第74話
氷の大地の上を飛んでいく。
寒さの中全員で移動するのは体力を消耗するだけなので、いつものようにアーネス様に飛んでもらっている。
ただ地上と違って真っ暗な世界の中だ。
スピードを出して飛ぶわけにはいかない。
どちらの方角にフヴェルゲルミルの泉があるのか分からないため、とりあえず道が続いている方に飛んでいくことにした。
光魔法で前方の明かりを確保しながら、ゆっくり飛んでいく。
氷の中に閉じ込められた生物がいるだけで、この氷の世界ではまだ魔獣に遭遇したことはない。
ムカデ魔獣は下る道の途中での遭遇だったし。
飛んで進んでいくと、どんどん冷気が強力になっていく。
いまマイナス何度ぐらいなのだろう。
防寒具を着て結界を張っているけど、冷気を完全に遮断することはできない。
「アーネス様大丈夫ですか? 無理しないできつかったら休んでください」
「ありがとうございます。まだ大丈夫です」
みんなと合流して鍵の空間で休んでから、すでに丸3日が経過している。
飛ぶ速度が遅いのもあるけど、どこまでも続く広大な氷の世界の中で、フヴェルゲルミルの泉を探し出すことはできるのだろうか。
ニーズヘッグにどっちの方角か聞いても分からないと言いやがった。
お前の泉だろうが。
「光魔法撃ちます」
「はい」
前方を照らす光魔法。
もはや変わらない景色に見える氷の世界。
そんな世界に変化が見えた。
光魔法の明かりを反射して、何かが光ったように見えたのだ。
「何か見えましたね」
「行ってみましょう」
光が反射した場所へと向かっていく。
そこに向かってもう一度光魔法を撃ってみた。
やはり光を反射して何かが見える。
あれは……橋?
「橋ですかね?」
「私にもそのように見えますが」
あまりに巨大だったので、それが橋だと気付くのに遅れた。
間違いない。
これは橋だ。
「橋の前になにかいます。人?」
「え? 本当だ。でもこの距離であの大きさって……かなり大きくないですか?」
「巨人かもしれません」
一度降りて、鍵の空間からみんなに出てきてもらう。
ここからは歩いて巨大な橋に向かっていった。
近づいていくと、その橋の前に立っていたのはやはり巨人だった。
しかも女の巨人だ。
全員警戒態勢で近づいていく。
巨人となるとあの親子巨人か炎の黒い巨人を思い出してしまう。
ミーミル様のように良い巨人もいるだろうけど。
「止まれ」
女巨人は俺達に話しかけてきた。
俺達も特に姿を隠していたわけではないから、女巨人もとっくに気づいていた。
「お前達は何者でここに何の用だ? 見たところ、お前達は死者ではない。なぜここにきた?」
「僕達はニブルヘイムにあるフヴェルゲルミルの泉を探しています。どこにあるか分からなくて歩いていたら、ここに辿り着きました」
「フヴェルゲルミルの泉か……それはここではない。私も詳しい場所まで知らぬが、ここから向こうの方角だったはずだ」
「ありがとうございます。特にここに用はないのですが、ここってどこなのでしょうか?」
「ここはギャッラル橋だ」
ギャッラル橋……その言葉から思い浮かんでくる知識がある。
分かったぞ。
この先はヘルヘイムだ。
そしてこの女巨人はモーズグズだな。
死者の国ヘルヘイム。
そこに至るギャッラル橋を守る女巨人がモーズグズだ。
ミーミルの泉の知恵と知識が俺に教えてくれる。
ラグナロクを生き延びていたのか。
「では僕達はフヴェルゲルミルの泉に向かいますので」
「ああ。気を付けていくがいい」
俺達を襲う気はまったく無いようだ。
ギャッラル橋を守る巨人だもんな。
この橋を強引に渡ろうとしない限り、危害を加えてくることはないだろう。
死者の国ヘルヘイムは、その名の通りヘルが治める死者の国だ。
あまり関わりたくない場所である。
「行きましょう。あの巨人は橋を渡ろうとしなければ、こちらを襲ってくることはないですから」
「はい」
アーネス様以外はまた鍵の空間の中に入ってもらい、モーズグズから教わった方角へと飛んでいく。
方角を教えてくれただけで、どのくらい離れているのか分からない。
モーズグズはギャッラル橋から動けないから、実際にフヴェルゲルミルの泉に行ったことなんてないだろうし。
それからしばらく飛んでみたものの、フヴェルゲルミルの泉は発見できず。
鍵の空間の中に入って、休むことにした。
~ギャッラル橋~
モーズグズは突然やってきた生者に驚いた。
主であるヘル様が言っていた通りだったからだ。
いつの日か生者がこの橋を訪れたらすぐに報告するようにと、モーズグズはヘルに言われていた。
そのためモーズグズはすぐにギャッラル橋を渡って、ヘルの館エーリューズニルへと向かった。
ヘルの館エーリューズニルの入口には洞窟グニパヘリルがある。
この洞窟にはかつてガルムという番犬がいた。
生者がヘルヘイムに入ろうとすれば追い払い、ヘルヘイムから逃げ出そうとする死者を見張っていたのがガルムだった。
だが今はいない。
ラグナロクの時にテュールと相討ちとなり死んだのだ。
代わりに番犬を務めているのは、ガルムの子である。
「ミッティ。よしよし」
ミッティと呼ばれた番犬はモーズグズによく懐いている。
それもそのはずだ。
ミッティを産んだのはモーズグズなのだから。
ラグナロクが起こる前に、モーズグズはガルムの子を身籠っていた。
身重なモーズグズはラグナロクに参戦することなく、ギャッラル橋でガルムの帰りをまった。
結果、ガルムは帰らず、モーズグズはラグナロクを生き延びることになった。
「ヘル様」
ヘルヘイムを治めるヘルもまた、ラグナロクを生き延びた神の一人だ。
そして現在もヘルヘイムを治めている。
「人族達の生者が橋に現れました」
「そう……どこへ向かった?」
「フヴェルゲルミルの泉へと」
「……分かったわ。ありがとう。ギャッラル橋の守りに戻って」
「はっ!」
モーズグズの役目は生者が現れたヘルに報告すること。
それ以外にモーズグズは何も知らない。
「あいつの言った通りね……」
モーズグズからの報告を聞いたヘルは大きなため息と共に言った。
ラグナロクの後の新たな世界の再生。
そこに野心を持って現れたスキールニル。
ラグナロクを生き延びた神達はスキールニルによって次々と殺されていった。
ヘルヘイムを治めるヘルも当然スキールニルの標的となった。
だがラグナロクを生き延びたヘルとその軍勢はそう簡単にスキールニルに屈することはなかった。
「殺すのが難しいと分かれば、徐々に苦しめていく。癪だけど、あいつの思惑に乗るしかないね」
スキールニルはヘルを殺すことを諦めたわけではない。
しかし難しい状況の中で無理をする理由もなかった。
そのため、ユグドラシルの理を少しずつ書き換えてヘルヘイムを苦しめていったのだ。
「新たな死者の魂はほとんどヘルヘイムに辿り着けない。凍らされて終わり。スキールニルも完全にユグドラシルを制御できているわけではないから、死者の魂だけではなく、生者の記憶までも氷の世界に閉じ込めてしまっているけど……」
スキールニルがユグドラシルの支配権を完全に掌握するのは時間の問題だ。
そうなればヘルヘイムは消されてしまう可能性が高い。
苦しい状況のヘルに1年ほど前、スキールニルが突然ある提案をしてきた。
それは、ニブルヘイムをうろつく生者を見つけて始末したら、ヘルヘイムは新たな世界に残してやるというものだった。
正直、ヘルはスキールニルの言葉をまったく信用していない。
その生者を殺してもスキールニルが創る新たな世界にヘルヘイムは存在しない可能性が高い。
それでも可能性として動かないわけにはいかない。
「それにもう1つの可能性も確認しておきたいしね」
ヘルはエーリューズニルから出ると、秘密の巫女の墓へと向かう。
死者の国ヘルヘイムの墓に眠る秘密の巫女。
その力を借りるために。
「スキールニルが狂わしたユグドラシルの理のおかげで、ニブルヘイムには面白いものが揃ったからね。それを利用させてもらうよ。これぐらい乗り越えられないなら……お前達に可能性なんて無いのだから」
秘密の巫女の墓に祈りを捧げるヘル。
ヘルの祈りを通じて秘密の巫女が力を与える。
「……モーズグズが知ったら怒るかしら。まぁ本物ではないから許してくれるでしょう。それでも力は本物に限りなく近いわ。それに人族の英雄と欲にまみれた人族を。最後に堕ちたエルフの化け物。面子としていいんじゃないかしら」
巫女の墓が怪しく光る。
その力はニブルヘイムへと飛んでいった。
「死者の蘇生ではないから、いまのユグドラシルの理に反しない。どちらの結果であっても、構わないわ。お前達がここで死ねば、スキールニルに約束の履行を求める。お前達が勝った時には……最後に辿り着くまで少しお手伝いしてあげるわ」
ユグドラシルに刻まれた魂の記憶がニブルヘイムの永久凍土の氷へと流れてしまった。
氷の中で創造された生命体は長い時間をかけるほどオリジナルに近づいていく。
魂がないため本物になることはないが。
その魂のない創造された生命体に、ヘルは秘密の巫女の力を借りて擬似的な魂を注いだ。
かつてエーリューズニルの入口を守っていた番犬ガルム。
人族の英雄シグルズ。
そして欲望の果てに竜と化しシグルズに倒されたファフニール。
最悪のスヴァルトと呼ばれたデックアールヴ。
氷の中で創られた彼らの肉体は魂を得て動き出す。




