彼女がニーナ・カーマインと呼ばれる少女だったころ
私の親友、ニーナ・カーマインには婚約者という存在がいる。
ニーナはこの婚約者をいたく愛している。私とニーナは学園にあるサロンでよくお茶をしながら彼女の大好きな恋の話をするのだが、いつも最後にはニーナののろけ話になってしまうのだ。
今日もあの人はステキだ、今日の御召し物はよく似合っている、あの人に似合わない服などないのだけれど、今日は特別似合うお色を召している、あの人はその色がお気に入りでその色の下着しかお持ちではないのだ。なぜ下着事情まで知っているんだろうと、初めて聞かされた時は気味がわる、ごほん、不思議でしょうがなかったけれど今ではもう慣れた。私は彼のほくろの数まで知っている。
そんなニーナの婚約者について今学園では、ある噂がまことしやかにささやかれている。
ニーナの婚約者はとある女生徒と親密な関係になってしまい、ニーナとは婚約を破棄する寸前だ、と。
確たる証拠があるわけではないのだが、確かにその女生徒とニーナの婚約者が仲睦まじく並んで歩いている姿はよく目撃されている。かくいう私とニーナも、それを見たことがあるのだ。その時彼は、たしかに女生徒の肩を抱いていた。
それに、ニーナは近頃私といることの方が多くなっている。ニーナと婚約者は学年が違うからそもそも学園内でともに行動できる時間は少なかったのだけれど、その時間がさらに少なくなっているような気がするのだ。ニーナにそれとなく聞いてみても「だってあなたと話すことが楽しいんだもの」と言うだけだから、それ以上の事は聞けなかった。そしてそれに対して婚約者と噂になっている女生徒は、その婚約者と同学年だ。ニーナよりもずっと同じ時間を過ごすことができる立場にある。
もしもニーナがカーマインの姓を持たなくて、ニーナの婚約者がディースバッハの姓を持っていなかったのなら、この噂はここまで広まることは無かったのだろうと思う。けれど現実として、ニーナはニーナ・カーマインだし、ニーナの婚約者はディースバッハ家の長男なのだ。名門同士の婚約にさした影は、一大スキャンダルとして瞬く間に学園内へ広まっていったのである。そしてある日を境に、もう一つのうわさが流れ始めた。
ニーナ・カーマインが、その女生徒をいじめている、と。
もともとニーナが一部の女子生徒に良く思われていないことが災いして、その噂も瞬く間に広がっていった。ニーナと私が廊下を歩けば、ひそひそと話す声が聞こえた。内容は悪口だろう。隣を歩くニーナをちらりと見てみると、まるで気にした様子は無かった。彼女が何を思っているか、親友をやって3年ほど経つけれど思い量ることは出来ない。
悲しんでいるのか、悔しがっているのか、嘆いているのか、それとも。
親友の感情を思い量ることができないまま、数日が過ぎていった。
そのうち何かが起きる、とは思っていた。
食堂に、いくつもの食器が割れる、耳をつんざくような音がこだました。私とニーナの、すぐ傍だった。
割れた食器の傍にはもう一人、青ざめた顔で立ち尽くしている女生徒がいる。私は彼女を知っている、ニーナの婚約者と噂になっている女生徒だ。そして彼女は、この床に散乱している割れた食器の持ち主だった。食器を乗せたトレイを持った彼女と、ニーナがぶつかりあったのだ。
初めて間近で見る彼女は、上級生なのだけど、私たちと同じくらいか小さいぐらいの身長だった。
食器の割れたすさまじい音に、私たちの周りにはすぐに人垣が出来上がる。
青ざめた顔の女生徒―たしか、グーリーン家の令嬢だったと思う―それと冷たい瞳をしたように見えるニーナ。ましてそれが噂の2人となれば、群衆がどちらが善でどちらが悪かを判断するのに時間はかからないだろう。
私はニーナの肩に手を置いた。するとニーナは私を見て、ゆっくりと首を横に振った。私は親友の見せたその行動の意味を推し量ることができなかったけれど、なんとなく、ニーナから離れた方がいい気がして一歩下がることにした。
そのとき、群衆をかき分けてこの場に入ってくる一団がいた。
ニーナがちらりと見やり、ミス・グーリーンはそちらを見て大きく肩を跳ね上げた。
入ってきたのは、上級生の一団だった。3,4人はいるその一団はすべて女生徒で構成されている。先頭に立つひときわ目の吊り上った上級生がきっとニーナを睨み付けた。いや、きっなんて可愛らしい表現では間に合わない、ぎろ、とか、ぎら、とかそちらのほうがずっと似合いそうだった。
「ミス・カーマイン、あなたは恥ずかしくないのかしら?」
そしてニーナに向かってそう言い放った。ニーナは、何も答えない。
「あなたはミス・グーリーンに醜くも嫉妬して、あげく自分の手は汚さずにミス・グーリーンに数々の陰湿な嫌がらせを仕掛け追い詰めた、私たちは知っているのよ」
ぎろり、という音が似合いそうな目でニーナを睨み付けながら、上級生はニーナを糾弾しはじめる。
「彼女の持ち物を切り裂くよう人に指示したり、あなた自ら彼女を階段から突き落としたり、果てには暴漢に彼女を襲わせたりまでしたことをね!」
上級生のニーナを糾弾する声が壁に反響して、食堂中に響き渡る。それでもニーナはただじっと、黙っているだけだった。上級生はニーナのそんな態度にいらついているのか、舌打ちをしたのが聞こえた。
「言い逃れなんて出来ないのよ!あなたがミス・グーリーンを突き落とすところを見た人間だっているの!それに、残念でしょうけどあなたが雇った暴漢は仕事に失敗したのよ!そして捕えられたその暴漢はね、こう言ってるの!あなたに雇われたってね!さあ!カーマイン家の令嬢なら潔く認めたらどうなの!自分を差し置いてディースバッハ様に愛されたこの女が憎くて、嫌がらせをしたと!」
ディースバッハ様が愛しているらしいミス・グーリーンをこの女呼ばわりした上級生は、もはや叫ぶような語調でニーナを弾劾した。ニーナは、やはり何も答えない。そんなニーナの態度が上級生をさらにいらだたせたのは目に見えていた。目を見開いた上級生が大きく息を吸う音が聞こえた。
「何とか言いなさいよ!」
金切り声に、思わず耳をふさいだ。あまりの甲高さに窓ガラスが割れるんじゃないかと思うくらいだった。そしてニーナはやはり、何も答えなかった。ニーナのそんな反応を受けた上級生はもはや怒りをあらわにして、もうその顔は、なんというか、とても見られたものじゃない。
「賑やかだねえ、どんな催し?」
上級生が怒りにまかせてもう一度口を開こうとしたそのとき、この殺伐とした場の雰囲気に似合わない、ひょうひょうとしたどこか楽しげな声が響いた。
人垣を割って侵入してきたその人物は、この場にいる全員の顔を見渡すとあごに手を当て、「ふむ」とつぶやいた。それから流れるような動作で―そういえば存在を忘れていた―ミス・グーリーンへ近づきその肩へ手を回した。ミス・グーリーンはびくりと肩を跳ね上げる。怯えているのだろうか、その姿は下級生のわたしから見てもまるで小動物のようだった。
ミス・グーリーンの肩に手を回した人物―ニーナの婚約者、ヨハン・ディースバッハ様がその細い目でにこりと笑った。
「いいよ、続けて」
なにがいいよなのかわからないけれど、ディースバッハ様はそう言った。そしてそのいいよ、をどう解釈したのかわからないけれど、ニーナを睨み付けた上級生は勝ち誇ったようにニヤリと笑った。
「どう?ミス・カーマイン、あなたはこれでも黙っていられるのかしら?」
上級生がそう言うのだが、ニーナの視線はディースバッハ様の方へ向いていた。ニーナは何を考えているかわからないような表情で、じっと自分の婚約者を見つめている。
「わかったでしょう?ディースバッハ様が本当に愛しているのは誰なのか、わかったのなら認めなさい、ディースバッハ様をとられた腹いせに、ミス・カーマインに陰湿な嫌がらせを仕掛けて追い詰めたことをね!」
まるで犯人を追いつめた主人公のように、上級生はニーナを指差し力強くそう言い放つ。
しん、と静まり返った場に、ついにニーナの凛とした声が響いた。
「あなたは、何を言っているのかしら」
ニーナの瞳は、いつの間にか上級生をとらえていた。
ニーナの言葉を聞いた上級生の顔が、みるみるうちに赤くなる。その形相はすさまじく、やっぱり見ていられない、と私が目をそらしたそのとき。
パン、と乾いた音がした。
驚いて視線をもとに戻すと、わたしの目に飛び込んできたのはまず、歯を食いしばり、肩で息をしながらやはりすさまじい形相をした上級生と、それから頬を抑えて斜め下へうつむいているニーナの姿だった。
「…なんなのよ」
平手打ちをしたままの姿勢ですさまじい形相をしている上級生が、しぼりだすような声でつぶやいたのが聞こえた。
「なんなのよあんたは!あんたは!あの女に嫉妬して嫌がらせをしたの!あんたがやらせたの!それをディースバッハ様の前であばかれて!ディースバッハ様に軽蔑されて!捨てられる!捨てられるのよ!なのになんであんたは!そんな顔しかしないの!もっと、もっと悔しがる顔を見せなさいよ!絶望した顔をしろ!」
彼女の叫びが、食堂の高い天井にきんとこだました。その姿は、なんというか、痛々しくて見ていられないと思った。もはや後ろに連れていた取り巻きさえも両手で口を押さえて驚きの表情で彼女を見ている。
ちらりと見るとミス・グーリーンはついに顔を覆っていた。そしていまだにその肩を抱くディースバッハ様は、彼は、片手で口元を隠して肩を震わせていた。
「ねえ」
上級生の荒い息遣いだけが聞こえる中、再びニーナの声が響いた。うつむいていた顔を、ゆっくりとあげる。すると髪に隠れていたニーナの瞳があらわになる。彼女の家名と同じカーマイン色をした、ただまっすぐな瞳。
「やはりあなたの言うことは、わたくしにはわからないわ」
そして次に、ニーナの表情があらわになったとき、その場にいる誰もが目を見開き驚きの表情を浮かべた。ニーナの目の前に立つ上級生も、その取り巻きも、顔を覆っていたミス・グーリーンも顔から手を外して驚きの表情でニーナを見る。
顔をあげたニーナは、笑っていた。
取り巻きの誰かが「ひっ」と息をのむ悲鳴をあげたのが聞こえた。純粋で、一点の曇りもない、とても美しい笑顔。ニーナの親友をやってもう3年ほど経つけれど、私はいまだにこれにだけは慣れることができない。恐ろしいくらいに純粋で、美しいそれは、見る人にある種の恐怖を与えるものだから。
人が恐怖を感じるのは例えば、自分に危害が加えられそうなときだったりする。
けれど人は、自分の理解を越えた存在を目の前にしたときもやはり、恐怖するのである。
うっとりと夢を見ているような瞳でニーナは語りだす。恐ろしいくらいに純粋で、一点の曇りもなく美しい、彼女の世界を。
「だって、あの人がわたくしを軽蔑するとか、捨てるとか、それに、わたくしがあの人をとられた?そんな、おかしなことばかり、ねえ、あの人が本当に愛しているのは誰なのか、そんなことはわかりきっているでしょう?わたくしがあの人を愛しているように、あの人はわたくしを愛しているの、幼いあの日、初めて会った日からずっと、わたくしたちは愛し合っているのよ、だから噂なんてまったく取るに足りないことだし、あなたの言う嫉妬なんて、わたくしには、必要の無いことだわ、ねえ、だってそうでしょう?あの人は、わたくしを、愛しているのだから」
場がしん、と静まり返った。
この場にいてニーナの表情を見つめる人の誰もが、その顔を青ざめさせている。例えばニーナの目の前で、もはや声も出せずにいる上級生や先ほど息をのむ悲鳴をあげた取り巻き、それからディースバッハ様に肩を抱かれたままのミス・グーリーン。
いや、私は、ひとつ嘘をついた。この場にいる誰もが、と言ったけれど私はそれに、ただ一人を除いて、と付け加えるべきだった。そしてそのただ一人がいま、まさに、この静寂を打ち破ろうとしている。
「ぷ、はは、あっははははっ!」
この場にそぐわない、軽快な笑い声が響いた。
笑い声の主は、先ほどまで肩を震わせて耐えていた、ディースバッハ様だった。
ディースバッハ様はミス・グーリーンの肩に回していた手をひっこめると両腕で自分のお腹を抱えて笑い続けた。隣にいるミス・グーリーンやニーナの前に立つ上級生などこの場にいる誰からも驚きの目を向けられても一向に構わず、ディースバッハ様は笑う。今まで耐えていた分、思い切り笑い続けた。
そうして思う存分笑ったあと、ディースバッハ様はようやく息をついた。笑いすぎて目に溜まった涙を指でぬぐいながら、彼はニーナの傍に立つ、上級生を見た。
「あー笑った笑った、ねえ、君の負けだよ」
「え、ディースバッハ様?」
負け、だと、そんなことを突然言われた上級生は困惑の目を向ける。それは、絶望にも似ている気がした。そんな目をした上級生に、ディースバッハ様は何を考えているのかわからないその細い目を向ける。愉快そうにゆがめられたそれは、そこに秘められた感情はわからないにしてもそのどこかに、たしかに、冷酷さを宿している気がした。
「ミス・グーリーンを利用してニーナを絶望に追いやろうってやり方は面白かったけどね、やっぱりというか、ニーナには敵わなかったかあ」
なにがおかしいのかわからないけれど、ディースバッハ様はそう言うとくくと笑った。「ちょっぴり期待してたんだけど」なんてぼやく彼は、自分に向けられる視線など気にも留めていないのだ。群衆の困惑した視線も、立ち尽くす上級生の絶望した視線も。
「ああ、それとね、人を使う時はもっと口が堅いのを選ばなきゃダメだよ」
「え?」
「じゃないとこういうことになるからさ」
パチン、と指を鳴らす。
するとディースバッハ様の後ろにいる群衆が割れて、2人の人間がこの場に入ってきた。1人は髪を長く伸ばした細身の男子生徒で、それを見た上級生が大きく息をのむ音が聞こえた。もう1人はその男子生徒を拘束している、体の大きな男子生徒だった。その巨体には見覚えがある、ディースバッハ様の付き人だ。今日もやはり不機嫌そうな顔をしている。
「彼は面白いことをたくさん話してくれたよ、ミス・グーリーンの教科書や制服を切り裂いたとか、お金を渡して目撃証言をさせたとか、ああ、暴漢まがいのこともしたって言ったね、でも一番面白いと思ったのは」
ディースバッハ様がその細い目をさらに細く歪ませて、にいと笑う。
「彼がそれを、誰のためにやったのかって話、だったかな」
それはたしかに冷酷さを秘めた、いや、秘めてなどいない。冷酷さをむき出しにしたその目に射抜かれて、上級生はついにその場に崩れ落ちた。痛々しく、甲高い悲鳴をあげて。
「ま、あとの面倒なことは生徒会に任せるよ」
ディースバッハ様がそう言うことが合図だったかのように、人垣を割ってある一団がこの場に侵入してきた。先頭に立つのは、われらが生徒会長だった。今日もやはり眉間にぐっとしわを寄せている。ディースバッハ様が眉間にしわを寄せた生徒会長に笑いかけたのが見えた。眉間にしわを寄せた生徒会長はそれをさらに増やして、たしかに、チッと舌打ちをしていた。
生徒会長はその険しい顔のまま後ろに引き連れた一団へ指示を出す。一団はそれを受けて動きだし、あっという間に上級生とその取り巻き、そしてディースバッハ様の付き人が拘束していた男を取り囲み連行していってしまった。
そして、生徒会長だけがその場に残った。ディースバッハ様がまた生徒会長に笑いかけている。「ありがと」とのやけに軽すぎる感謝の言葉を添えて。生徒会長はぎろりと睨み付け、そしてまたたしかに、チッと舌打ちをした。
「ニーナ」
それからディースバッハ様は、婚約者の名前を呼ぶのだった。じっと見つめて、さも愛おしそうに。
「教室まで送るよ、おいで」
「はい、ヨハン様」
うっとりと、そしてまっすぐにただ婚約者しか見ていないニーナは、差し出された手に向かって歩いていく。私はどうするべきか少しだけ迷ったけれど、この場に残ったって仕方がないのでニーナの後についていくことにした。あくまでニーナとディースバッハ様の邪魔にならない距離を保って。
そうでなくたって前方を歩くあの2人が放つ雰囲気には、近寄りたくない。
それは、”事件”から数週間が経ったころのことだった。
「ニーナ、ここで待っていれば会えると思った」
「まあ、ヨハン様」
私たちが愛用しているサロンの入口に、ディースバッハ様がいたのだった。扉に寄りかかっていたディースバッハ様はニーナの姿を見つけると扉から体をはなし、ニーナに笑いかけた。いつになく、何を考えているかわからない胡散臭い笑顔だと思った。
「あのねニーナ、ちょっと後ろのお友達と2人で話がしたいんだけど、借りてもいいかな?」
この男、ごほん、ディースバッハ様はその胡散臭い笑顔で何を言っているんだ?
ニーナが「まあ」と言って私を振り返る。その表情はいつも通りだった、と、思うのだけど。いや、ニーナが嫉妬なんてするはずないというのはよくわかっている。私を睨むはずがない。なのに私はなぜか、ニーナの顔が少しだけ、本当に少しだけ曇っているように見えたのだった。
ニーナはにこりと笑ってからまたディースバッハ様の方へと顔を戻した。
「あまり長くはお貸しできませんよ?」
ニーナがうふふと笑う声が聞こえた。笑っている。気のせい、だったのだろうか。まあ、ほんの少しの違和感だったし、私とてニーナの感情をすべて思い量ることができるわけではない。気のせいだったと思っておこう。
私がそんなことを考えている間に、ニーナとディースバッハ様の間で話がついたらしい。ディースバッハ様が私を呼んだ。私の意志は、どうでもいいのか。まあわかっていたことだからいいけれど。私はディースバッハ様に続いてサロンへと入っていくのだった。
そして、私の後ろで扉がしまる音が聞こえた。
「さて、と」
きらびやかで、それでいて可愛らしいサロンに驚くほど似つかわしくないディースバッハ様は、振り返るとそう言って、その何を考えているかわからない細い目でじっと私を見た。
「何か俺に言いたいことがあるんじゃないの?」
自分の方から話がしたいと言っておきながらこの男、ごほん、ディースバッハ様はいったい何を言い出しやがるのだろう。けれどディースバッハ様の言葉は、まったくの的外れというわけでもない。ディースバッハ様の方からそう言うのなら、言ってやろうじゃないか。
そのやに下がったツラがどうにかなるぐらいはっきりと、単刀直入に言ってやる。
「先日の、事件、と言えばいいんでしょうかね、あれは、ディースバッハ様が仕向けたことですよね」
しかし残念ながら私がそう言っても目の前の男は、その胡散臭い笑顔を崩さなかった。
「ミス・グーリーンにやたらと構ったり、人目につくところでわざと親密そうにしてみせたり、ニーナの前ですらそうしたのは何の為ですか?」
目の前の男は笑ったまま、何も答えない。
「ミス・グーリーンとの噂が立つことで起こりうる事態を予測できたはずです、普段からニーナを良く思わない人間がいることも、そういう人間が何を考えるかも、それでもあなたはミス・グーリーンを構い続けて、ついにはそれがあんなことを引き起こした、あなたは」
わかっていたなら事前に止めることもできたのに、ミス・グーリーンとわざと親しげにしてみせたりなんてしなかったら、あんなことは起きなかったかもしれないのに。ニーナの婚約者なのにどうして。
「どうして、ニーナをあんな目にあわせたんですかっ」
サロンに響いた自分の声で、私は自分が思った以上に感情的になっていたことに気が付いた。
ニーナはたぶん傷ついたりなんかしていない。ディースバッハ様の愛情を疑ってもいないし自分の愛すらら疑わない。そんなことはわかっているのだけれど、私は、私はやはり怒りを覚えているのだ。
目の前の男は、この男は、自分を愛している人間をなんだと思っているのか。
この男は。
「…ニーナはね、俺と初めて会ったその日から今まで、一度も嫉妬した顔を俺に見せてくれたことがないんだ」
ディースバッハ様が、ようやく口を開いた。静かに、そして、今までに見たことが無いほど、たぶん、真剣に。
「俺が何をしたってニーナは嫉妬しない、若いメイドのおしりを追っかけたって、美しい歌姫に夢中になったってニーナは嫌な顔ひとつしなかった」
驚きはしない。容易に想像がつくことだ。
「俺が8つのときだったかな、ニーナにどうしてって聞いたらね、ヨハン様はわたくしのことを愛してくれているからってとてもキレイな笑顔でそう答えるんだよね、ああニーナは嫉妬しないなって思ったよ、嫉妬した顔が見てみたいけど無理なんだって気づいた、だから幼い俺はその願望を忘れることにしたんだよ」
ニーナからは聞いたことが無い話だった。ああ、ニーナはそんなころからニーナだったのか。
「でも最近ミス・グーリーンとしょっちゅう会うようになって、それを思い出したんだ、ニーナの嫉妬した顔が見てみたいって」
ディースバッハ様の顔から真剣さが消えた、ように感じた。
「無理かなとは思ったけど、やってみなくちゃはじまんないからね、まあ結果やっぱり無理だったわけだけど、いろいろと面白かったからやっぱりやった甲斐はあったなあ」
ああ、そんな風に笑うこの男を見ていると、いらついて仕方がない。
「あなたはっ」
自分で思っていたよりもずっと大きな声が出た。私はやはり、怒っている。この男は本当に。
「あなたはニーナを、本当に、愛しているんですか」
睨み付けて、責めるようにそう問えば、ディースバッハ様はその胡散臭い笑顔のまま口を開いた。
「愛してるよ、とても美しくて、カーマインの家名を持って生まれたニーナを、俺は愛してる」
そして、そんな答えを私に告げた。
「じゃあ、それじゃあ、ニーナがそれを失う日が来たら、あなたは」
どうするのか。尚も睨み続けてそう問うと、ディースバッハ様は顎に手を当てて、少し考え込む様子を見せた。その細い目を閉じて、そして、もう一度開く。
「それは、その時が来てみないと、わからないな」
ディースバッハ様の答えを聞いた瞬間、頭がかんと冴えたのがわかった。それから、昂っていた感情がすうと落ち着いていく感覚。この男は、この人は。
「そう、ですか」
もうこの人に対して、激しい怒りの感情は無かった。けれどにまにまと笑ったままのこの人に、何か言ってやりたくてもう一度睨み付けてみる。
「ニーナを泣かせたら、怒りますから」
「うん、じゃあ君を怒らせないように努力するよ」
「そんなことより、ニーナを幸せにする努力をしてください」
私がそう言うと、ディースバッハ様は笑った。それが返事のつもりなのだろうか。いっそもう今怒ってやろうか。そう思っていると、サロンの扉が開く音がした。
「ヨハン様、わたくしはもう限界です」
その音に振り返るのとほぼ同時に、ニーナが私の方へ駆け寄ってくるのが見えた。そしてニーナは私の腕をがっちりと掴むと、驚いたことに、ディースバッハ様を睨み付けたのだった。
「いくらヨハン様でも、あまり長くキビを独り占めされるとわたくしも怒りますよ」
そしてニーナは、そんなことを言った。
私も、ディースバッハ様も思わずぽかんとしてニーナを見つめてしまう。眉根を寄せて、不満げに口を尖らせたニーナの表情はまるで、いや、これはたしかに。
「ぷ、あっははは!」
ディースバッハ様が笑い出した。大きな口を開けて、お腹を抱えて笑ったのだった。
「なんだ、そっちかあ、まあ俺が見たいのとは少し違うけど、これで我慢するしかないかなあー」
笑いながらディースバッハ様はそんなことを言った。
ニーナはディースバッハ様の笑っている意味がわからなくて、更に不満を募らせたようだ。私の隣で、大げさに目を見開いてみせて非難の表情を浮かべる。
「まあヨハン様、何がおかしいんです?」
「あはは、ごめんごめん、ニーナは怒った顔も可愛いなと思ってさ」
ディースバッハ様のうまい切り返しに、ニーナは「まあ」と言って口をおさえた。ぽっと頬を赤らめている。その様子は私が見ても可愛いと思うものだった。
「ニーナの怒った顔って、あまり見たことがないから余計にそう思うんだよ」
そう言いながら、ディースバッハ様は私たちのほうへ歩いてくる。ニーナは相変わらず口をおさえたまま「まあ」と言った。うっとりとしているのがわかる言い方だった。
そして近寄ってきたディースバッハ様は、ニーナの手ではなく、なぜか私の手を取った。この男、何をしていやがるのだろう。
「だから時々、俺と2人で会ってくれないかな」
ああ、この男は、最低の男だ。
「ヨハン様ったら、キビは渡しませんよ」
「いいじゃない、俺だってニーナの大事な人と親交を深めたいんだからさ」
「でも、でも2人きりはダメです、キビを独り占めされてはわたくしも怒ると言ったじゃありませんか」
だいたいニーナもニーナだ、こんな男のどこがいいんだろう。ニーナの怒った顔を見ながら笑っている、心底嬉しそうに、笑っているこんな男のどこが。いや、ニーナにそんなことを聞いたって返ってくる答えなんて決まっている。わざわざ私の方からそんなのろけ話のきっかけを提供なんてしたくはない。
ディースバッハ様が小声で「だから彼女を誘ってるんだけどね」とつぶやいたのを耳ざといニーナが聞きつけたものだから2人のけんかは更にヒートアップしていく。けんかというか、ニーナが一方的に怒っていてディースバッハ様は相変わらず笑っているだけなのだけど。しかも、至極満足そうに。
ああ、そろそろニーナにがっちりと掴まれた腕が痛くなってきた。ディースバッハ様はいい加減私の手を離しやがってください。いやだからニーナ、痛いってば。
ねえちょっと、痴話げんかなら余所でやってくれないかな、2人とも。