第8話 誰が教育したら良かったのか
私は深呼吸を繰り返して冷静さを取り戻す。
「芸能界に入っても、繁華街に連れて来てくれるような友達は出来なかったの?」
同棲中に聞いた話では女性にアプローチするのに忙しくて、男友達と呼べるような存在が居ないことは分かっている。彼の祖母が存命だったころは、それなりに学校の友達は居たらしいのだけれど、それが亡くなり上京すると周囲は女性たちばかりになったという。
「母に・・・。」
彼が言いにくそうにしている。
「えっ、なに?」
「母に・・・母と事務所の社長に止められていたんだ。そんなところに近付いてはいけないって。相手が欲しいのなら、女優を口説けと言われた。」
売り出し中で大事な時期なのだ。それだからこそ私との同棲も解消した。いやさせられた。下手に一般人女性に手を出すよりは、女優側が暴露するはずもないからスキャンダルになりようがないのだろう。たとえバレても今の芸能界では女優が損をするだけで決して男は損にならない。
「もしかして、事務所の社長って女性だったりするの?」
「そうだよ。母が昔、お世話になっていたマネージャさんがやっている事務所。それがどうかした?」
やっぱり、女性は理解できないのだ。
どんな形であろうとも男が欲望の処理ができずに溜め込めば精神的な病気になってしまう。ということを。以前、裕也に聞いた話では溜めれば溜めるほど、街で見かけるあらゆる女性を欲望の対象として見てしまうことに理性が働かないらしい。
私とて泌尿器科医になるためにそういった専門学習を行い、欲望に関する統計情報から、ようやく理解したのだ。それまで『欲望は我慢すればいいだけの問題だ。』と思っていた。
「あのね。貴方が相手した女性はタイから来ている留学生で、繁華街で働いている人間なの。タイだから、タイ古式マッサージかな。今は不景気だから、お客さんを捕まえに来るのよ。女の武器を使ってね。」
私も20歳を越え、店長が飲みに連れて行ってくれたときに見た程度なのだが、露出気味の女性があたかも自分の恋人に抱きつくみたいにして、何処かに誘導しようとしていた覚えがある。
店長は上手くあしらっていたが、酔っていて、しかも今の今まで口説いていた女性に似ていたならば見間違えてもおかしくはないかもしれない。
「だから、『マッサージをしてあげる』なのか。でも、ベッドに押し倒しても嫌がらなかったし、むしろ積極的だったよ。」
ようやく相手が女優では無いと分かったらしい。
だが、嫌がらないのも積極的なのも何故分からないのだろう。
相手はちょっとイケメンの普通の男性をキャッチしたつもりだったのに、連れて来られたのは、高級ホテルのスイートルームだったのだ。彼は優しく見えるし、どんな女性であってもここで拒否をするなんてことをするはずは無い。
なんと言っても、彼女たちはお金を稼ぎに繁華街で働いているのだ。むしろ積極的に相手をするだろう。
それがマッサージ代さえも払わずに追い出そうとすれば、しかも、『お金を貰ったら困るだろう』なんて相手に取ってわけの分からないことを言い出したのでは、激怒して週刊誌の記者に喋ったとしても不思議じゃない。
「理解できないかもしれないけど、世の中にはそういう女性も居るのよ。」
本当は繁華街に連れて来てくれる男友達が居ればよかったのだが、流石に同棲中にそこまで頭が回らなかった。何事も経験なのに。まあ、変な病気を貰ってこられても困るから、せいぜいが喫茶店の店長に話し相手をさせるくらいが関の山だったろうけど・・・。
私の教育の仕方が間違っていたのか?
いやいやいや。私がすべき教育じゃない。男親が居れば男親がすべき問題だ。彼が物心つく前には彼の名目上の父親は亡くなっていたし、本当の父親が居ることさえ彼は知らないのだ。
母親が繁華街に連れて行ってくれるような男友達を作ることを止めなければと思うが、彼にとって芸能界を先導してくれる母親の言葉は絶対だったのだ。
*
翌朝、これも母親が手配しておいてくれたのか部屋にモーニングが運ばれてくる。
スイートルームに用意されたダイニングテーブルを使い、本格的なモーニングが並んでいる。サラダに焼きソーセージ、ベーコンエッグが盛られ、それとは別に銀の保温容器に入ったスクランブルエッグが並び、焼き立てパンが数種類あって、フルーツが盛られている。
ほかにも、牛乳やオレンジジュースが入ったポット、コーヒーは当然あって、保温の被せモノがしてある紅茶のポットまで用意されていた。アメリカンブレックファーストというやつらしい。
しかもウエイターさんが言うには、少し待てば和朝食まで用意できるらしい。至れりつくせりだ。スイートルームの朝食ならばこんなものかもしれないが贅沢だ。
彼は、いつものことなのか、ヤケになっているのか健啖ぶりを発揮する。それにつられて私もすこしばかり食べ過ぎたようだ。
それなのに食休みを挟むとさらに相手をさせられた。もうこれでお別れだと思っているらしい。私は見ない振りをしたが、涙まで流している。この男がこんなにも情が厚かったなんて、今まで知らなかった。
まあ、直に病院で顔を合わせることになるのだけれど、それは言わぬが花だよね。
彼の母親から連絡が入り、弁護士を連れて来るという。私にもこの後、彼女から話がしたいと言われたので、弁護士と顔を合わさないように頼んだ。
私が地下まで行ける北側のエレベーターを使い、彼女と伸吾さんは南側のエレベーターを使うことになった。
私は余裕を持って12時30分頃に部屋を出ると北側のエレベーターに向かう。
途中、南側のエレベーターを通りがかった際にチンというエレベーターの到着音がしたので、慌てて近くのレストルームに入る。
「それでは、よろしく頼むぞ。」
「はい。ご子息のことはお任せください。」
伸吾さんの声が聞こえ緊張する。間一髪だったようだ。
しかも相手は彼の実の父親のようだ。しかし、何処かで聞いたような声だ。やはり有名な俳優なのだろう。
伸吾さんがエレベーターに乗り込み、エレベーターが下りていく音がする。そして、彼の父親が歩いていく音が聞こえ、何処かの扉の前で止まったらしい。彼が泊まっているスイートルームでは無い方向のようで、カードキーを差し込んだのだろう若干の間があって、扉が開く音に続いて扉が閉まる音が響いた。
私は息を止めていたらしく。はあはあと呼吸をして息を整える。レストルームを出ると北側のエレベーターに再び向かう。
確か、この辺りだよね。彼の父親が止まったところは。スペシャルスイートの略だろうか『SS』と書かれたこの部屋の周辺に他に扉は見当たらない。彼が泊まったスイートよりも更に上を行く部屋らしい。あるところにはあるものね。
そのまま、北側のエレベーターを使い、地下に降り立つと彼の母親に電話を掛ける。
「すみません。このまま待っているよりも帝都ホテルの喫茶ルームに行ってみたいのですが、よろしいでしょうか?」
私は、おのぼりさんを装い、言ってみる。確実に伸吾さんと会わないようにしておきたいのだ。できれば、彼の父親とも。これ以上、彼の秘密を知りたくない。さっきのニアミスがドキドキモノだったから、少しでも別の場所で心を落ち着けたい。
*
私が帝都ホテルで昨日食べられなかったケーキと紅茶を堪能していると、1時間もせずに彼の母親が到着した。
「全くもう、何で私が『ベティー』のプロデュースなんかしなきゃならないって言うのかしら。ああ、ごめんなさい。」
彼女は到着するなり、愚痴を呟きだした。帝都ホテルは、東都ホテルよりも格が幾分上な分だけ週刊誌の記者などは入りづらい環境となっているので安心しているようだ。
「どうしたのです?」
「ああ、貴女になら言っても構わないわね。」
彼が口説いていた『ベティー』という女優から電話が掛かってきて、タイの同国人のコミュニティーで事件のことを知ったそうだ。彼女たちは遠縁にあたるそうで、彼が関係を持った女性をタレントして、『ベティー』という女優をその姉としてプロデュースして欲しいと提案してきたそうだ。
「歌手と違って、女優のプロデュースなんて大赤字が前提よ。主演する映画を企画したら出資までしなくちゃいけないのよ。なんで私のコネやお金を使ってあの『ベティー』にそこまでしてあげなくちゃ、いけないのよ!」