大貂様4
大貂様のお屋敷は大きな城のような構造をしていた。
曜が中学生の時、修学旅行で訪れた二条城の二の丸御殿とよく似ている。複数の平屋の建物が廊下で繋がっているようだったが、曜のいる位置からは隣の大きな平屋が目隠しになっていて全体像が見えなかった。ポツポツと置かれた篝火だけでは暗かったというのもある。ただ、自分の出た部屋が一番奥にあるという事だけは分かった。
曜は初め、真っ直ぐ続く濡れ縁を抜き足で歩いていたが、向こうからひそひそとした話声が近づいてくるのに気付いてさっと庭に飛び下りた。勿論裸足である。敷き詰められた玉石が温泉旅館に置いてある健康器具のようで痛かったが、ここで大声を上げては元の木阿弥だ。ゴリゴリと足つぼを刺激され、体のどこが悪いのかも分からないまま土のある所へと走った。
曜が茂みに隠れた時、二本足のイタチが二匹、建物の曲がり角から現れた。一匹が火皿を持ち、もう一匹は酒瓶のようなものを持っていた。
「お前はもう人間の雄を見たか?」
「いや、まだだ。女子のようだったと聞いたが、そんな奴が婿様で大丈夫かの?」
「ふん。屈強であろうがたおやかであろうが、大貂様の方がお強いのだから同じことだ」
「おいたわしや。人間としか番えんなどと。大貂様ならもっと強く、美しい雄との良縁があったろうに」
はぁー、と二匹のイタチは憂いの籠った重いため息を吐いた。
「とはいえ三〇〇年待ち望んだ目出度い儀。我らも笑って支度をするぞ」
「そうしよう。まずはこのお酒を僧都様にお届けせねば」
「僧都様は何処だろうか?」
「お部屋には居なさらんだ。もしかしたら――」
イタチたちの話声が遠ざかると、曜は茂みから顔を出しそのまま歩き出した。
(どこか門みたいな所があれば……)
曜の事は彼らにとっては待ちに待った雄の人間なのだ。晄が嘘を吐かなければ、今年も生贄は女性が選ばれていた筈。曜が逃げだしたら、また十年後、次の生贄を待たねばならない。男が来ることを願いながら……。
(いやいや。相手は人攫いだぞ! 同情してどうする!)
一瞬だけ。寂しそうな表情の波埜が曜の脳裏を過った。曜が来たことを心から喜んでいたあの笑顔が曇るのかと思うと、ちくりと胸を刺す小さな針が曜の中に生まれては攻撃を開始する。
「わ、す、れ、ろ、よ!」
ちくちくちくちくと針はその尖った先端で胸を突いてくる。曜は頭を振ってその痛みに蓋をすると再び歩き始めた。
神も妖怪もそれは全て昔話の中だけのもの。ここを一歩出れば、またいつもの何も知らなかった日常に戻れる。この屋敷の事も。喋るイタチも。尻尾の生えた女子生徒のことだって直ぐに忘れてしまうだろう。忘れるのだ。
曜は足を取られながらも、暗い庭を真っ直ぐに歩いて行った。
***
とん、と曜の手が壁のようなものに付いた時、彼の姿は泥まみれの草まみれだった。そうなるのも当然である。暗い庭は、歩けば足を小川に突っ込んだし、歩けば木の根に躓いて派手に転んだ。
(姉さん、怒らないといいな……)
こっそりとクリーニングに出してもバレないだろうか。借りた服の状態が自分じゃ分からないのが問題だ。まぁ、酷い事になっているのは間違いないのだが。途中、ビリ、という嫌な音が聞こえたのも記憶の彼方に押しやってしまいたかった。
「着いた、のか……?」
ぼんやりと月明かりで照らされたのは、大きな唐門だった。
曜の背丈の二倍はある扉に、中央が弓のような形をした曲線状の唐破風。明かりがない為良く見えないが、柱や梁、木鼻に彫刻が幾つも施されているのが辛うじて分かった。明るい昼間に見れば、さぞや立派な門であることが分かるだろう。そう思うような物だった。
当然ながら、門はぴったりとその口を閉めている。曜は手探りで閂を見つけるとそれを引き抜こうとした。
しかし、門の大きさに合わせて閂も大きくて太い。曜が両腕でやっと抱えられる大きさだ。
(これ……、イタチたちはどうやって開けてるんだ……?)
曜でも歯を食いしばって動かしているのに、立っても曜の膝位までしかない小さなイタチたちが到底開けられるとは思えない。何か不思議な力でも使っているのだろうかと曜は首を傾げた。
(普通のイタチじゃないしな……)
ここは動物園ではなくこの地を統べる大貂様の御屋敷。それもさもありなん、と思った所でようやく閂が外れた。とんだ苦労である。
よし、これで外に出られるぞ。
そう意気込んで扉を開けると、その先には真っ白な城壁。延々とどこまでも続く壁が曜の希望を塞ぐように立っている。何故そこに白い壁があると分かったのか。一匹のイタチの持つ松明が、周囲を明るく照らしていたからだった。
「何処へ、行きますのじゃ」
松明を持っていたのは白い大きなイタチだった。
立ち上がったその姿は曜と同じくらいの背丈がある。そんな大きなイタチが門を開けたその向こう側、曜の正面に立っている。
見た目はイタチだというのに、大きさが違うとこうも怖ろしくも感じるのか。曜にはそのイタチがニュースで時折見るヒグマのように映った。
「あ、えと、その……」
「おや、随分とお召し物が汚れておりますな。ささ、着替えを用意させましょう」
しわがれた声と話し方は老人のよう。しかし、その瞳はギラギラと松明よりも強い光で燃えている。逃げられる気がしない。曜がそう諦めた時。
「この塀の向こう側が人の世界でございます。後で案内しましょう。そのような身形でお帰りでは、群れの者が心配するでしょう?」
「は、あ……」
ふっとその光を柔らかく弱めて、白いイタチはにこりと微笑んだ、ように曜は思った。
「さぁさ、こちらへ」
その白いイタチは自らを竹蛇の僧都と名乗った。