第86話
岩陰からこちらを覗く彼女は間違いなくあの謎の女性だ。
炎の黒い巨人スルトを、圧倒的な氷の魔法で倒してしまった彼女。
その彼女がこちらを覗くように伺っている。
目が合っている。
ばっちり合っている。
彼女の視線は……俺からオーディン王国自慢の王宮料理へと移っていく。
「もぐもぐ……なぁなぁ、あの人じゃないのか?」
緑色の生物は食べるのに夢中で彼女を見ない。
おい! お前が探していた人だろ!
「見ろって! あっちだよ! あっち!」
緑色の生物の顔を強引に横に向ける。
むしゃむしゃと食べながら緑色の生物はようやく彼女を見た。
目が合ったな?
彼女だよな? お前が探していた人だよな?
「食べ続けるな!」
彼女を見ても食べることを止めないので、食事を取り上げる。
すると悲しみと怒りの表情で俺を睨んできた。
いや、そもそもこれお前のものじゃないし。
俺が好意で出してあげただけだぞ。
「あの人だろ? 飯よりまず探していた人だろ」
彼女を何度も指差すと、緑色の生物はまだ不満そうな表情を浮かべるもようやく重い腰を上げて彼女を見た。
右手を上げて何か話しかけている。
彼女も緑色の生物の言葉に答えた。
何を話しているのかまったく分かりません。
とりあえず二人の会話が終わるのをその場で待つ。
緑色の生物が彼女を探していて、こうして会って敵意無く話しているのだから、お互い敵同士ってこともないだろう。
見た目はまったく異なる種族に見えるけど、二人はどういう関係なのか。
話はまとまったようだ。
彼女もこちらにやってきた。
緑色の生物は頷いて俺を見ると、右手を差し出してくる。
握手か?
俺も右手を出して握手する。
男と男? の友情がここに生まれた。
彼女と緑色の生物がどこに向かうのか知らないけど、たぶんこれでお別れだな。
スキールニルとの戦いに緑色の生物を連れていければなんて考えたけど、この人達にも目的があるはずだ。
ミーミル様が言っていたことからすると、自分達の世界に帰るための目的が。
それなのに俺の都合で戦いに巻き込むわけにはいかない。
本音は二人にも一緒に戦ってもらえるとめっちゃ嬉しいけど。
言葉さえ通じたらな。
緑色の生物の肩を叩いて、じゃあな! というジェスチャーをする。
氷魔法の使い手の彼女には丁寧にお辞儀して、俺はこれで失礼……しようとしたら、緑色の生物に肩を掴まれた。
え? なに?
いま感動のお別れじゃなかったの?
緑色の生物はまた右手を差し出してきた。
え? また握手?
もうしたじゃん。
別れ際に何度も握手をする文化なのか?
仕方なくもう一度握手しようとすると、今度は右手を引っ込めてしまった。
なんなんだよ一体。
緑色の生物は右手をまた出すと、今度は左手を右手の上に持っていき、次に自分の口に持っていくと何かを食べるジェスチャーをしてきた。
ふ~ん……そういうことね。
握手じゃなかったのか。
最初に右手を出してきたのも握手を求めてきたんじゃなくて、彼女との会話が終わったから飯を出せというジェスチャーだったのか!
しかもなんだその顔は!
まるで『俺の飯を返せ』と言わんばかりだなおい!
俺は両手で×を作り、もう飯は終わりだと伝えた。
すると、緑色の生物はその場で固まる。
は? え? なに? と事態を理解できなくて固まったのか。
いや、それもおかしいからね。
お前の飯じゃないから。
固まった緑色の生物を無視して、俺は出口へと歩き始めた。
氷魔法の使い手の彼女にはもう一度お辞儀しておく。
彼女も困ったような顔をしているぞ。
まったくこの緑色の生物の食い意地には困ったもんですね。
貴方もきっと苦労してきたのでしょう、こいつの食欲に。
すると、またあの音が鳴った。
お腹の音だ。
おい、お前散々食べたのに、まだお腹空いてるのか?!
どんだけ胃袋大きいんだよ!
「あれ?」
固まっていた緑色の生物は氷魔法の使い手の彼女を見ている。
顔が真っ赤だ。
この流れ……まさか。
「あ~……まだありますけど、食べます?」
女性に対してお腹の音が鳴ったことを指摘するのはとても失礼だ。
言葉通じないから指摘のしようもないけど。
彼女に向かってご飯を食べるジェスチャーをして伝える。
すると彼女は耳まで真っ赤になって俯いてしまった。
これはこれで……彼女に恥ずかしい思いをさせてしまったのだろうけど、言葉通じないし仕方ないのよ。
「これ、どうぞ」
時間停止空間から王宮料理をいくつか取って彼女の前に並べてあげる。
緑色の生物のように彼女が手で食べるとは思えないので、ナイフとフォークとスプーンもつけた。
冷たい美味しい水も。
「お前は散々食ったろ!」
緑色の生物が『よっこらしょっ』という感じで、さも当たり前のように彼女の隣に座って食べ始めようとしたので制止した。
お前の分じゃないから。
お前のはもうないから!
「なんだお前! やるのか!」
自分の分がないと分かると、緑色の生物は飛び跳ねて起き上がると、あからさまな怒りを向けてきた。
食い物の恨みは怖いというけど、お前に恨まれる筋合いはない!
昨日の敵は今日の友。
さっきまでの友は、今は敵!?
緑色の生物は拳を俺に向けてきた。
飯を要求しているのであって、殺意はまったく感じられない。
ま、いわばこれは試合だな。
飯を賭けた決闘だ。
本来は受ける道理も義理もないんだけど、言葉が通じない以上は仕方ない。
それに、これはこれで良い訓練になりそうだ。
鍵の魔具に魔力を流す。
こいつの実力を考えると、いくら試合とは言え本気でやらないと一瞬でやられてしまう。
こいつもさっきまで見てきた俺の実力を考えてやってくるだろうし。
「いくぞ!」
氷の魔法の使い手の彼女の前でちょっと恥ずかしいけど、氷の矢を緑色の生物に向けて放つ。
避けることもなく拳で氷の矢を次々と打ち落としやがる。
結構な魔力を込めているんだけどね。
まったく問題無しかよ。
「これならどうだ?」
風の刃の竜巻をぶつけてみた。
拳で打ち落とせるものじゃないぞ。
緑色の生物は竜巻を見ると、両手を胸の前に構えてじっとしている。
動かない気か?
竜巻が直撃する。
この最上級迷宮の魔物を倒せるほどの威力の竜巻の中で、緑色の生物は微動だにしないでただただじっとしている。
風の刃が切り刻んでいくが……切り刻めていないな。
あの筋骨隆々の鋼の肉体だから相当硬いとは思っていたけど……まさかのノーダメージ。
氷の魔法の使い手の彼女といい、この緑色の生物といい、強さの次元が半端ないんですけど。
君達って自分達の世界で神クラスの存在なんですかね?
緑色の生物から攻撃してくることはない。
どうやら俺の攻撃を全て受け止める気か。
それとも……自分から攻撃したら俺を殺してしまうと思っているのか?
氷魔法の使い手の彼女は、俺と緑色の生物の試合の横で、出してあげた王宮料理を幸せそうな表情でもぐもぐと食べている。
こちらもある意味すごい神経だ。
すぐ隣で試合しているのに、まったく問題にしないで飯食ってるんだから。
それにしてもなんて幸せそうな表情なんだ。
めちゃめちゃお腹空いていたんだろうな。
「属性を変えたところで意味がないな。ならば……」
トネリコの枝を2本、宙に投げる。
魔力を流してグングニルへと変えていく。
2本同時だ。
緑色の生物が動かないから出来るけど、実戦でこれは難しいか。
同時に魔力を流しても、2本をグングニルの威力まで高めるには2倍の時間が必要になる。
2本でおよそ10秒かかってしまう。
「これも避けないで受け止められるのか?」
緑色の生物はグングニルを見ると、目の色が変わった。
今までの余裕な様子とは違い、身を守る姿勢も本気が伺える。
でも避けようとする様子はない。
つまり……受け止められるのか。
「貫け、グングニル!」
2本のグングニルが緑色の生物に向かって飛んでいく。
緑色の生物は足腰を踏ん張って両手を前に突き出すと、左右の手で向かってくるグングニルの槍を正面から受け止めた。
貫こうとするグングニルの力と、それを止めようとする緑色の生物の力がぶつかり合って、辺りに衝撃波をまき散らす。
それなりの風圧が飛んできている中でも、氷魔法の使い手の彼女はまったく動じることなく、幸せそうにご飯を食べていた。
「2本でも無理か」
グングニルの槍は緑色の生物を貫くことなく、受け止められて消えていった。
やっぱりとんでもない奴だな。
俺の最大の攻撃魔法を防いだと思ったのか、緑色の生物は勝ち誇ったかのように、ボディビルダーが取るようなポージングを決めて喜んでいる。
まだ奥の手はあるんだけど……秘密のルーン文字を使った魔法は準備も必要だし、発動にも時間がかかるし。
それにさすがにあれをぶつけてみるわけにもいかないからな。
「仕方ない。また飯を出してやるか」
そう思ってご飯を食べる彼女の元に向かおうとしたら、彼女が立ち上がってこちらに歩いてきた。
緑色の生物と違って馬鹿食いする人ではなかったか。
彼女は笑顔で俺の隣に来る。
お腹が満たされて幸せなのだろう。
くるりと彼女は方向を変えて、あいかわらずポージングを決めている緑色の生物に向かって杖を向けた。
え? 貴方が打つの?
緑色の生物も彼女が自分に杖を向けていることに気づいたようだ。
途端、ものすごく慌てている。
両手をぶんぶんと振って、やめて! と叫んでいるかのようだ。
たぶん、実際にそう叫んでいるのだろう。
彼女の杖から圧倒的な魔力が高まる。
1秒もかからず、俺の最大限の魔力を越えている。
どれだけの魔力を持ち、どれだけの魔力操作技術なんだ。
バケツの中に満たされた水の量が、その者が持つ魔力の保有量とする。
バケツが大きければ大きいほど、水が満たされていればいるほど、魔力量は多い。
でもその魔力を使って魔法を発動する時に、バケツをひっくり返すわけにはいかない。
バケツに取り付けられた蛇口から魔力という水を、魔法を使うためのまた別のバケツに入れていくのだ。
この時の蛇口の大きさ、水が流れる速度、そして魔法を使うために水を受け止めるもう1つのバケツの大きさ。
これらは魔法を使う者の魔力操作技術に大きく依存する。
俺は学院ではこの魔力操作に関しては誰よりも秀でていたという自負がある。
そして今では魔法を使う誰よりも秀でていると思っていた……古代の神とかは除いて。
でも目の前の彼女は俺を軽く超えている。
全てにおいて。
炎の黒い巨人スルトを圧倒したあのとんでもない氷の魔法は、彼女の魔力操作技術の高さからだと分かる。
どれだけ訓練すれば、この領域に辿り着けるのだろうか。
人としての一生の時間の中で辿り着けるものだろうか。
やはり、この人達は神クラスの存在なのだろうか。
慌てふためく緑色の生物に向かって、彼女は氷魔法を放った。




