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「あの異端を羨む事はなくとも。肉がないというのは惜しいものだな」
ソファの背もたれに寄りかかる仕草で『朱の狡知者』は言った。肌の色、髪の色、瞳の色も衣服の色もなく紅水晶から彫り出された美しい精霊は、あの時も、同じような事を言った。
あの時、むせかえる血の匂いであふれる王の間から連れ出してくれたのは、この聖属性の精霊と青玉の賢者シシィ・シリウスだった。
リールミール王女の教育係だったシリウス女史は、文字通り首の皮一枚つながった状態で王女を背中から抱きかかえた。優しくも厳しい人であったから、それまで王女を抱きしめるような真似はしなかった。
だからあれが、最初で最後だ。
王都から遠く離れた場所に「隠され」、絶命した彼女の腕が肩に腹に巻きついたまま、その体温が生物でないものになっていくのをずっと感じていた。
その時に朱のが言った。肉があれば姫を抱きしめてやれるのにと。
だからなのかもしれない。
以来、人に触れても触れられても、硬い人形のような屍体のような気がしてまるで実感がなかった。リールを愛する精霊たちには実体がなく、姿はあるのに触れられない事も、その感覚を肯定している気がしていた。
ラ・パルスの腕が伸ばされた時も、そうだろうと思って逃げなかったのだ。
けれど、どうしてか、ラ・パルスの腕は生きている人なのだと感じた。
心臓がうるさいくらいに鼓動していた。
何よりあたたかかった。
触れる指が皮膚が唇が熱を帯びていて、とても心地よかった。
人とのふれあいはこんなに気持ちいいのかと、思い知って、そして羞恥で撃沈したわけだ。気持ちいいって、気持ちいいってなんだ。もっと触れていたいってなんだ。
あれが人の感触を思い出すきっかけになってしまったらしい。
そんなところへカレルの遠慮ない接触だ。
腹に回された腕には、軍団長の名に恥じない筋肉であったのに生きているやわらかさを感じた。耳に触れる呼気が熱かった。呼ばれる名前にすら熱がこもっているような気がして、心地よくて、嫌とも思わない自分に慎みのかけらもないと恥ずかしく。
赤面していたのは自覚があった。自分でわかるからこそ、どうしようもなくさらに赤くなっただろう。
朱の狡知者は、美しい貌を愛しの姫に寄せてもう一度。
抱きしめてやれたらいいのにと言って。
満足したような顔で紅水晶は大気に溶けた。
とりあえずは。
「何もありませんし、なんでもない事です。どうぞお気になさらず。ですがカレルはそちらに掛けていてくださいね。触れないでいてくれれば、本当に、何でもありませんから」
場を誤魔化そう。
カレルとアヤは向かいのソファに移動したので、朱のが還って残されたリールは一人でソファに掛け直した。ううんと喉の調子を整えてからいつも通りにと心がけたのに。
向かいの二人は温い眼差しだった。解せない。
「あーうん…この動揺でその口調ってことは、リールってそっちが素なんだ。意外だ」
「というかカワイイか…何だあれリールが可愛いとか予想してねえよ…」
「キラキラに乙女が加わるとなんだ?キラッキラ?」
「触られなきゃ大丈夫って、触ったら駄目なんだな。ダメなのかよクソ可愛い…」
好き勝手言われている。腹立たしい。
国境の大渓谷で共感したからか、アヤとカレルは軽口をたたきながら馬が合うようだ。ど平民と一国の皇子なんていう隔たりはほぼ感じない。それがアヤに遠慮がない為か、軍人暮らしのカレルが平民の感覚を持っている為か曖昧だが、まあ両方だろう。
肌の色や顔立ちの違いはあっても黒髪であるし。仲良しか。
「それで、…どうして僕は呼ばれたの」
もう疲れたと気を抜いたら、なぜだかカレルが楽しそうに笑った。その隣でアヤが「はーい」と手を上げた。仲良しか。
「カレルにお願いしたら、それまずリールに許可とれって言われたから。呼んでもらった」
「アヤなら、翠玉の宮に来ても入れるでしょう」
「そこは『俺が精霊姫を呼んだ』っていう事実をつくる為だけだ」
「…外堀埋めるつもりならもっと水面下でやってくれない?」
「というわけで、俺いい加減街に出て働きたいんだけど」
いいでしょ?と無邪気に言われて、なるほどこれは許可の有無が必要な案件だと思った。
「リールはカレルのお嫁さん候補だからいいとして。だったらなおさら自分で稼がないとダメじゃん?」
アヤの言う前提は置いておいて。カレルの客人として首都に滞在しているアヤは、本来はその心配は不要だ。だが今後の展望が明確でない限り、生活の為に働くのはアヤにとってごく自然なことだった。
それをいったらキィも同じ立場だが、ヴァイン獣騎士団の元隊長は、レオポルト副団長が招待指南役として報酬出さないといけないと言うほどに、飛空艇団の兵たちにうっかり貢献してしまっている。
もし本当にリールがキーサ皇国に入るのならば、姫様の騎士であろうとするキィはこの国の兵になるのも厭わないだろう。
だがアヤには技術も何もないので、働き口の斡旋でもしてくれないかと団長に相談したのである。いちおう飛空艇団宿舎にお世話になっているので、その上司ってカレル団長かなと思ったのだ。
そうしたら「リールの許可とってから俺に言えじゃないと怖い」と返されてしまったのだ。
「ちなみに、何かやりたい事とかあるの?」
リールの問いかけに、アヤはうーんと少し考える様子だった。
今までの状況からいって、皇子が連れてきた客人であるアヤを街に出しても、本宮から何か言われる事はないと思われる。だから本当なら自由にしてくれてもいいのだが、「何もない」のは皇后や宰相たち本宮の話であって、他の有力者たちがどう出るかはわからない。
帝国使節団を見送る晩餐会で、アヤの立場と顔は知れている。翠玉の宮にいる精霊姫より、屈強な獣人の騎士より、小さいお嬢さんの方が拐かすのも屈服させるのも簡単だと思われるのは間違いない。
だから街の人々の善悪ではなく、それ以前の問題で、働きに出るのは推奨しないのだが。
やりたいこと、と考えていたアヤが「うん」と何か決めたらしい。ソファから少しだけ身を乗り出した。
「飛空艇つくってみたい」
それを、そんな無邪気な顔で言わないで欲しい。
街に出て働きたいんじゃなかったっけ?それやりたいことを追求しただけだよね?なんて正論は無駄だろう、未来を語る少年みたいな顔だった。
ええと。こめかみを押さえたリールは、とりあえず、さすがに苦笑しているカレルに問いかけた。
「ちなみにキーサの飛空艇って」
「あー…機体の製造って意味なら、民間の商会といくつかの部族に外注してる。ただアヤのこれ、そういう意味じゃないだろ」
「大渓谷で飛空艇見た時から、ワクワクが止まらないみたいな感じだったねそういえば…」
「開発設計は製造してるどこの部族もやってるし、運搬の商船もあるが。軍事目的の機体とは比べ物にならない。技術じゃ飛空艇団が一番だからな」
軍事に活かされる専門的な知識と技術など、広まる訳はなく集中するだけだ。学ぶ意欲や活かす意志ある者なら、水準の高いところを目指すだろう。皆が首都の飛空艇団に集まるため、各部族での独自開発は遅れ気味だ。
そして正規軍への入団は、身体検査を受け、ある程度の読み書きがきちんとしていれば出自はさほど重要でなく、想像より容易だ。軍でも政務でも公文書、正式な書類のやり取りは大陸公用語を使用するので、キーサ語ができなくとも問題もない。
だから地方の部族出身者だけでなく、国外からの者や獣人もそこそこいる。そこから訓練に耐えて兵として役職を得るか事務官として後方に下がるかは、入団後の話である。
「事務官とか、もしくは基礎知識があれば整備隊に就いて学ぶことはできる。けど設計は、既存の機体を扱えるように訓練するのとは訳が違う。発想だからな。ウチですら開発に携わる人数は多くない。それでも他部族より優れた技術に触れられるだろう」
「カレル団長!つまり!」
また「はい」と手を上げて質問するアヤに、調子いいなと団長は笑った。
「事務官でもいいなら、アヤに働いてもらうことはできるぞ」
「いいならやりたい!」
「駄目だ」
元気よく返事をしたアヤの、正面から、即座に否定の言葉が投げられた。
「アーヤを軍属にはできない」
だろうとカレルも考えた。だがあからさまに不服そうな顔をしたアヤの気持ちもわかる。
「どこかの商会でもできる仕事をわざわざ軍でする必要はない」
「別に戦うとか危ないことするわけじゃないのに?」
「有事の際に戦いに出ることを言ってるんじゃないよ。たとえ非戦闘員だったとしても、その場所は、まっ先に狙われる。それはアーヤも知ってるでしょう」
ぐ、とアヤは口をつぐんで歪んだ顔をした。
アヤの父親も戦うことなんかと無縁の錬金術師だった。ただ国立研究所に勤めるくらいは優秀だっただけで、それだけで、研究所は王城よりも先に侵略されたのだ。
結果だけ見れば、父親はその侵略行為で命を落としたわけではない。だが捕虜まがいの扱いで、軟禁状態のまま働かされていたのは事実だ。
うーうー唸るアヤの黒髪を、となりに腰かけたカレルの褐色の手がなだめるように叩いた。そのぽんぽん適当に撫でられるの、晩餐会の時もしてくれたなあと思った。
「リールの言うことは正論だがな、そりゃあくまで有事の場合だろ」
「と、僕も思ってたよ。七日間戦争までは」
「それを言われると、反論は難しいなあ。絶対はないなあ。キーサも対外的な戦はしばらくないが、部族間の小競り合いはいくらでもある、俺の父もそれで死んだクチだ」
現在キーサ皇国の皇は空座。アルジビェタ皇后は、新たに夫を迎えることも空いた大将軍の位に誰かを据えることもしていない。
国の為、人の為にある身で己の我が儘を通すのだから、過分なほどの報いは受けねば。
物心ついた頃からそういう母の姿を見ているカレルにとって、我が儘は悪いものではない。覚悟が必要なものだ。
「だが、現状を考えてもみろ。俺はかまわないが、ただ世話になるだけじゃなくて、アヤが働いて個人で自由になる金を得たいってのは道理だし、好いことだ。街で働くのもいいな。だがリールは心配するな?キィも一緒に行かせるか?それをキィが嫌とは思わなくても、リールミール姫を守りたい騎士の希望とは違うだろうな。お前が俺の妃になるまでは不安定だ、その時期をずっと閉じこめておくか」
いや皇子妃になる前提で話さないでくれるかな。
まあ、ならなくとも、今ここにいる時点でカレルの言い分は正しい。理解もできる。
ただ軍に属するのは別だ。危機感の薄い黒猫にそんな事はさせられない。
したくない。リールが、とても個人的に。
それを見抜いているのかカレルは肩をすくめて見せた。
「お前がアヤ連れてんのは、そういう大事じゃないだろう。だから俺が保証する。有事でない限りは、飛空艇団の中の方が安全だ」
アヤは正直に、援護してくれるとは思ってなかった!という眼差を向けた。ちょっと頼れるお兄ちゃんな気がしてきた。
アヤも、リールに迷惑かけたくないとは思っていたし、大事なところで逆らってはいけないと感じていたが、行動で反対された事がなかった。だからちょっと驚いた。猫がいたずらして咎める、みたいな事はよくあったけれど。
好きにさせてくれていた。愛玩されているなあとは思った。
けど心配されていたらしい。
なにそれ嬉しい。
嬉しい。
自分だけじゃなく、リールも、好きでいてくれてるって事だ。
「な、リール」
「…うん」
「俺ちょっとかなり本気で機械工学勉強したい気になった!いつか飛空艇もつくってみせるから!」
だから働かせて!と言うと、リールは少しだけ首を傾けて困ったような顔で笑った。金色の髪がさらりと流れて眩しいなと思った。
後で、カレルから、「あれは困った顔じゃなくて淋しい顔だろ」と言われた。
「しょうがないなあ。アーヤだなあ」
飼い主、いや保護者、いや何というか大事な人からの同意が得られたのでアヤは嬉しくてとなりのカレルの肩をばしばし叩いた。おいおいと言いつつ、カレルも良かったなと言ってくれた。そういえばこの人この国の皇子様で飛空艇団に入るなら上官もなにも団長だった。
「ちなみに、本気でキィを教官にしてみねえか?非常勤で時間は都合するし」
「それこそ本人に聞いてよ」
「リールが皇子妃になれば自然と入団してくれるか。いやそれだと陸上団に取られる可能性も」
「まず僕が妃になる可能性の低さに気づいてくれる?」
「ゼロでないならそれでいいぞ?」
無駄に前向きか。
このままだと本気でキーサに亡命という事になりかねない。それはどうだろう、ラ・パルスはどこにいてもいいと言っていたが、皇子妃も回避してくれとも言われた気がする。
(待つ、つもりなのか自分は)
あまり長居をすると、外堀埋められそうなのだが。
そこでようやく、アヤを飛空艇団に入れるのはその一環かと思い当たった。しまった。




