叙景六尺
暗闇の中で囁かれる人の声に、男は目を覚ました。
聞きなれない声、というよりはその言葉自体が耳慣れない音の響きを持っていた。未だ微睡みの中から覚めきらぬ、頭のなかで響いている自身の言葉とは何処か違う音の響き。
「……目が覚めたようだ」
「なに、本当か」
薄く目を開くと、目は初めから闇に慣れていたかのように、鮮明にその闇の奥を照らした。闇の最も奥では太い梁が交差し、近い所には別の梁に吊るされた獣の肉が見えた。そしてそれを遮るように、二人の男の顔。
「おまえ、私の言っている事がわかるか」
そう言った男は額が大きく前に出っ張り、窪んだ眼窩の深い所に小さな点のようにある瞳からは、一種の高い知性のような物を伺い知る事が出来た。窶れた顔とは裏腹に、眼光は鋭く見え、泥鰌のような細く長い口ひげは薄くとも黒々としていた。
「――……、――……」
「何だ、何を言っている」
泥鰌髭の男を押しのけて次に現れた男は山の深い茂みから這い出てきた虎のような顔をした男だった。全身は見て取れないが、胸板は厚く二の腕は泥鰌髭の二倍は太いように見えた。虎男は、肩を怒らせながら男に顔を近づける。鼻息が荒く、顔の半分を覆う髭は太く一本一本が針金のように固く、男の顔に刺さる。太い眉の下でぐるぐると唸りを上げるように大きく見開かれた虎男の目に、男の姿が鏡のように映る。
「――……、……」
男の顔は青く、薄く開かれた瞳からは生気が失われているように見えた。瞳の中にある自分自身の顔をまじまじと眺めるも、向こう側の自身の瞳は決して男の顔を見てはいなかった。
「なんだ、こいつ。何もしゃべりやがらんぞ」
「瘴気に中てられたのだから、そういう事もあるだろう。そもそも半月も眠っていたのだから、そういう理由で無くとも一時的に声を失っても不思議ではあるまい」
半月、眠っていた。男は二人が話している内容が、自分の事に他ならないという事を知って、驚いた。そこでようやく男は、自分がどうして半月も眠っていたのか、目が覚めて初めに出会ったこの男達が何者であるのか、考え始めた。
「瘴気ってのは、病気とは違うのか」
「瘴気は山の深い所にある濁気の結晶のような物で、葬られず死んだ生き物が放つ腐敗臭の中にもわずかに含まれている。色は無く匂いも無く、状は気体で見る事は出来ないが、吸い過ぎると体の陰陽の調和を崩して命を落とす」
「方士の話はどうも胡散臭くてかなわん」
「まあいい」聞いておいて、然程興味も示さず鼻で笑ってみせた虎男に対し、泥鰌髭の男はあからさまに不満気な顔を作った後、男の目を覗きこんで言った。「声はじきに戻るだろう。色々と気になるだろうが考えぬ事だ。考えても考えはまとまらず、妄想ばかりが浮かび、見えぬ物まで見えるだろうが、おまえの吸った瘴気とはそういう物だ。水を持ってきてやろう。ほら、襄禎」
「なぜ俺が。奉嬰、おまえが言い出したのだろう」
「まったく薄情なやつだな」
言うや泥鰌髭の男は立ち上がり、視界から消えた。木戸を横に開いた音とともに淡い色をした光が闇を照らした。深い闇のようであった所に光が注がれると、舞い散っている小さな塵の一つひとつに反射して、眼の奥にちかちかとした弱い痛みが走る。
ここは何処だろうか。少なくとも、男にとって憶えのある場所では無かった。
天井の梁は太いが低い所にあり、よく手入れされているようだが煮炊きの煙を受けてそれ自体が燻されたように黒くなっていた。
人の声が失せても、周囲は案外騒々しい。
鶏の鳴き声や、豚や牛の鳴き声も聞こえてくる。耳を澄ませば山の木々が風に揺さぶられている様や、その木陰に隠れる小さな獣の吐息までもが、かさかさとした些細な音の波の形こそ採っている物の、感じ取る事が出来た。
しばらくそれに耳を傾けていた。もっとよく、聞こうと思って男が目を閉じ、感覚を耳だけに研ぎ澄ませようとした時、虎男が口を開いた。
「……俺は襄禎という。姓は葛でこの辺りでは六郎と呼ぶ者もいる。奉嬰がそう呼ばないのは、あれはよそ者だからだ。姓は柯、この辺りには無い姓だ。何処から来たかは知らんし、胡散臭い奴だが方士とはそういう物だ。ここは俺の家でおまえを半月置いてやった。これからも良くなるまでは置いてやるし、奉嬰も良くなるまではおまえの世話をするだろう」
襄禎と名乗った虎男は、殊更に声を低く唸るように言った。言葉はゆっくりと、沈み込んでいくかのような低い調子で念仏のようにも聞こえる。
「――……」
「おまえの言っている事はおれにはわからんよ。礼を言っているのかもしれんが、それはいらん。おれがおまえを家に置いてやっているのはだな、ただ金欲しさだ。奉嬰は違うだろうが、とにかくおれはそうだ。倒れていたおまえが着ていた服はいい服で、市では高値が付いたぞ。それで思うのだが、おまえはもしかすると、どこぞの富豪かもしれん。おまえがおれに、誠意を見せるつもりがないというのであれば今のうちに言っておけ、今なら苦しまずに殺してやることもできるだろう」
そう言って、襄禎は男の視界へとぬっと躍り出た。その顔は茂みの奥で獲物を狙う虎のようでもあり、人の顔にしては冷酷に過ぎる色合いをした眼差しで男を見つめていた。
虎の顔に蛇の目。薄く研ぎ澄まされたような瞳孔が男の瞳を舐めるように見下している。
「後になって、殊更におれに面倒を掛けた後で、やはり金は払えぬというのであれば、おれもおまえの世話をして鬱憤も溜まっていることだし、なぶり殺しにする他はない。家の裏には亥の子がいてな、普段は糞尿を食っているが、あれは獣の肉も食うから、傷めつけた後にはそこに放り込んで――」
襄禎の顔が、男の眼前にまで迫る。その口からは僅かに腐臭がしたが、気になる程では無い。また何か別の匂いがしてきていたからだ。やがてそれは明確な気配として、男に戦列な印象を与えるに至る物だった。
叫び声が上がる。
「馬鹿兄! 何言ってやがる!」
低く鈍く、唸る鐘のような襄禎の声とは明らかに違う。奉嬰の声とも違う。美しい白磁を石畳に叩きつけた時のような、耳をつんざく高い音。そして木の床を踏み抜くような音と震動が数歩、横たわる男の体に響く。
顔の上を一筋の白い、脚が通り抜けていく。脚はおどろおどろしい顔をしている襄禎の頬を鋭く打ち据えた。襄禎の顔が一瞬で視界から消える。白い脚も同様にその後を追うように姿を消す。空を切りながら虎面を打ち据えた脚は塵を払い、遅れて外の爽やかな風が吹いた。芳しい土の匂いと、青々と茂る草の匂いを、吸い込むと肺が洗われるような清々しさを、男は感じた。
「馬鹿兄! 客に何て事を言ってやがるんだ、正気か馬鹿野郎!」
あまりの衝撃に襄禎は吹き飛んだようで、大きな岩が坂を転がるような音と震動が男の寝床にも伝わってきて、それが途切れたかと思うと、何かに激しくぶつかったような音がした。次いで崖が崩落したような音が響いた辺り、どれ程の吹き飛び方をしたのか想像に難くない。
「麟虹、おまえ兄貴に向かって」
「誰が兄貴だ。奉嬰さんに客が目を覚ましたって聞いたから、不安になって来てみれば思った通りだ。客にあんな口聞くやつが身内だなんて、本当に恥ずかしい」
男がわずかに動く首を襄禎の方へと向けると、襄禎は既に立ち上がっていて、その後ろに置かれていたであろう鍬や鋤、鉈や斧が割れた瓶の破片の中に散らかっていた。だのに襄禎はわずか一滴の血も流さずに、男を挟んで襄禎が麟虹と呼んだ、甲高い声を出す者の方へ睨みを利かせていた。
「安心しな、この鬼畜からはわたしが守ってやるからね」
高い所にあった声の主が身をかがめて、男の耳元で囁く。視界の端に見えるその顔は女のようにも見えた。顔立ちは中性的だが幼くは無く、目は切れ長で雑劇の俳優のような端正な顔立ちをしている。
兄に似ても似つかない顔立ち。腹違いか、胤違いか。或いはどちらも異なるのかもしれない。同じ屋根の下で暮らしている為か、言葉の節々に孕んだ怒気のような息遣いと気性のみが共通しているが、他は何もかもが異なっているように見える。
首を向ける。四肢を露わにした粗末な服。肌は白い。野良仕事をするような服なのに、肌ばかりは透き通るように白い。開け放たれた戸から漏れる光で家の中は薄明かりに包まれていたが、その光のいくらかは、その肌から放たれているように感じた。そうかと思って指先を見ると、爪の中にまで土が入り込んで、ひどくささくれだって、血が滲んでいた。
「おれはおまえの事を思って――」
「わたしの事を思えば客を脅せるってかい」
「おまえは、何もわかっちゃいない」
「この人を見つけたのはわたしだ。兄貴じゃない。兄貴が礼を言われる謂れが何処にある」麟虹は男の顔の上でそうまくし立てる。顔立ちは整っていても、こう姦しいと嫁の貰い手も無いのかもしれない。男はまじまじとその体を見る。既に熟れて久しい。少年のような顔立ちとは裏腹に、わずかに腐りかけているかのような女の匂いがした。四肢についた髀肉から男は目を逸らす。「いいかい、礼なんて考えなくていいんだ。あなたは自分の体を癒やす事だけを考えればいい。兄貴が何と言ったって、口でわたしに敵うはずはないんだ」
麟虹の言う通り、襄禎はそれきり言葉を発しなくなった。見遣ると壁に向かって座り込んで、背を丸くしているのだった。
「あなた、名前は?」
「――……、……、……」
言葉にならない。言葉にならない事を伝えようとしても、それが言葉にならない。喉を通り抜けて口から出て行くのは吐息ばかりで、隙間風のような掠れた音ばかりが響く。
「そいつは口が聞けないんだ」
「兄貴、まさかもう何かやったんじゃないだろうね」
「馬鹿野郎! おれはまだ何もしちゃいない。奉嬰に聞いてみろ、目を覚ました時からこうだ。しばらくはこうだというし、名は聞けねえよ」
「しばらくって、どれくらい」
「方士に聞け」
ふてくされてぞんざいな態度を取る兄の背中を見る麟虹の顔には険しい物があった。しかしすぐに顔を変えて、男の顔を見下ろした。憐れみを隠そうともしない優しげな表情は、男にとって久しぶりに見る美しい物だった。それに水を指すように、襄禎がいがらっぽい声で、男を呼びつける。
「おい無名」
「無名とはなんだい」
「名乗れねえなら、無いのと同じだ。名乗れるようになるまで、無名と呼ぶ」
「失礼じゃないか」
「失礼な物か」妹の反論を一笑に付すような素振りを作って、遮る。「おい無名、いいか。半月おまえの世話をしたのはおれではない。妹の麟虹だ。山で行き倒れたおまえを見つけて、ここまで運んできたのも妹だ。だがおまえの今着ている服が身に大きすぎるのは俺の服だからだし、布団も俺の物だし、おまえの下から出た下手物の始末はおれがすべてやった。おい聞いているのか。いいか、おまえがおれに感謝すべきでないというのは間違いだからな」
「馬鹿兄!」
顔を赤くして怒る麟虹は手近にあったらしい手ぬぐいを兄の背中に乱暴に投げつける。しかし襄禎はやり返さないで、それきりやはり口を開かなくなった。
「また兄妹で喧嘩かい」
麟虹の姦しい声でかき消されていたらしく、奉嬰がそう言うまで、無名と名付けられた男は、奉嬰が戻ってきた事に気が付かなかった。麟虹が開け放ったきり、そのままになっていた戸の前で奉嬰はその飄々とした顔に苦笑を浮かべているらしかったが、無名からは逆光になって、振り向いてみたが窺い知れない。手に水を持っている。風が通って、水の匂いが無名の鼻先を湿らせた。
「外まで聞こえている。あまり良くないと思うがね」
「そうは言いますけど、兄貴ったらひどいんですよ」
「ああ、大体の所何を言ったかやったか、私も襄禎とは付き合いが長いからね、想像はつくよ。だがまあ、あまりひどく叱ってはいけないよ。大声で病人を無闇に驚かすのも良くない」
奉嬰の動きは軽い。段差を上がるちょっとした動きだったが、体をふわりと浮き上がらせるような妙な動きで、跳び上がった時のような体の振れが全く無い。無いが故に水はこぼれない。
物の重さという物が欠けているか、そうでなければ相当な手練か、どちらかだろう。
男はそうまで考えて、どうして自分がそんな風に人を見ているのか、不思議に思った。その人が手練かどうかなんて、少し物騒な着眼点だ、と。
「でも……」
「言った所で襄禎が反省すると思うのかい」
「ふん、わかったらいいのだ」
「おい襄禎」
「ふん」
奉嬰は水の入った椀を手に持ち、それを無名の枕元に置いた。水は、縁のぎりぎりまで椀を満たしている。
水の匂いがより濃厚になって、無名は喉の渇きを憶えた。所が奉嬰は、椀を無名の口元に近づける事も無く、懐から大きな蓮のような葉の乾いた物で作ったらしい包を取り出した。指でその包を開け放ちながら、ちらと無名の顔を見て「ただの薬だ」と言って笑った。不敵な笑みだった。
「苦いがそれも一瞬だけだ」
葉包の中は細かい砂のような散薬で、汲んだ水を入れた椀にそれを注ぎ、人差し指を突き入れて軽く混ぜる。
「麟虹、薬を飲ませるから彼を――」
「無名」襄禎がここぞとばかりに口を挟む。
「なんだ無名って」
「おれがわざわざそいつの名を考えてやったんだ。名乗れるようになるまでは、無名だ」
「なるほど」奉嬰は無名の顔を見下ろして「悪気は無いんだ」と言った。その苦笑は逆向きに座る麟虹の兄の背中を睨め据える顔つきとは裏腹に、人懐こく見えた。「麟虹、無名を助け起こしてくれ」
「はい」
忌々しげに兄を睨む麟虹の細い腕が肩に置かれ、やや乱暴に無名は助け起こされる。体を起こされると、より呼吸がしやすくなった。密着する女の体からは、女の匂いがしたが、より近づくと、それに混ざる草の匂いが鼻についた。外気と思しき草の香りは、その実麟虹の体から濃厚に放たれている物だった。
「薬と言っても、そうは苦くはないから。ひと思いに飲んでしまえ」
無名は軽く頷いた。その頷きを見て取った奉嬰は満足気に笑った後、元のぎらぎらとした目つきに戻った。その目はちらと麟虹を見遣ったようにも見え、その視線を受けたらしい麟虹もまた、何処か得心したかのように小さく頷いたように見えた。
「口に含むなよ、舌の上を通さず、そのまま胃に流し込んでしまえ」
無名の唇に椀が付けられると、水の冷ややかな匂いがするばかり。無名がわずかに口を開くと、飲ませる側の奉嬰が大きく息を吐く。そして椀を一挙に傾けて、中の散薬を無名の口に流し込む。
口に入れた瞬間、無名の体が痙攣を起こしたように、散薬を含む事を拒絶した。
それはまるで渋柿の汁を膠ほどになるまでに煮詰めたかのような、とてつもない味がして、口の中によくまとわり付いて離れない。喉の奥に張り付いたような散薬を吐き出そうと、喉が蠕動するが、奉嬰はそうなる事があらかじめわかっていたからか、手際よく無名の口を抑え、顎を持ち上げて無理やりにでも飲み下させようとする。
無名は、自分の何処にこれほどの力が残っていたのかと、内心で無名自身すらも驚くほどの力で、それに抗おうとする。痩せぎすの奉嬰程度、病人とはいえ振り払う事も出来そうだったが、その抗いは全て麟虹によって制される。
巨体の兄を蹴り飛ばす程の女だ。痩せた女の体をしていても、膂力は男勝りというべきか、無名は身動ぎすら出来ない。仮に無名が病んでいないとしても、まるで抵抗出来なかっただろう。或いは襄禎ですら、抑えてしまうかもしれない。その体はそれほど重くはない筈なのに、無名の体は岩の中に閉じ込められたかのように、自由が利かない。
「飲め、飲め、飲め」
念仏のように奉嬰が唱える。鬼気迫る表情で、唱える。
「舌神汝邪以水逐瘴喉神汝穢以玉養清吐邪吐穢駆濁縛魅保命護身安慰精気」
何度も繰り返し唱える。奉嬰の声色は次第に重なり始め、合わせて口中の散薬が熱を帯び始める。熱くなる。沸き立つ湯のようになり、火を帯びる油のようになり、溶けた鉄のようになる。吐き出そうにも奉嬰が口を抑えていて、叶わない。最後には奉嬰が思い切り無名の顔を上に向ける事で、すとんと口中で塊のようになっていた散薬は、腹の中へと落ちていった。
13年ばかり設定だけを温め続けて熱を持ってしょうがないので形にしようと固く決意し僅かばかりながらここに捧ぐ。きっと続く。