水場の処理
扉の裏には閂があり、管理人の男が出ていってから、僕はすぐに閉じることにした。
閂は表面が磨かれ、文鎮を武器用に大きくしたみたいだ。しっかり穴に通したあと、扉を押したり引いたりもした。軋んだ音がするだけで、扉は動く気配がなかった。
「やっと休めるよ」
僕はカラに右手を差し出した。そんな気分だった。カラも右手で握手をし、手をぶんぶんと振った。なんだか随分と戦ってきた気がした。
「うーん、まずは座れるトコを作らないといけないかな」
カラはリュックを下ろすと、瓶を一本とり出して光に晒した。瓶には水が満たされ、中には手の爪の半分ぐらいの生き物がほとんど動かず、漂っていた。全身真っ赤で、頭の天辺だけオレンジ色に禿げている。
「小さいけど不細工な金魚だな」
カラは頷くと、瓶のフタを空けた。そして右の水場に歩いていくと、瓶の中身を一気に注ぎ込んだ。カラはそのまま、しゃがみ込んだので、僕も水場に近づいてみた。水は濃い緑色に濁りすぎていて、何も変化はないように見えた。
「失敗したの?」
カラの顔を伺うが、カラは水場をじっと眺めたまま動かない。僕も水場に目を戻した。
何分待っただろうか、水面にポツポツと波紋が広がりはじめ、いつしか波紋は渦となった。黒のように濃かった緑色は少し薄くなりはじめ、代わりに無数の明るい点が見えはじめた。僕はカラのように、尻をつかないように屈んだ。
点は数を増やして、水の色はいよいよ薄くなり、僕はやっとその点が何か分かった。点は赤かった。カラが流した金魚が増えたのだ。しかし、形が少し違う。オレンジ色の禿の部分が広くなっていた。オレンジの混じり具合からいうと、身体の半分ほどまでハゲていた。
「大分増えたな」
金魚達はぶつかり合いはじめ、その一匹は跳び上がった。そして眺めている僕の方に跳んできた。ジャンプ記録は1mを超えて僕の顔に着地しようとした。
「おわっ」
僕がよけようとした時、金魚はかき消えた。笑い声が聞こえたので、カラの方を睨もうと首を回すと、カラは口を抑えながら、何もなかった風で水場に目を戻していた。水から跳び上がる金魚は増えてきたが、全部数秒で消え失せた。どうやら、この金魚は水中以外では生きられないらしい。
水場はとうとう金魚で溢れた。水の色はほぼ透明になり、水場は赤とオレンジの粒々が蠢いていた。水面の至るところで炭酸のような音がする。金魚は水や自分達を叩き合わせる。水位もいつの間にか下がりはじめていた。
「増えすぎじゃないの?」
「今、だいたい100億人」
カラが久しぶりに声を出した。
水位はそれから下がる勢いを増し、金魚の数はそれに追いつくように下がっていった。下がった水面から、跳び上がって消える金魚も増えたが、共食いも目立った。金魚の中には、たまに僕の握りこぶしよりもデカそうなヤツが現れ、周りの金魚を飲み込んでいった。そいつは最後まで生き残るだろうと、見ていたら、あっけなく、下がった水面から巨体を空気に晒し、消え去るのだった。
水位が水場の底に逹し、乾ききったとき、最後に一匹が残った。はじめにカラが入れたのとサイズはほぼ同じだが、しっぽだけに唯一赤みが残り、あとは黄色に近かった。その金魚は謙虚だった。水場の水分を完全に0にすると、身体も動かさず、消えた。
「やっと綺麗になった!」
そういってカラは立ち上がると、水場の縁ギリギリまで歩み寄った。そして大理石で出来た枠に腰を下ろすと、脚をぶらぶらさせた。水場は新設された学校のプールのようにピカピカになっていた。
「モヤスもここに座れば」
カラは自分の隣を手のひらで叩いた。僕はカラを見て、水場の底を見た。底は地下一階といっていいほど深かった。ひたすら重苦しかった臭いは晴れ、わらの匂いが嗅ぎ分けられる。水場は臭かったのだ。それが分からないほど臭かった。しかしなにより、僕は今見たものが分からなかった。
「立体映像だったと思えばいいって。とりあえず座りなよ」
僕は頷くと、カラの隣に腰掛けた。