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険しい山と深い森、真白と深い緑に透き通った青が浮かぶ国。
雪のリィン帝国。
帝都ルミハウレットは山脈の麓に扇状に広がる城塞都市である。
山の岩壁を利用しまた一部を削り出し、要塞の名にふさわしい厳つい様子の軍施設が見える塔がラ・パルスの居室だった。
皇帝が住まう奥まった場所から離れた所にある塔の、騒がしい要塞内の音がこれほど聞こえる場所が皇族の居室にふさわしい訳はない。だが、その意味を知りながらも、ラ・パルスは不快な場所ではないと言った。
蒸気機関の熱で雪が溶ける様も真っ白にあがる煙もよく見えた。飛空艇の格納庫のひとつが近くて、艇の発着時には窓に額をこすりつけて眺めた。だから飽きないと言っていた。
「兄上。お久しぶりです」
自分の来訪を喜んでくれている様子のラ・パルスに「そうだな」と思った。ここには自分以外が訪れることはまずないのだ。
「久しいな、ラルス。すまないが時間がない」
応えて、ソファに腰かけもせずに部屋に三名の軍人を入室させた。
年若い将校たち。皇太子ル・クリフの後ろで一糸乱れぬ美しい敬礼を披露した彼らは、「許可する。名乗れ」との命令に内二名が一歩進み出た。
「ロクスウェル・フォロウ少尉」
「ルイス・トライバル少尉であります」
「この二名をお前につける。ラルス、すぐに支度を。ーーーお前にはヴァイン王国に向かってもらう」
「ヴァイン王国、ですか」
「ヴァインの現王妃に関する話の裏づけが取れた。おそらく他に子は望めないだろう。順当にいけば第一王女のリールミール姫が次代の女王になる、だからラルス、お前がその王配になっておいで」
その言葉に、目の前の少年はぱちりと瞬いていた。視線はそらさずまっすぐ背筋を伸ばして立っているが、言葉を咀嚼して考えて、理解できないというより落胆の色を浮かべた。
「リールミール王女はまもなく6歳になるそうだから、歳の頃もお前とちょうど良いだろう。以前から話を含ませておいたので此度の招待も快く頂いている。後はラルスの奮闘次第だな」
あにうえ、と舌が貼りついて少々カタコトな呼びかけだった。まだ10歳にもなっていないラ・パルスに浮かんでいた落胆はきれいに隠されていた。
「それが兄上のご命令なら従います。ですが、 …やっぱり、国内で兄上のお手伝いをするのではいけないのですか?」
「ならぬ。どのような方法であろうとお前は国外に出す」
表情を隠していても、強い語調にびくりと肩をふるわせていた。それを見た軍人の一人が半歩進んで「殿下」とだけ呼んだ。それに嘆息してル・クリフは彼に許可を出した。
軍人は再度敬礼をしてから軍帽を取り上げ、左脇に挟むと黒髪の皇子の前に跪いた。
「皇子殿下。レイリック・ユング中尉でございます」
沈んだ草色の軍服を着ていなければ、金髪碧眼の甘ったるい容貌と相まってどこか絵物語の王子様のようだ。幼いラ・パルスには、騎士が主に忠誠を捧げる場面のようにも見えた。
「リールミール王女の婚約者選定が、ほぼそのままヴァイン王国の次代の王配選定となります。殿下がヴァイン王配となれば僥倖、帝国にも幾つも利がございます。でなくとも婚約者、その候補に上がるだけでも帝国内における殿下の立場も変わりましょう」
「わかってる。兄上が仰るなら行く。だけど僕は、兄上のお役に立ちたい。別に一人でも今のままでも大丈夫だから、」
「殿下。皇太子殿下はそれをお望みではありません。あなたの立場を回復させる為、いいえ、殿下が幸福であるようにと願っての事なのですから。ご安心ください。ヴァイン王女は幼くとも大変美しく愛らしく、利発でいらっしゃるそうです。お会いしたら、殿下から王女を望むようになるかもしれませんよ」
そうであったらいい。今のままで良いわけがない。
ユング中尉がキラキラと甘言で弟を丸めこんでいるのを感心しながら、なるほどこういう方法も有効だと学んだ。だが自分にできる気がしない。そういうのが得意の者を侍従に据えるかなどと考えた。
「お傍にいるだけが貢献になるとも限りません。殿下、どうぞ外へ出るお支度を」
「飛空艇に乗れる?」
「それは、……またの、機会に」
謀事は得意でも期待のまなざしに対して嘘をつけなかったユング中尉の言葉が、そこで初めて歯切れの悪さをみせた。それが可笑しかったのか、トライバル少尉の口許にぐ、と不自然に力が入ったのを見てル・クリフもまた頬を緩めた。
「ラルス」
「はい。兄上」
「このような場所にいる必要はない。お前が一人ではなく、ヴァイン王女と共にあろうとする事を私は願っている」
「……それでは、兄上は」
どうするのですか。と、訊ねられても。
ル・クリフには道はない。父である皇帝に敷かれた一本の線路のように。
「私は、皇帝になるのだろうな。『その為に私はいる』のだから」
弟からの問いかけにそう答えたのは、まぎれもなくル・クリフ自身である。それは今も変わっていない。おそらく生きている限りは変わらないのだろう。
それは、この、目の前で死にかけている男のせいだろうか。
それともル・クリフ・リィンネーネのせいなのか。
皇帝の寝室は灯りがしぼられて薄暗く陰気な空気がただよっていた。ほんの少し甘さを含んだ匂いがする、気のせいかと思うほど微かだったが、焚いた香のせいでなくこれが死臭というものなのだろう。
やわらかな寝台に沈むのはリィン帝国第十代皇帝。
この数日で頬がこけたなと思った。
糸の切れた操り人形のように皇帝が倒れた。医師が言うには心臓の動きが正しくなく血のめぐりが滞っているのだそうだ、手足の先に血が送られなくなって皇帝は寝台から起き上がれなくなった。
さらには乱れた心臓が正常に戻る可能性は低く、いつ止まるかもいつ乱れた動きで頭を圧迫するかもわからない状態。落ち着くようにせめて穏やかにあるようにと施すのが精一杯だと。
皇帝が倒れた直後はその身体の処置に奔走した塔内も、何人もの医師から同じ診断が下されればまた別の意味で騒がしくなった。
皇帝の崩御。そして新皇帝による体制の樹立。
逃れられるとも、逃れようとも思っていなかったが、こうして目の前に死期間近の皇帝が横たわっていると悪態のひとつもついてやりたくなった。
「……ルーク」
「はい。陛下、こちらにおります」
うわ言か呼びかけかわからないので、律儀に返事をしておいた。上掛けの中で肩が動いたようだったので、もしかしたら手を持ち上げたかったのかもしれない。だが皇帝の手足はもう動かないと聞いている。
「ルークがおれば、…我が帝国は…安泰だ……儂は幸いな、皇帝であった」
ああ、こういう時は何と言ったら良かっただろうか。たしかルイス・トライバルが言っていたじゃないか、そういう時は言ってやりなさい、このクソオヤジと。
その口の悪さでロクスウェル・フォロウに脇腹を剣の柄で突かれて悶絶していたが。役に立った。ほんの少し、ほんのわずかだが今の自分の心境にそった言葉が見つかって軽くなった気がする。
このクソオヤジは、死の間際まで変わらないのだ。人は壊れたら戻らないのだ。
第十代皇帝は、ル・クリフを皇太子に命じるとそれは厳しくけれど真っ当な教育を施した。それに不満はない。ただ壊れていた。政務は正しくこなしていたし感情が荒ぶるわけでもない、ル・クリフの事は後継と考えていたが息子と思っているかはわからない態度だった、しかしそれは皇族であるなら仕方ないで済む範疇だ。
だが壊れていた。皇帝にはラ・パルスが見えていなかった。
比喩的な話ではない。知覚はしても認識ができない。彼の中では第二子出産の折に皇妃もその子も死んだと片付けられていた。
お前が、この帝国に栄光と繁栄をもたらすのだと。祝福ではなく呪詛のように聞かされた。まあそれもよくある話なので気にしていないが。
弟を、ラ・パルスを切り捨てた壊れた者が今さら本格的に肉体まで壊れようというだけだ。感慨などない。いや、少しだけあるか。
さっさとくたばれ。
この件に関してル・クリフは何も関与していない、皇帝が勝手に不調をきたしただけだ。その場で心臓が止まればいいのにと思ったが、こうして少々長らえているなら準備もできるというものだ。
ラ・パルスが生まれた当時、正しく報告したにも関わらず第二皇子の生存を受け入れられなかった皇帝に塔の者たちは困り果てた。皇妃の葬儀だけは行われた。本当になかった事にされようとした第二皇子の身柄は、後見についた貴族にいったん委ねられる。さすがのル・クリフも3歳かそこらで貴族連中や皇帝を相手にできるはずもなく、こればかりはこの貴族に感謝すべき事項だった。
この貴族とはトルステン侯、ユング家当主である。
「リィン皇帝陛下に栄光あれ」
さっさとくたばれこのクソオヤジ。
胸の内で悪態を組み合わせてみたらとてもしっくりきた。今度、皇帝の息のある内に顔を出さなければならない時はこれでいこうと決めた。
皇帝の寝室から辞すると、進んだ歩廊にその悪態を伝授してくれた軍人が立っていた。ルイス・トライバルは正しい敬礼をしてから、主のために道をあけた。
「兄上」
「ラルス。…本当にヴァイン行きを中止したのか」
「仕方ありません。形は整えておかないと」
「だが、今回は姫の生誕祭に合わせて滞在すると約束していただろうに」
「それは、そう……ですが…」
「ルイス。許す」
「『手紙では謝ったけれど許してくれるだろうか。淋しいけれど、婚姻後はずっと祝えるのだから我慢、ガマンできるだろうか』っ、いっ!」
正確に鳩尾を肘で抉られた護衛は、軍服の下に鎖を着込んでいるはずだが本気で膝をついてうずくまっていた。この弟は見た目に反して年々おそろしい戦闘力を発揮してきた。
ル・クリフは「ふむ」と顎に手をあてて、氷の仮面をつけて平静を装う弟を見た。
「それは我慢ならないだろう。ひと月近く前から浮かれていたものな。なあ?ラルス?」
「……申し訳ありません兄上。ちょっと、口の軽い護衛に稽古をつけて参りますので」
「いや殿下…それ俺情報じゃないです…いてて」
「ロックのはずないね?レイ?レイリックはどこですか兄上」
「落ち着け。私の護衛を挽肉にされても困るし、陛下がこの状態でユング家に何かあっても困る」
「ではせめてルイに地獄の特訓でも」
「とばっちりですか」
どちらかと言うと八つ当たり?と言ってのけた皇子に、どうにか立ち上がった護衛はふうと深い息を吐いていた。仕方ないなと見守るような諦めに、彼のがよほど兄らしい振る舞いだなと思った。
皇帝に捨てられた第二皇子はトルステン侯の後見を得て、国外にも誕生を知らせる事によって最悪の事態は回避したが。それでも幼子が突然亡くなる事などよくある話だ。ル・クリフが世界と国と情勢を知って立ち回れるようになって取りかかったのは、弟をあの皇帝から引き離す事だった。
皇帝が最後までラ・パルスを知らないならいい。だが何かの拍子に認識した場合は最悪の事態を想定しなくてはいけない、だから引き離す、できれば国外に出す。そうして模索した一つの案としてヴァイン王国への婿入りがあった。
ル・クリフが今まで行った政策やこれから何を成し遂げようとも、あれが、自分の中で最大の功績だと思っている。
しあわせをつめこんだ新緑の庭。
レイリック・ユングが言ったように、ラ・パルスが望みまた彼女も望んでくれた優しい幸福は、自分にまで優しかった。
世界には、確かに、幸せがあるのだと知った。
「兄上。これから、」
「そうだな。保守派のクラスノフ家が陛下の様子を…」
見に来ていて、それで、と今後の予定と調整を考えながら歩いていた。「手伝いますよ、ヴァイン行き中止しましたから」と朗らかに自虐するラ・パルスを一歩後ろに従えて歩いていた。
それを、不意に止めて。
黒髪に黒い瞳、自分とは似つかぬ色味の弟を振り返った。名前を呼ぶと短くはっきりと返事がある。
「本当に、私が皇位を継いでいいのだな?」
その言葉に、ラ・パルスは首を傾げそうな様子で困惑していた。表情は変わらず顔色も変化はなかったが相当に困っているようだった。もしくは理解できない、というのか。
「…兄上?」
「ただの確認だ。姫を溺愛している今のお前には、この帝国の冠など要らないだろうが。そう、…確認だ、ラルス。それでも『正統な血』が続くのを人の世というのは望むだろうから」
「今さら何を言うのです。あなたはル・クリフ・リィンネーネ。誰より皇帝の座に相応しくあろうと努力された方です」
「ああ、そう声を荒げるな。確認だと言っただろう。逃げようとは思っていない、ただ」
「『その為にあなたはいる』のですから」
皇位につくのが相応しい素晴らしいのだとラ・パルスは言い募った。それも聞いていた。理解しているつもりでおのれで口にした言葉でも、他者から、それもこの弟の口から出るとこうも突き刺さるのだなと、そう思った。
ル・クリフ・リィンネーネは皇帝になる為に存在するのだとしても。
世界には、確かに、幸せがあるのだから。
(ーーー欲しいな)
そう思った。




