砦の中は浮足立っていた。
もう間もなく南への出征だというのに、上官も町のお偉いさんも上へ下への大騒ぎ。
ラスの砦は東の渓谷よりやや南に位置し、国境守護と血気盛んな荒くれ者どもの相手をしていた。それがどうも南方の小国の動きが怪しいということで、今までは水面下で穏便に動いていたのだが。ヴァインとリィンの国交がより強固になる前にと、焦った南側は行動に出た。
ヴァイン王国の王都は、領土を考えるとやや北寄りであるため、本隊が到着前に足掛かりでもと考えているなら。ナメるなこら、というのがラスの砦一同の心境である。
もちろん勝手な行動をしているわけではない。王命である。ただ南方軍の規模を考えれば、不安なほどの少数精鋭といえた。
出征準備で忙しいところへ、何の騒ぎかといえば。
「王弟殿下!どうかお部屋で、部屋でお待ちください!」
「指揮官で来ている私が部屋でぐうたらしているわけにもいかんだろう」
「そう、ですが…っ」
いやいっそアナタはいいんですけどその、そっちが駄目でしょう!と言えない書記官が頭を抱えながらもどうにかついて行く。
鍛錬場も今は物資の搬出のため荷物がごったがえしていて、そんな場所に騒ぎの原因がやってくるなんて思ってもみなかったので、あれはまったくの偶然だった。
「おお。我が国の獣騎士団は、いつ見ても勇ましいな」
王弟殿下の登場に、荷物を持って右往左往していた一同は耳をぴん!と立てて尻尾をふくらませて「ぎゃあ?!」という声だけはかろうじて呑み込んだという有様だった。
彼らが本当に呑み込んだ言葉は「なんでこんな所にいんのこの人?!」である。
この度、ラスの砦から出征するのは、ヴァイン王国が誇る獣騎士団。
獣の容姿と獣の強さ、そして人と変わらぬ知と心でもって王国を守護する、獣人たちの集団だ。
彼らを指揮する役目を賜り、王都からやって来たのが、ヴァイン王国で王位継承権第二位を持つ王弟殿下である。
現国王の実弟である彼は、根っからの武人、正しく表現するなら自由人であった。
王を支える役割は果たしながらも、役職は軍に持ち、日々鍛錬が趣味という変わり者。王弟が武力を持つこと、軍に力を置くことを良しとしない意見もある。それは当人にまったくその気がなくとも、王自身が疑っていなくとも、周囲がそうと見れば事実となってしまう。
が、実はそれらをのらりくらりとやり過ごすだけの処世術もある殿下だった。
そんな彼であるので、辺境だろうと国境付近だろうと果ては国外の出征国交にも出向くことがあり、ラスの砦にも幾度か訪れていた。それを知る獣騎士団は、まあ、お偉いさんの登場に驚きはするが多少慣れてきたのであるが。
この時ばかりは違った。
追いついた書記官が「だからお戻りください!」と必死の形相なのは、王弟殿下の足元に、正しくは腰あたりにくっついているきらきらしいお姫様が原因だった。
尻尾を立てたまま硬直する面々に、むしろ楽しそうな表情を浮かべた王弟は「楽にしてくれ」と宣ったが無理だ。
太陽の光そのものの、黄金の髪。
星を砕いて散りばめた、翡翠の瞳。
愛らしくも美しい、ヴァイン王国王位継承権第一位である翡翠の精霊姫、リールミール王女がそこにいた。
華美なドレス姿ではなく、式典に出席する騎士の正装のような凛々しい姿だが。場違い感がすごい。
昨日、砦に到着した王弟の馬車から彼女が降りて来た時は一同開いた口がふさがらなかった。聞いてない、というよりどうしよう、である。
南方軍は国境を侵したわけではない、戦場となるのは砦よりもっと南の地方でここまで戦火が及ぶことはほぼない、と言っていい。だからといって王位に関わるふたりが揃っていて良い場所ではない。
どうしてこちらに王女殿下が?!と、もっともな疑問をぶつけた一同に対し、王弟は「メルが来たいと言ったから」などとけろっと言い放った。
陛下以上に姪っこ可愛がりの噂は王国中の知るところだが、何もこの状況この場所に持ち込むなと、苦言を申し立てる前に全員が絶句した。
「そう心配するな。こう見えてメルは私が直々に仕込んだのでな、そこらの姫君とは訳が違うぞ? 騎士見習いなどでは敵わないほどだ」
そういう実力的なことでなく、立場的な話なんです。
書記官が倒れそうになっているところ悪いが、獣騎士団の面々は「え、そうなのお姫様戦えるんだ??」という疑問で瞳孔が細められるばかりだった。
獣人の彼らにとって、人の美醜はあまり関係がなかった。ただ、とても美しい「色」と圧倒される存在感に息を呑んだ。
そんな王女が、王弟と一緒に荷運び中の団員をねぎらって回るという事態。
大変ありがたいが、畏れ多いというか怖い。
「さすが獣騎士団の方々。私には到底持ち上げられない重さを軽々と」
「はは、あれは私でも無理だな」
こんな調子だ。嬉しい!だが困る!
「獅子の方は、立派なたてがみですね。金色で私とおそろい」
「は?! あ、ありがとうございます…!」
「熊の方はお話以上の鋭い爪をなさってるんですね。心強いことです」
「いえ! はい?! おおお任せください!」
「まあ、狼の方はとても美しい毛並みで。私だったら見惚れて勝負になりませんね」
「そんっ、そんなものでは…ああああの、……触りますか?」
いや何言ってんだよダメだろふざけるな羨ましい!と仲間に押しつぶされた彼を見て、王女は驚いていたがとなりの王弟が豪快に笑っていたのでつられて笑ってしまった。ちなみに狼くんはこの後で、お姫様にイイコイイコと触ってもらっていた。
予想以上に団員の士気が上がってよかったじゃないかと、殿下は笑っていた。
この時の戦闘は、戦としては小規模なものだと思われた。問題は南方が焦った理由である。
リールミール王女と、リィン帝国第二皇子ラ・パルスの婚姻。それによる両国の結びつき。
ヴァインの成人は男子18歳、女子が16歳。婚姻の届けが受理されるのは成人を迎えてからだ。
この時で王女は10歳、第二皇子が13歳。本来なら皇子が18の成人を迎えてからヴァインに婿入りするわけだが、王族に限っては事実上の結婚という形もなくはない。
ラ・パルス皇子は、公の手順を踏んだヴァインへの長期滞在も度々おこなっており、仲睦まじい様子と早期婚姻の噂は誰の耳にも届いていた。
「私は、ヴァインの外に出たことがありません」
「そうだな。メルはまだ公式の国外訪問はないな」
「ラルス様がいらしたら、行くことができますか?」
「あー、夫婦になれば陛下の名代も任せて、…くれるかなあの親バカ…」
「早く結婚をしたいです。ラルス様と」
「駄目だメル、出陣前に叔父さんを泣かすな…」
「泣かないでください。叔父様」
そして王弟殿下。ご武運を。
ヴァインが誇る獣騎士団の精鋭たちは、この時、少数ながら南方軍を速やかに鎮圧してみせた。そこには、率いる獣人たちを圧倒する勢いで、鬼神のごとき活躍をした指揮官の姿があったとか。




