プロローグ
ぎちぎち。ぎちぎち。
蛇のような太い荒縄が華奢な人間の体に食い込む。その人物は長い髪を振り乱して、スカートが捲れるのも構わずにその荒縄から逃れようとしていた。
大楠に縛り付けられた白い体を、町の男たちがぐるりと取り囲む。その手には赤赤と燃える松明が握られていた。周囲を照らすだけならまだいい。だが、縛られた人間はそれが別の目的に使われる事を知っている。
「やめろよ! 放せ! 俺は女じゃないし、まだ死にたくない!」
はなせー、と叫ぶ声は十代半ばの少年のもの。町の男たちは少し驚いたようだったが、それでも「まぁ、大丈夫だろう」と火を点けた。
少年に。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
熱い炎が肌をちろちろ舐めていく。
螺旋を描いてぐるりと炎が巨木を昇ると、
「貂様だ。大貂様がいらしたぞ!」
と男たちがざわめきだった。
少年の耳には歓喜に踊る声も、どんどんと響く太鼓の音も、熱風に掻き消され聞こえない。
ただ、頬を撫でるような優しい火の感触。焦げた臭いのしないのを、少しずつ冷静さを取り戻した頭で疑問に思う事が出来た。そして、己の数奇な運命を呪う余裕も些か出来た。
転校初日、生贄にされた。女装して。
彼の名誉の為に、決して女装は彼の趣味では無かった事をここに告げておく。
***
はぁー、と長いため息を吐けば、それは楠を昇る炎を巻き込んで男たちの方へ流れていった。わぁ、と慌てた声がしたので口を真一文字に結んだが、やはりどうも納得がいかない。
「何故、この者らは妾の家を十年毎に焼きたがるのじゃ」
今日は町の高校に珍しい転校生がやって来た。だから波埜は年頃の娘に化けて、尻が見えそうなスカートとやらを穿いて、わざわざその転校生とやらを見に行ったのである。それなのに、ちょっと十代の若者らしく寄り道をして帰ってくれば、これ、である。他人の家を放火するとは何事か。
「人間どもは、皆、大貂様のお怒りを鎮めようと必死なのでございます」
そう波埜に話すのは、木の葉の蔭から現れた小さな鼬だった。鼬は細長い体をちょこまかと動かして、「人間どもを転ばしましょうか?」と鼻をひくひくさせる。
「よいよい。面倒じゃ。それよりも早うこの火を鎮めねば」
波埜がぱんぱんと手を打てば、たちまち大蛇のような炎は小さくなって、最後はミミズになって土の中に潜っていった。
おおー、と野太い歓声が上がったが、彼らにはその火を消した波埜の姿は見えていないようである。一人くらい己の姿を視る者が居てもいいのに。そう眉を顰めると、ふっと男たちに向かって炎を吹きかけた。他人の家の周りでどんちゃんピーヒャラと騒いだのだ。そろそろお開きにしてもらわねば困る。
転げるように山を下りていった様は蜘蛛の子を散らすよう。波埜はそんな人間たちを一瞥して、大事な我が家に傷が無いかを確認した。根城にしている大楠は、十年毎に焼かれる可哀想な運命に遭っているのだが、そんな災難を物ともしないで今年も泰然と立っている。大人十五人が手を広げてもまだ足りない太い幹の根本には、燃えて千切れた縄がぽつり。生贄にされた人間が一人。目を閉じて、気を失っているようだった。
「……やれやれ。また雌じゃ。雌と雌では交尾はできんと、いつになったら分かるのかの」
此度もまた少しだけ家に招いて、それから人里に帰すかと考えていると、小さな鼬が畏れながら、と顔を出した。
「畏れながら申し上げます、大貂様。こちら、人間の雄にございます」
「ああ、そうじゃ。だからいつものように――。雄じゃと!」
くるりと振り向いて、今一度人間の顔を覗き込む。顔を良く見ようと前髪を引っ張ったら、ずるりと頭の髪全部が抜けてぎょっとした。
「それは人間どもの被るウィッグというものでございます」
「し、知っておるわっ!」
ぽい、と手に持ったウィッグを乱暴に放る。作り物とはいえ、長い髪の毛が腕に絡みつくのは気持ちが悪い。
雄を雌に見せていた長髪が無くなれば、その下に現れたのは色素の薄い短髪だった。茶色い、ふわふわとした柔らかそうな髪質が、どこか仲間の毛並みを思わせる。
「……確かに雄じゃな」
と言った波埜のスカートからは、好奇心を押さえられなくなった太い尻尾が右に左に揺れていた。
もっと体格の良い、雄らしい顔が好みだが。
生贄を貰って数百年。初めて捧げられた雄の生贄に、少々華奢でも構わないか、と波埜は満足そうに目を細めた。
仲間に命じて、生贄を我が家に招待するよう指示する。
鼬が数匹小さな体で、えっちらおっちら少年の体を木の洞の中に運び込んだ。