大貂様1
目を覚ますとそこは見知らぬ和室だった。
部屋の広さは六畳。ふっくらと温かい布団の上に曜は寝かせられていた。周りには家具も飾りも何もなく、ただ客人用に充てられた空き部屋のようだった。
まだぼうっとする頭に手を当てると、自分の火傷一つ無い腕が目に入る。最後の記憶は縛られ炎に焼かれた凄惨なものだったが、この腕を見てしまえばそれも疑わしく思えてくる。もしかしなくとも、あれは夢だったのかしら。
(普通に考えて、人が死ぬような祭りを現代でやるわけないよな)
そんな事をしていたら、今頃は世界のニュースで非難轟々の雨嵐だ。
クラスメイトの三吉も、そして町長の相沢も、死人は出たことがないと言っていたじゃないか。きっと何か手品のような仕掛けがあったのだ。それに気付かず、本気で火を恐れてみっともなく喚いた挙句、自分は気絶したのだろう。そう思うと、曜は介抱してくれたのだろう町の人間に会うのが気恥ずかしくなってきた。
(ウィッグもどこかいってるし)
布団から出た曜は、自身の格好が祭りの時のままだと気付いた。ようするにブラウスとスカートのお嬢さんセットのまま。ウィッグはあの祭りのどこかで失くしたのか、頭だけが妙に軽い。曜本来の短い髪に戻っていた。
「とにかく、誰か分かんないけど挨拶して、家に帰らなきゃ」
自分を生贄に突き出した姉は兎も角、夜まで働いている母の事は気掛かりだったり。心配されるような歳ではないが、今まで夜遊びなどしてこなかった曜である。姉が説明しているだろうが、帰りの遅い曜を母は気にしているだろう。着の身着のままで来たので荷物の心配もない。このままとっとと帰らせてもらおうと立ち上がった。
曜は襖と障子、どちらを開けるか暫し悩んで、障子の方を開けた。何となく明るかったのと、外に直接出られるだろうと思ったからだ。
すらり、と戸を引くと思った通りそこは濡れ縁になっていて、目の前は松や梅の植えられた純和風の庭が広がっていた。
明るかったのは月が煌々と輝いていたからだ。雲一つない夜空に、我が主役とばかりにまあるい満月が浮かんでいる。それをぼんやりと反射して光る白い玉石が、波のようにさざめいていた。
初めて見る立派な庭園に少し息を飲んだのち、部屋から一歩踏み出す。右と左、どちらに行こうかと逡巡して左を向けば、ぴゃっと飛び上がった小さなモノと目があった。
「……え?」
それは茶色い毛並みの細長いもの。丸い小さな耳に、どこから尻尾でどこまで胴体なのか微妙な体。円らな黒い瞳はくりくりとして可愛い。可愛いのだが、何故、この動物はお盆を持って曜の前に立っているのだろうか。
「……え?」
初めは驚きのあまりつい口から飛び出したもの。
もう一回は、自分の確認の為に吐き出したもの。
「イタチ、だよな……?」
ペットショップで見るフェレットとは違う。それよりも一回り程小さくて、目の周りから鼻先にかけて黒っぽい毛が生えていた。
器用に二足歩行で歩いていたイタチは少し高めの、けれども落ち着いた声で、
「おや、お目覚めですか」
と言うと、折角外に出た曜を再び部屋の中へ押し戻した。いえいえ結構です、と断れなかったのは、喋るイタチに驚いたのが半分。あとの半分は、ちょろちょろ動く足元のイタチを踏んづけそうで怖かったから、だ。イタチは尻尾の長さを入れても二十センチを少々超えた位しかない。誤って踏んづけないように、曜は踏み出す足に細心の注意を払わなくてはならなかった。
曜が部屋の中に入ると、イタチはお座り下さいなと言って座布団を用意する。促されるまま座れば、水かきのある小さな手で茶を入れた。
「えっと……、君は……?」
「私は小菊と申します」
どうぞ、と湯呑を渡されたが、曜は口を付けずに膝の横に置いた。とても香りの良い、良い茶葉を使っていると分かったが、どうにも喉を通る気がしない。それよりも、気になる事が多すぎる。目の前のイタチ含めて、だ。そう、まずは。
「イタチが喋る件について……」
「はぁ」
どちらの頭にも疑問符が欠かせない。間の持たない空気を何とか持たせたのはイタチの方だった。
「お嫁様は喋るイタチをご存知でない?」
「ご存知でないですね……」
そもそも人間と意思疎通の出来るレベルで話せる生き物などいるのだろうか。君が初めてだよ、と返すと、小菊は目を丸くして(元々丸いのだが)驚いた。しかし曜はそれよりも、また一つ増えた気になる事をすっきりと消化したい。
「お嫁様って……?」
イタチには人間の男女を見分ける事ができないのか。いや、自分は女性の格好をしていたんだっけ、とスースーする足元を思い出して赤面する。
「えっと、その、この格好は――」
「ああ、失礼しました! お婿様でした! 数百年、ずっとお嫁様しかいらっしゃらなかったのでつい……」
黒い鼻面をぽっと赤らめて、小菊は顔を押さえた。短い手がちっとも顔に届いていないのが可愛らしいが、問題はそこじゃない。『お婿様』でも大問題である。
「待って……! お婿様って何!?」
「お婿様はお婿様でございます」
「そうじゃなくて……。わかった、じゃあ俺は誰の『お婿様』なんだ」
堂々巡りだ、と思った曜は質問を変えた。すると、曜に答えたのは小菊ではなく、鈴を転がしたような、若い女の声だった。
「妾の婿に決まっておろうが」
呆れたような物言いには、地位ある者の傲慢さと威厳と、そして僅かばかりの憐憫が込められていた。
弾ける様に声のする方を見ると、小菊の後ろ。開いた障子に凭れ掛かった、女子生徒の姿がそこにある。
歳は同年代だろうか。曜が通い始めた高校の女子の制服、セーラー服を着ていた。だが、本当に同じ学校の生徒なのかと考えれば曜は首を捻るしかない。肩に掛かるさらりとした赤褐色の艶髪も。スカートから伸びるすらりとした白い足も。
ピコピコと頭で動く丸い耳と、ゆらゆら振れるふさふさした尻尾には敵わない。
「ようこそ。妾に捧げられた人の子よ」
ああ、このヒトが。
このヒトが大楠の大貂様だと、目を見た刹那に理解した。