8
雪華の塔は堅牢な砦。幼子を攫うという精霊の迷い道のように、構造を知らぬ者には遭難もする迷路。
その奥まった場所でありながら美しい中庭に面して大きく窓がとられた皇帝の私室に、彼女は申し付けられた通り紅茶と珈琲を運んだ。
行儀見習いの名目で出稼ぎに来た古く名ばかりの貴族の令嬢として、それなりに働ければ良かったのだが。
厨房の下男下女たちと仲良くなったり、給仕した文官たちとちょっと話をしたらその考えはなかった他にもないかと言われて何度も足を運ぶようになったり、そのせいで家格もあり本当に行儀見習いでやって来ている他のご令嬢たちに爪弾きにされたりしていたのだが。
ある日突然、侍女長にお手伝いに行ってねと派遣された先が、塔の中で話題沸騰中である皇帝陛下のご寵姫様のところだった。
何かしてしまっただろうか。
他にも突然抜擢されたらしいご令嬢や侍女や元から皇帝陛下についていた女官や果ては中級使用人までが呼ばれていて、ご寵姫様に「よろしくね」なんて言われた。
金色の髪のお姫様は、皇帝陛下に「金糸雀」と呼ばれていて。
それは噂で知っていたけれど、本当に、本当に陛下に大事にされていて。なのに「高貴なご夫人をお招きするから、みんなも頑張ってね」と、塔の使用人がびっくりするほど自分の足で手でその支度の采配をしていた。
ちなみにラウル王国の言葉が話せると言ったら、大量にやってきた珈琲豆を受け取ることになった。その後の交渉とか文書のやり取りとか任せてくれたけれどいいのかなと思いつつ。
お茶会の当日には、手伝いに来ていた人がほとんどいなくて四人だけが給仕にあたった。
ご寵姫様の、金糸雀姫の侍女選抜だったんだなと理解したが、自分が選ばれたのはどうしてかわからない。
もちろん嫌ではない。お給金はいいし、金糸雀姫は綺麗だし、どんなお色が似合うか考えるだけでも楽しいし、今までのように厨房を出入りできるし。厨房で何をしているかというと、金糸雀姫が口にする食べ物の選定や取引先とのやり取りも少ししている。
姫が食べるものはつまり皇帝陛下が召し上がるもの、と気付いた時は震えたが、よく考えればお茶会に出した物もそうだった。なので真摯に取り組むしかない。
お茶会の後から、皇帝陛下は珈琲がお気に入りだ。
なので部屋に持っていくのは金糸雀姫の紅茶と、皇帝陛下の珈琲だ。姫は皇帝の私室で過ごしている。
言われた通りに茶器を運んで、扉を叩こうとしたら向こうから勝手に開いてくれたので少し驚いた。
扉を開けてくれたのは、ふわふわと人の目線の高さくらいを飛んでいる赤っぽいのと黄色っぽい光の玉だ。たぶん炎の塊なのだろうが熱を感じないし、綺麗だから光の玉でいいと思う。
扉が開くと、中から美しい鳥の鳴き声がもれた。
金糸雀姫の歌声。
静かで綺麗で遠く、遠くの故郷に聴こえて欲しい伸びやかな声だ。
精霊が開けてくれたから「どうぞ」でいいのかと中に入ると、皇帝の執務机より奥の、ふたつ並んだ出窓のひとつに二人がいた。
白い皇帝が窓台に腰掛けて、その膝に金糸雀をとまらせて、飛んでいってしまわないように両腕で腰を支えている。
月明かりを浴びた姿と、光の玉みたいな精霊が周囲を飛んでいるせいで、素敵を通り越して神々しい。
夜なのに眩しくて目がつぶれそう、と何度か瞬きしていると、皇帝が茶器を持ってきた侍女の存在に気付いたようだった。
小さく笑って。人さし指を自分の唇の前に立てて「静かに」と示し、それからテーブルを指した。
神々しいっていうか、尊い。
あくまで瞬きだけに留めて表情を崩さないことに全身全霊をかけ、姫の歌声をさえぎらぬよう音を立てずにしかし素早く準備をしたらすぐに退室した。
扉を閉めてからほう、と溜息をついたら、護衛で立っている軍人たちがぬるく笑ってくれた。金糸雀の歌声は聴こえただろうから、同志よ!と心の中で伝えて微笑み返しておいた。
この後は、慌てず騒がずゆっくりと侍女長に見つかっても怒られないよう優雅に、自室に帰って。金糸雀姫付きの侍女たちを集めて。「今日の陛下とご寵姫様」という議題で今夜も盛り上がるのだ。
細い余韻を残して歌が終わると、ル・クリフ皇帝は自分の大腿に留まらせていた金糸雀の腰を抱え直した。
「ヴァインの古語だな。故郷に帰りたい唄か」
「いいえ、子守唄です。眠る子が精霊にさらわれてしまわないよう、精霊たちに帰りなさいとお願いするのです」
「解釈の違いだな」
というか子守唄か。寝ろという事か。
最近では人並みに睡眠をとっているし、隣に人の体温があるからか質も悪くない。よく眠れている。だがまともに執務しているとこうして顔を合わせていられる時間は実は少ない、もったいないのでもっとよく見ていたいのだ。
「ルーク様。珈琲が冷めますよ」
薔薇色の爪先をもつ指が白い髪を梳くように撫でた。最初は怖々と触れていたのがそれなりに慣れたのか、するすると滑り細い髪を耳にかけたりして遊ぶようになった。
「……もう少し」
頭を倒して薄い肩にのせると「ひゃ」とおかしな声が聞こえて、それに笑みがこぼれる。
「くすぐったいです」
「そう、してるからな」
「いっ…たいです。それ、やめてください」
「リールの肌は白いから、目立つな」
「……だからです。ドレスどうしましょうと毎朝言われる身になってくださいな」
リールが選んだ気のいい侍女たちは「ドレスで隠れる場所につけるよう姫君から言ってくださいません?」とまで言ってくれるのだが、それはさすがに口にできない。
人の肌に痕をつける、という行為を覚えたル・クリフは隙あらばそれを残そうとする。首筋や胸元はもちろん、手首や腕や、先日ついに膝裏につけられた時はさすがに逃げた。ロクスウェル・フォロウ大佐を伴って皇帝の執務室から遠い軍司令部内に篭城していたのだが、まあ、日が暮れる頃にあっさり捕まった。
それ以上はしないのだから、これくらいは許せと笑うル・クリフに、リールの方が押し黙った。
ル・クリフ皇帝が男女の関係に踏み込まないのは、慣れないリールへの貞操の誓いではなく、皇帝の子という影響力に配慮したのでもなく、自身が成した子がどうなるか予想もつかない、という懸念からだ。
白い毛並みに赤い目玉。無属性の精霊。
人に見えて人ではない。ル・クリフは精霊だ。
伝説のように語り継がれる大陸の建国物語には、神の子が王となって国をつくっただの、狼の子を身篭った乙女が獣人の始まりだの、精霊の花嫁になった姫が国を繁栄させただの、事実をどう比喩してそうなったのか難解な話が多々あるが。
比喩ではなく今この事だ。精霊と人の間に生まれる子が「なに」であるか、ル・クリフ自身もおそらく世界に幾人かいる賢者たちにもわからないのだ。
だから触れるだけだ、と。白い精霊はリールの肌に赤い痕を残していく。
それも服で隠れない、つまり寝間着を正しく着込んだ状態で触れられる所にしか残されなかった。なのに、先日は膝まで見られた。
「……いかんな」
これが親愛の行為だなんてリールだって思っていない。
男女の情か執着の証だ。
「あの時、不用意に触れるのではなかったな」
首筋にあった唇が上がってきて耳殻に触れたので、ぞくりとするほど近くで声がした。
あの時?と訊ねようとして首を回した。離れたかったのに頭の後ろを掌で支えるように包まれてしまい叶わなかった。しかも近い。
「姫を、リールを捕らえようと焦っていたから」
「ルーク様が、ですか」
焦る、とはまあこの皇帝に似合わない言葉だ。しかもリールを捕らえる時だと、記念式典の夜会で、夜の庭園で、簡単に精霊シシィを弾いて悠然と現れたアレが慌てていたと。
記憶をひっぱり出してもまったく思い当たらず、目を伏せたその視界で、月明かりを浴びた白い手が耳の後ろからやってきてリールの唇を示した。
「触れなければ知らずに済んだのが、……悩ましいな」
ふに、と親指で下唇を押されてさらに記憶を漁る。氷の精霊を飲みこんだせいで記憶が曖昧ではあるが、寒くて、ええと氷漬け、だからそれは氷の魚を飲みこんで。
うんどうやって?
「ーーーあ」
ル・クリフから口移しで氷の魚を「飲まされた」事を思い出して声にしてしまった。
ああ飲まされたかも、いやそうなんだけど、リールはその時もう意識喪失一歩手前の低体温だったので曖昧というか忘れていたというか、そうか、今まで唇には触れてこないなと思っていたが。
最初にル・クリフ自身が宣言していた、アレだ、途中でやめてやれる自信がないというヤツだ。
だからキッカケになるような唇にはわざと触れなかったのだ、なのにこの間は人の夜着めくってまで脚をつかんでくれたような、ええと人の体は食欲と睡眠欲とそれが健全になったからソレもご健康になったんですね、とか考えてしまう時点で負けているような。
とりあえず顔も耳も首までだって熱を持って真っ赤になっている自覚は、リールにだってある。
あるから笑うな、とは言えないけれど。
「そう可愛らしい反応をするな。私を試しているなら相当に質が悪い」
「……していません」
「わかっている、ただまあ雄としては耐えがたい姿ではあるな。早く諸々を片付けてラルスを呼ぼう。そうして存分に愛してもらえ、身も心も。子を産んで、ああ男子が二人以上必要だな、どの程度の期間で授かるものか」
また、この皇帝は大事なものを愛でる表情を浮かべながら決定事項を述べる。
精霊と人の子が「なに」になるのか。
わからない。ただ世界の異物である事は確かだ。
ル・クリフのような。
だからリールからは言えない。
すべて、すべてがこの皇帝のものになれたら、拗らせた執着を殺せるから。だから奪って欲しいと思いながら言えない。
軽々しく口にすべき問題ではない。そして本心であっても未練があるからなのだろう。
ラ・パルスには血統を継ぐための正しい婚姻をしてもらいたい、という事も。
何度考えても、どうめぐっても、それが正しいはずなのに胸が痛い。肺に穴が開いて体がしぼんでいくみたいだ。きゅうきゅうと内側に向かって吸い込まれるように痛むのに、涙が出る。
縮こまる姿勢で耐えていると、大概はル・クリフが抱きかかえて眠ってくれる。だからこの思考は正しいはずだ。
なのに痛い。
「……珈琲が冷めたな」
仕方ないから眠るかと確認をすると、リールはこくりと頷いた。
膝裏に腕をさし入れて寄りかかる体勢にしてやれば素直に首に巻きついてくる。
華奢な体を持ち上げて寝台に運ぶくらいの腕力はル・クリフにもあるが、肩に腕が乗って体を固定してくれた方が支えやすいのは確かだ。フォロウ大佐のように、片腕だけで持ち上げてやれるような力はさすがにない。(軍部に篭城された時に連れて来いと命じたらリールを片腕で持ち上げていた、土嚢よりは丁重な扱いだったが確実にその持ち方だった)
寝台の清潔な布の上に降ろしてやっても巻きついて離れないのは困ったが。
何を試されているのだ。忍耐力か。本能を制御する理性か。
ふ、と自嘲するような息を吐くと離れはした。したけれど耳まで赤くして伏せた金色の睫毛にうっすらと涙の滴が散っていればそれは。
耐えるのがばかばかしい程の誘惑だ。
肉欲など薄っぺらいと自覚していたはずなのに、自身のような異物から子を孕ませる気など毛頭なかったのに、頭の中がぐらりと揺らぐ。もう子ができたのなら堕胎させればいい、そんな考えに及ぶ。
だが「それ」は本当に死ぬだろうか。
それでリールの胎が傷つき失うことになったら?
「その時は死ねるかもしれぬな」
不穏な言葉にリールの喉がひゅっと息を呑んだ。それでいい、それで耐えられる、愛しい気持ちを否定しないでいてくれるなら、それでいい。
「朝に、珈琲を頼みましょう」
「ああ」
「おやすみなさいませ。ルーク様」
目の端を拭ってやるとくすぐったそうに笑った金糸雀がここにいるなら。
もう、それでいい。
ホーエンツォ国の王都は美しき水の都。
大陸に横たわる大河に注ぐ傍流がいくつも流れ、その中でもひときわ美しい湖を背に建つ王城は白亜の城。
「贅を凝らした美しき城は、何というか逃亡経路が確保されているのか不安なほどだな」
「優雅に何を仰っておりますか」
まるで湖の上にそびえるような姿は確かに美しい、城に入るために伸びる橋は一本のみでそれがまた技巧を凝らした弓形を描いている。その橋を渡って登城するなら高揚感と確かな威圧を感じる事ができるだろう。
つまり目に見える道筋はその橋だけ。有事の際の通路も、あるだろうけれど。
金髪碧眼に甘ったるい容貌、沈んだ草色の軍服を着ていても貴族然としたレイリック・ユング少将の言葉に、彼の副官は呆れたように返した。
「隠し通路は当然ありました。そこへ詰め込んで落とした方が一網打尽にできそうな造りでしたが」
「それは使えない。陛下には首を獲ってこいと言われている」
「では如何いたしましょう。閣下」
湖の背後にある針葉樹林から眺めても、白亜の城を含めて風光明媚である。この景観を損なうのは気が進まないが、皇帝の命令は国境である酒造の街並みを死守せよ、なので王城については言及されなかった。
ここホーエンツォ国に渡る国境の大橋は、他の帝国領にかかる橋と同じく陸軍に指揮権を渡してきた。反逆者たちを通すよう命じられた屈強な辺境軍は、さぞ鬱憤が溜まっているだろうからここで存分に働いてもらおう。
「グラシィズのように閣下がお一人で参りますか」
「いや。どちらかと言えばパークの研究所を落した手段だな」
「では通達しますのでしばしお待ちを」
副官は素早く樹林に消えていき、半刻も経たない内に「整いました」と戻ってきた。彼が優秀なのか辺境軍がやる気なのか。
初夏の水辺であるので多少湿気は多いが問題ない、この抜けるような青空はむしろ都合がいいだろう。
まさに青天の霹靂。
ユング少将の髪が風にあおられたと思った次の瞬間には、白亜の城に神の鉄槌のごとき雷が落とされた。
自然現象でも高い建物に落雷はある、だが地表に届くその規模ではない、たった一撃で城の半分以上が爆ぜるように崩れた。
もうもうと上がる土煙は、夏の朝靄のように崩れた城壁から湖に落ちていく。
「あの位置ですと、隠し通路も潰れましたかね」
「ではそれも確認するように。残念ながら私はホーエンツォ王族の顔など知らないのでね」
「首は献上するので残すよう伝達しています」
「では、コルッカ辺境軍。包囲網を縮小、誰も逃すな。誰もだ」
「特務隊第二班は突入」
風の精霊による霹靂に備えてやや後退していた特務隊の精鋭たちは、号令で半壊した王城に突入した。瓦礫で濁った水が街中の水路に流れる前に、美しき風景に炎があがる。
精霊の一撃は、現存するどの重火器より強力である。
それをカイ・サルダン少尉が目の当たりにするのは二度目だ。一度目は、このでたらめな人が口にしたように、ヴァイン王国中央にあった国立研究所制圧戦の時だった。
それで、人には到達できないものがあるのだと痛感した。
しかも物々しい火砲や空を駆ける飛空艇などではなく、一人の人間に感じるとは。英雄を目の当たりにした高揚ではなく、絶望にも似た感覚だった。
「陛下もお人が悪い。『国を返してやる』とはこういう事だと言いたいのだろうな」
対岸にあっても火に煽られる風で揺れる金色の髪があくまで優雅で、サルダン少尉は腹の中で「なんだこの人」と思ったが口にはしなかった。
「作戦以降の、政治的な判断には意見しかねます」
「これが終われば、アストリア卿の奥方が黒いケーキを贈ってくれるそうだ」
「…………はい?」
「おや。久々に少尉のそういう顔を見たな」
レイリック・ユング少将は王子様のような甘ったるい表情で「化け物を見るような顔しているぞ」と笑った。




