第3話 私の大切な日常は戻るのか
私の日常は戻った。
いや、医大受験の準備に入り、息抜きに喫茶店のバイトを入れていると言うのが正しい。高額バイトのうち、例の件で店長に恩を売り、わがままを言えるこのバイトを残しておいたのには、そんな理由があったのである。
それに店長から私のことが彼の母親に伝わったほうが相手も安心するだろう。
彼が俳優として実績を残さないうちにアパートに現れても追い返すだけで済むが、この場所に現れた場合、逃げも隠れも出来ないので会わないわけにはいかない。そういうとき店長が上手く処理してくれるだろうという思惑もあった。
「それでどうなんだ? アイツは上手くやっているのか?」
この店の出資者の息子である彼は店長にとって、世話の焼ける弟みたいな存在らしい。あれだけ迷惑をかけられているというのにお優しいことだ。まあ面白がっているだけなのかもしれないが・・・。
「ウザいくらいにスカイペで報告してくるところを見ると、上手くやっているみたいですね。」
別れたと言っても、SNSでは繋がったままだ。彼の母親もそこまで介入する気は無いらしい。
「あーあ、なんでこんな無表情女に夢中になってるんだか・・・。1年も続くとは思わなかったぞ。」
私はポーカーフェイスが得意だ。ある出来事があってから、表情が出にくくなり、出来ることといえば愛想笑いくらいだった。それも、この店長には見破られてしまう程度なのだが、最低限の客商売には十分だった。
もちろん、前立腺ガンを扱う泌尿器科医になるにしても、この程度の使い分けで十分である。下手に感情が表情に乗って、患者さんに病気を感づかれてしまうよりは随分マシなはずである。
「押し付けておいて何を言っているんですか、全く。感謝してほしいですね。今も募集しても碌にウエイトレスが応募してこないじゃないですかこの店。」
近隣の高校・大学には漏れなく彼の悪評が響き渡り、この店どころか周辺の店にも女子高生・女子大生といった人間が寄り付かなくなっている。
「いいんだよ。これで・・・ここは二丁目に出勤するお姉さま方もいらっしゃるんだ。綺麗な男のウエイターが居ればそれだけでいいんだよ。」
なるほど。道理でここのメイン料理である単価が高く野菜中心のハンバーガーを頼み、不味そうにかじる女性のお客様が多いわけだ。私には全く区別がつかないが、夏場でも綿マフラーをしているのは、そういうわけなんだな。そういうときは、必ずウエイターを使っているのも頷ける。
「それ、他の男のバイトに言っていいですか?」
「止めてくれ。店が潰れる。」
一応、悪いことをしている自覚はあるらしい。しかし、店に出資するゲイが居たら簡単に売られそうだ。なにせ、店長には彼に私を売った前科があるのだから。
「そうそう。例の大河ドラマの監督はゲイだそうですよ。いきなり、演技指導と称して、お尻を撫で回されたそうです。」
ゲイついでに話題の転換を図る。他のウエイターがどうなろうと構わないが店が潰れてほしいわけじゃない。
「カー・・・、あの業界多いからな。気の毒に・・・。」
この店長、実は俳優を志していた時期があった。才能はなかったようだが多くの友人たちに恵まれたようである。彼の母親がそういった友人の出資者で、この店を出すことが出来たようである。
「気の毒なんでしょうですか。裕也のことだから、お代わりを要求したんじゃないのかな。」
こっちも触ってほしいとおねだりする裕也の幻影が見える。
「お前、裕也のこと。どんなふうに思っているんだよ。」
「えーっと。欲望を満たせれるのならば、どんな小さなチャンスも見逃さない人間。」
私は率直な感想を返す。
「は・は・は・・・否定できねぇ・・・。それにしても、お前裕也に厳しすぎじゃないか? 元々割り切った付き合いで多額の手切れ金も貰ったんだろ。少しくらい応援してやれよ。」
その通りである。経済的な理由から医者への道を進めなかった私は、彼から貰った生活費を切り詰め医大受験に備えて蓄えていた。さらに手切れ金まで貰ったことで10年は掛かると踏んでいた準備期間がわずか1年半で済んだ。
その私にもそこそこ情というものが出来ていた矢先のことだったのである。まあ、拾った犬猫に対する程度のものだったが。
「イヤです。嘘で塗り固められた俳優なんて職業が嫌いなんです。あんな男は抹殺されればいいんです。」
こんなふうに日常が戻り、何れ彼が我慢できなくなったら、私の元へ戻ってくるはずだったのだが・・・。まさか、今言ったことが現実になるとは、思ってもいなかったのだ。