既に相手の懐に飛び込んでいた。

「ぬ!」  

断末魔のうめきを上げた志士に、猛の右拳が強烈な当身を食らわせていた。太刀を振り被った姿勢の時は完全に無防備で、呼吸も吸った状態になっている。息を吸うと打撃に対する耐久力が落ち、軽い当身でも効果が上がる。

「ぐ……」

 志士は無念げに唸ると、焦点の定まらぬ目を虚空に向けたままドウと崩れた。

「アホ」

 猛はウンザリする思いで足元の厄介者を見下ろした。

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