第12話 彼女は誓約書という拘束衣を着る
今回ばかりは、いくら伸吾さんでも無罪を勝ち取れないだろう。
いや伸吾さんだからこそ、無罪を勝ち取れないと言ってもいいかもしれない。殺人未遂の相手が私以外の人間ならば、相手の弱みを探り相手に非をさらけださせ破滅に導くことで不起訴くらいは勝ち取れるだろうが、私の後ろにはあの男が居るのだ。
あの男の体面を守るために、伸吾さんは彼を切り捨てるに違いない。
だが今、『一条ゆり』が破滅して貰っては私も困るのだ。流石に殺されかけて、裕也に対する情は全く消し飛んでしまったが、『一条ゆり』のコネとお金はまだまだ必要だからだ。
ここは、この状況を利用して『一条ゆり』を思い通りに動かせれば、なお良い。
「私も困ります。遠藤先生どうしましょうか?」
何通りか案はあるが、ここは遠藤先生の顔を立てたほうが良いだろう。
わざわざ彼が病院に迷惑が掛かり、彼の医者としての体面が傷付く提案をしてきたのだ。なにか案があるのだろう。
私が驚いたのはその点だ。
「そうですね。誓約書を書いて貰っては、どうでしょう。それに私たち3人の署名を書き込み、病院で本紙を保管して、コピーをそれぞれが持てばいい。」
まあ順当な案だ。遠藤先生が完全に当事者として振舞ってくれているところが評価できる。万が一、私の分が無くなっても遠藤先生の分があるというのは心強い。
「先生がそう仰るのでしたら、そのようにして頂けると助かります。」
私が誓約書を書かされたときのように便箋が用意され、書く文章が先生より口頭で伝えられていく。過去にこういうケースも度々あったのかもしれない。
彼の母親は何も考えずに書いているが、内容は彼が殺人未遂を犯したことを彼女に認めさせ、かつ、私たちに黙っていてほしいと依頼するものになっている。これを見せれば、女優『一条ゆり』は確実に破滅する。
それに彼女が署名と拇印を押して、私と遠藤先生の署名が入った。そして3部コピーされて、それぞれ封筒に入れて手渡された。本紙は封筒に入れたあと厳重に封をして遠藤先生が鍵を開けた金庫に保管された。この中には私が書いた誓約書も保管されているらしい。
「私は第3者として見守る必要があったので何も要求をしませんが、貴女はある程度の慰謝料を求めることもできたはずですが、よかったのですか?」
遠藤先生が聞いてくるが・・・。
「ええ、彼の母親である女優『一条ゆり』が私にとって一番いい選択をしてくれていると思いますし、これからもしてくれると信じています。ただ、今回のような問題が発生しないように事前に教えて頂けると助かります。」
「ええ。もちろんよ。どんな細かいことでも事前に相談するし、事務所の社長にもそう言っておくわ。本当にそれだけでいいのね。」
本当は多額の慰謝料を要求して全てを無かったことにすることも考えたが、既に私のプロデュースの話は動き出している。いまさら、取りやめたら何かと問題視されるだろう。さらに彼女のコネを利用できなくなってしまうのが痛い。
プロデュース内容が古臭いと思っているので口を出してもいいだろう。彼女のプライドを保ちつつ、適度に要求していけばいいのだ。そんなに難しいことでは無いに違いない。
「はい。これからもよろしくお願いします。」
そう頭を下げる。こういったことで彼女のプライドが保つならば何度でも頭を下げられる。
「うん。任せておいて、でも分からないことがあれば何でも聞いてね。」
あまりにも無条件に許してしまったことを不安に思ったらしい。そう付け加える。今の距離感はそんな感じなのだろう。おいおい、近づけていけばいい。
「裕也君のことは私に任せて頂けますか? 志保さんからも既に状況をお聞きしているので、悪いようにはならないと思いますよ。おそらく完全に欲望を押さえつけられるようになると思います。」
相変わらず、遠藤先生は断定しなかったが女性ホルモンを処方し続けるようだ。
「はい。よろしくお願い申し上げます。」
これで裕也は遠藤先生の実験台となることになったようだ。まあ、『一条ゆり』が後悔することになるとしても、何年も先のことになるだろう。
*
これで『一条ゆり』は安心したようでそのまま帰っていった。
裕也は精神科病棟に入れられることになった。当分拘束衣生活だろう。全ての経緯を聞いて、後悔したらしく大人しくなっているのだが、いまさら遅い。
「遠藤先生、今日は本当にありがとうございました。」
「いえいえ。以前侵したミスを少しでも挽回できたら、と思って差し出がましい真似をしました。」
「そんなお休みだった遠藤先生に感じて頂くようなことでは・・・。」
母が自殺をしたとき、遠藤先生はお休みだったのだ。
「いえ。院長の指示とはいえ、誓約書を書かせるような真似をしたことを後悔していたのですよ。」
誓約書自体は病院がスキャンダルを恐れ書かせるのが普通だろう。そこまで気に病んでもらうものでもない。
「そんな。今回のことは本当に助かりました。こちらから、お礼しなけばならないくらいですよ。」
「そうですか? それでは、今度食事にでも付き合ってください。実は・・・テレビ画面の中の貴女に一目惚れしたのですよ。是非、お願いします。」
遠藤先生にそんなことを言われたのは初めてである。そんなにもテレビの中の私はいつもの自分と違っていたのだろうか?
天にも昇る気持ちって、こういうことだったのか。でも、遠藤先生には私と裕也がそういう関係であったことも伝えてある。具体的にどうのこうのは考えないほうがよさそうね。
社交辞令は言いすぎでも、それに近いものとして受け止めていたほうが良さそうだ。彼は独身だが優秀な医者で、私は医者の卵でしかないのだから・・・。
「是非、今度誘ってください。」
結局、遠藤先生が翌日休暇で夜勤が無い日の夜の時間を指定されて食事に出かけることになった。