001
激しい雨は夕暮れの街を昏く閉ざしていた。
太い雨の筋は止むことなく地面に叩き付けられ、二人の男女を濡れ鼠にする。
丸く縮こまった街灯の下で、その影はまるで踊るようだった。
忙しない息遣いと制止する声。揉み合う気配は只事ではない。凝らし見れば、春用のショートトレンチを着た若い女が、黒尽くめの細身の男にナイフを振り上げているのが浮かび上がった。
濡れた服に動きを制限される男の劣勢だ。正気を失った女の思い切りの良い動きは、体格の良い男でも防ぐのは難しい。殺人と言う禁忌のリミッターが外れた人間は制し難い力を持っている。
女のひと突きが男の左腰に入る。刺さったかに見えたが、所詮が女の力か厚いデニムの生地に通らなかったようだ。それでも男の肝を冷やしたのか体を捩じり女から離れようとした。
その瞬間は静止画面のように男には感じられた。
黒いニット地越しに小さな刃が腹に吸い込まれてゆく。刺さったことに悲鳴を上げたのは女の方だった。
「〇〇!あ、ああああどうしよう」
舞台女優のように大きな身振りで倒れてゆく男に縋りつく女。
男は刺さったナイフをそのままに女からそれを奪う。
雨に流されてゆく命の赤にその傷が致命傷だと悟ったのだ。
倒れたままナイフを握りしめる男に、女は首を傾げるように問いかける。
「〇〇・・・?それ返して。ナイフ返して?」
縋りつく男よりもナイフの方が気に掛かるのか、しきりに男の指を広げようと爪を立てる女。男はそれを許さない。
痛みに眩む目は女を痛ましげに見ている。ナイフを握る手は白く、その指は女に傷つけられ血を流している。
「どうして?〇〇・・・一緒に一緒に逝くのよ。私たち一緒に」
雨に目を洗われ視界が歪む中、女は男を詰る。華奢な白い手が倒れた男を叩くが、男は首を振った。
「俺はっお前と一緒には逝かない。一人で逝、く。
お前は俺のことなっんか・・・忘れるんだ。家に・・・か、えれ」
乱れる息の下、男はナイフを抱き込みそれだけを女に告げ瞼を下ろした。
呆然と聞いていた女は男の息が途絶えるのを悟ると、悲鳴を上げ男を詰る。その狂気に人気のなかった二人の周囲に気配がどっと押し寄せてくる。
男に置いて行かれた女は泣き喚き続けた。
置いて行くなと慟哭していた。
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目が覚めるとそこは真っ暗闇だった。
下にしていた頬はすっかりと冷え、硬く凹凸の酷い床に横たわっていたことを知覚する。
そのまま頭を上げずに周囲を探る。来し方故の用心深さで探るが近々に人の気配はなく漸くに頭を上げた。
ずいぶん高い位置に光源はあるが、さらに闇を深くするような頼りないもので、見える限り皿に乗せられた黒い煙を出す炎は恐ろしく匂う前時代に近い代物だった。
照らし出された壁は広い間隔にガラス窓の無い鎧戸を付けた狭間窓。大きさは均一に揃えられているが表面は粗く削りだされたままのものだ。これだけの範囲では判断しかねるが日本のものではない中世の、それも王城などの城ではなく砦などの要塞。どこかのテーマパークがヨーロッパの古城を移築したというニュースに覚えはあるが、皿で獣脂を燃やす照明なんていう代物まで再現するだろうか。最悪誘拐されたのだとしてもそうであってほしいと願ってしまった。
取り敢えず回らない頭を振り振り手探りで自分の置かれた状況を把握しようとしたが、手をやった腹のその異常さにその手が止まる。
刺された筈の腹は包帯どころか傷などなく、つるりとしたものだ。
それ以上に理解できかねない事態が只今の自分に起こっている。
腹はつるりとしている。服など邪魔をするものなくつるりと撫でた。
裸だった。
百歩譲って、治療のためと言われても自分は寝台の上にはいないようだし、何よりも撫でた腹も撫でた手も、自分の記憶にないほどに小さかった。
そこで衝撃を受けて固まろうものならば可愛いと言えるだろうが、生憎そんな食えもしないものを持ち合わせた覚えがない。
生来生き抜くことばかり考えてきたから本能が悩むのは余裕が出来てからだと命じている。
気を取り直し行動に差し障りがないことを確認し、遠くから聞こえてくる気配と、感じられる風の気配を秤に掛けて、気配のない方を選ぶ。
自分でも結論が付かない事態を整理する時間を稼ぐべきだと判断した。
どう考えても微かに聞こえる人声のイントネーションに聞き覚えがない。理解は不思議と出来るが日本語でも英語でもない。そんな人々の前に真っ裸の乳児寄りの幼児がコンバンワして何が引き起こされるか想像もつかない。
取り敢えずは情報収集と身に纏えるものの捜索だろう。
頭が重いアンバランスな肢体を何とか操り動き出す。
どれだけ歩いても近付きはしないが遠ざかりもしない喧騒に、息を吐いた。
「何だお前。子供?赤ん坊?なんでこんな所に居る」
気配がしなかった。
正式にではないが武道を伝授され鍛錬に次ぐ鍛錬により気配の察知にはそこそこの自信があった。幼児化したとはいえ、あの独特の感覚に遅滞は無かった。
「俺の言葉は通じんか?『森を出た者達』にしては色付きが変わっているが、その反応だと理解はしているのだろう?」
予告なくいきなり抱き上げられ混乱するが、抱き上げた人物をその胸の中からさらに見上げ瞠目した。
必要な部分にだけ皮鎧を付け、その他は全身服のように赤銅色の刺青を纏う偉丈夫。顔にも所狭しと刺青が入れられ、遠くから見ればその肌色だと勘違いするだろう。
箒を逆さにしたような蓬髪は革紐に白いビーズを通したもので押さえられているだけだ。これと言って身分を明かすものは身に着けていない。
身に着けていたとしても自分の記憶にあるものではなく、現在地などの情報収取には役立たない。
刺青にしてもポリネシアン系のものに似ているとしか言えず、無駄にため込んだ知識に舌打ちしたい気分だった。
どちらにしろ、自分を抱き上げている人物が逃げてきた方へと足を向けた時点で積んでいた。
こうなったら運に身を任せるしかない。覚悟を決め緊張していた体の力を抜くと刺青の男はおやとばかりに眉を上げる。その仕草が嫌味に見えないところにいらっときたが、この手を振り払って逃げ切れるわけがなく、もうこの男は自分の足代わりだと思うしかなかった。それだけだ。
男はなぜかご機嫌な様子で大股で歩いて行く。俺の二度目の生はこの時から始まった。
そして、これが『森の民』そしてその王・クデカ・ラギとの出会いだった。




