井戸の空
申し訳ありませんが、キモイです。
読まれる方はご注意ください。
ぼくははじめから行きたくはなかったんだ。
でもリューちゃんがどうしても行くと聞かなかった。ノブヨシはリューちゃんの言うことなら絶対だ、アカネも厭そうにはしていたが、気の弱い彼女が二人に反抗などできるわけがなかった。
その建物はぼくたちの住む町では有名だった。
町はずれの小さな山の中にある大きな洋館、昔はどこかのお金持ちの別荘だったらしいが、今は朽ち果ててもはや幽霊屋敷だ。
というか、ぼくたちの小学校ではまさに幽霊屋敷として知られていた。
いわく窓に白い影が映っただとか、大きな獣に襲われただとか、ぼくたちとは別の小学校の生徒が行ったきり戻ってこなかっただとか、そういう噂には事欠かなかった。
どれも嘘なのだとは思う、影なんて光の加減だし、獣だってどうせ野良犬だ、別の小学校の生徒だってそんなの本当にいたのかどうか怪しい話だ。
でもどんなに心の中で打ち消してもそれでも怖いことは怖かった。
高い塀に囲まれた敷地の中には入ったことはないが、そこへ行くまでの道はもう手入れされておらず、山は草木が生い茂り、昼でも薄暗い。
夏休みのある日、リューちゃんはそんなところへ探検に行こうと言い出したのだ。
「あそこへ入るのは学校で禁止されてるよ」
ぼくはせめてもの抵抗を試みた。だがそんなものがリューちゃんに通用するわけがなかった。
「そんなの誰も守ってないっての」
「怖いのかよ、ハルマ」
ノブヨシがぼくをバカにするように言った。
怖い、と言えたら良かったんだろうか、いや、言ったとしてもどうせムリヤリにでも連れていかれたに違いなかった。どうせリューちゃんたちはぼくやアカネが怖がるところを見てみたいのだ。
「怖くなんかないよ」
ぼくは精一杯の虚勢を張った。女の子のアカネの前でカッコ悪い姿は見せたくなかった。
「じゃあ行くぞ」
それがうやむやのうちに承諾とみなされ、それ以上の抵抗は許されなかった。
山といっても大した山ではない、幽霊屋敷まではぼくたち子供の足でも30分も歩けば簡単に辿りつけた。
だがその門には侵入者を防止するための鍵が掛かっていた。
「残念、入れないよ」
ぼくはリューちゃんに言った。
「バッカ、聞いた話だとどっかに抜け穴があるんだってよ」
ぼくたちはリューちゃんの先導で壁伝いに裏口の方へ回った、そこには一部壁の崩れたところが穴になっていて、確かに子供のぼくらならば入ることができそうだった。
「ほらな、残念だったな、ハルマ」
ぼくが怖がっているのはリューちゃんにはお見通しのようだった。ぼくは穴に押し込まれるようにして幽霊屋敷の不法侵入者となった。
「わあ、すごい」
感嘆の声を上げたのは意外にもアカネだった。
確かに古びてはいるが、建物の造りは豪華なものだった。どこか外国の豪邸をそのまま持ってきたように、広い庭にその建物はよく調和していた。
でもぼくにはその調和が逆に恐ろしかった。この晴れているにも関わらず暗い森の雰囲気と相まって、日本のぼくの町ではない、かと言って外国でもない、どこか異世界に迷い込んでしまったかのような気分になっていた。
「建物の中には入れないかな」
ノブヨシが辺りを窺うが、それはできそうにはなかった。
広い庭に面した大きなガラス窓を破れば侵入できそうだが、そんな道具はなかったし、いかに廃墟のようなものとはいえ、リューちゃんたちでさえそこまでするのは気が引けたようだ。
邸内への侵入を諦めたノブヨシはそこでまた別のものを見つけた。
「おい、あれを見てみろよ」
ノブヨシが指さした庭の片隅には大きな井戸があった。その直径は1メートル50センチはあるだろうか。
井戸の怪人、ぼくはそこでようやくその噂を思い出した。
「幽霊屋敷の井戸には近寄る子供を中に引きずり込んでしまう怪人がいる」
子供を危険な場所へ近づけさせない教訓のようなものとしてはよくある話だが、こんなあまり有名とはいえない場所の噂としては少々不自然なようにも思えた。しかし現実に見たそれは実際に中に何かが潜んでいそうな一種異様な雰囲気が漂っていた。
「お、あれが怪人のいる井戸か」
ぼくの不安をよそにリューちゃんは特に警戒することもなく井戸に近づき、中を覗き込んだ。
「お、いるいる、あれが怪人か」
リューちゃんはわざとらしくそんなことを言った。
「ハルマ、お前も見てみろよ」
「やだよ」
そこに何もないだろうことはリューちゃんが確認している、でもぼくはそこへは近づきたくなかった。近づくとよくないことが起こるような気がした。
「何だよ、やっぱ怪人が怖いのか?」
後ろから近づいたノブヨシがぼくを羽交い絞めにした。
「いいぞノブヨシ、そのままハルマをここまで連れて来い」
「やめてよ!」
ぼくがいくら叫んでもリューちゃんとノブヨシはやめてくれなかった。
アカネが止めてくれようとしていたが、二人はそんなことお構いなしだった。リューちゃんが腕を引っ張り、ノブヨシが羽交い絞めのまま背中を押してぼくの体はぐいぐいと井戸に引き寄せられた。
「ほら、中を見てみろよ」
そう言いながらリューちゃんはぼくの頭を井戸の中へ向かって抑えつけようとした。
「落ちるって、落ちるよ!」
力では到底リューちゃんに敵いようがないが、それでもぼくは必死に抵抗した。
ノブヨシが強くぼくの背中を押したのと、ぼくがリューちゃんの腕を必死に振りほどいたのが同時だった。
ぼくの体は空中に投げ出され、そこには掴むもの何もなかった。
ぼくは空中でもがきながらそのまま頭から井戸に落ちた。
落ちるときに何か叫んだような気もするし、そんなこともする余裕すらなかったようにも思えた。
気づいたときには井戸の底だった。
当然のことながらそこには怪人なんかはいなかった、中は単なる古井戸だった。
落ちてそのまま起き上ったのか、それともしばらく意識を失っていたのか、そんなこともわからなかった。
ただ頭から落ちたにも関わらず体に痛いところはどこにもなかった。
井戸には深さ10センチほどに水が溜まっていて、その下は靴底に伝わる感触からしてどうやら土のようだった。ぼくの体はびしょびしょに濡れてしまったが、そのお蔭で怪我もしなかったようだ。
見上げると丸い空があった。
ここに来た時はあんなにも暗いと思った空が輝くように青かった。
「おおい! たすけてえ!」
ぼくは大声で助けを呼んだ。
その声は井戸の中で反響して空に抜けていった。
だがその声に応えてくれるものは何もなかった。
「アカネー! リューちゃーん! ノブヨシー!」
ぼくは三人の名前を繰り返し叫んだ。
だがやはり誰も答えてはくれなかった。
耳をすませば井戸の外に人の気配はないようだった。
「助けを呼びに行ってくれているのだろうか」
ぼくはそう判断した。アカネがぼくを見捨てるとは思えないし、リューちゃんもノブヨシも今日のような意地悪もするが、そんなに悪い奴らではないと信じていた。
もしみんながこの場に残っていたとしても、ぼくを助ける方法があるとは思えない、誰か大人の人を探しに行ったと考えるのが自然だと思えた。
井戸の内側は石でできていて、その表面には苔がびっしりとこびりついていた。
井戸の中は入口よりさらに広くなっていて、掴んで登れるようなところはどこにもなく、ぼくの手足をいっぱいに伸ばしても左右両方の壁には届かなかった。
これでは自力で脱出することはできそうになかった。
「誰か残ってくれてもよかったのに」
そうぼやいてみたが、応えてくれる相手は当然誰もいなかった。
それから一時間ほどが経っただろうか。
助けはまだ来ない。ここから町に出て誰か大人の人に助けを求めたならもう到着してもおかしくない時間だった。
井戸に落ちてすぐはそうでもなかった不安がここにきて大きくざわめきだした。
「おおい、おおい、誰か、誰かいませんかー!」
ぼくは叫んだ。
「アカネー! リューちゃーん! ノブヨシー!」
声を限りに叫んだ、怖くて、不安で、寂しくて、他にどうすることもできなくて。
そのうちに涙が溢れてきた。それがまたぼくの心を大きく揺さぶった。
泣きながら叫んで、叫んで、さらに叫んだ。
その声の全部は井戸の底から見える空に飲み込まれて、返ってくるものは何もなかった。
やがて、疲れて、声も涙も出なくなった。
そのまま水の溜まった底に座り込んだ。
水は澱んで、汚れていて、気持ち悪かったが疲れがそれに勝った。
「はやく、助けにきて」
ぼくは小さく呟いた。太陽は傾き、空は橙色になりつつあった。
それから思い出したように叫び、そして泣き、さらに疲れ果てて、夜になっても助けは来なかった。
「パパもママも心配してるのに」
その声は潰れてしまっていつものぼくの声ではなかった。
そして空腹と渇きに気づいた。
ぼくはこのままここで干乾びて死ぬんじゃないか、新しい恐怖がぼくを襲った。
もう叫ぶことはしなかった、思いっきり自分で自分を抱きしめて、そしてまた少し涙が零れた。
泣きながらいつの間にかぼくは眠ってしまっていた。
目が覚めた時には大きなお月様が空に見えた。
喉がカラカラに乾いて、それで眠っていられなくなったんだと気づいた。
それを幸いと言っていいなら、水だけはいっぱいあった。
ただしそれは泥水ともなんとも言えない汚れた水。
それでも渇きにはこれ以上耐えられそうになかった。
足元の水をおそるおそる手ですくい、口に近づけた。
迷いはあった、だが夜の暗さが味方をしてくれた。この水がどんな色をしているのかが分かったら思い切れなかったかも知れない。
まず一口、それは泥臭い、青臭い、カビ臭い、まさに井戸の底そのものの味がした。
ただ体がやはり水分を欲していたのだろう、ごくり、と喉がそれを受け入れた。
それがぼくの体に染み込むと、あとはもう抵抗することはできなかった。
手に掬った水を一息に飲み干し、さらにもう一度掬って飲んだ。
そのあとすぐに胃から何かが少しだけこみ上げてきたが、それは吐き出さずにぐっと飲み下した。
少しだけ何かから救われた気がして、そしてまたぼくは眠りについた。
朝になっても助けは来なかった。
井戸の中から何度も助けを求めたが、やはり周囲に人の気配は感じられなかった。
あまりに叫びすぎて昼になる前にはぼくの声は完全に出なくなった。
何もすることがなくなったぼくにできたのはじっと助けを待つことだけだった。
「一体どうなっているんだろうか」
みんなはもしかしたらぼくが死んだと思っているのかも知れない。
ぼくが井戸に落ちた時、少しの間でも気絶していたならば、それは充分にありえることだった。考えたくはないが、みんなは叱られると思って僕が井戸に落ちたことを隠そうとしているのかも知れない。
でもパパやママはどうだろうか、僕がいなくなったことを不思議に思わないわけがない。今もきっと探してくれているはずだ。学校や警察にも相談して、そうすればみんなも僕の行方を訊かれることになる。大人たちを相手に僕が幽霊屋敷の井戸に落ちたことを隠し通せるわけがない、そうすればきっと助けは来る。
そんなことを考えているうちに、やがてぼくはおしっこがしたくなった。
よく考えれば昨日の昼から一度もおしっこをしていない。
これは大きな問題だった。
ここでおしっこをするならば当然足元にするしかなく、井戸の水と混ざってしまう、そうなれば飲む水がなくなってしまうのだ。もちろん完全にないわけではない、が、それはおしっこの混ざった水だ、そんなものできれば飲みたくはない。
ぎりぎりまで我慢するしかない、とぼくは判断した。
だがいつまでも我慢できるものではなかった。何時間かたっぷり尿意に苦しんだ後、結局はおしっこをせざるを得なかった。
せめておしっこの混ざった水を飲まなければならない可能性を少しでも高めるため、それをする前に飲めるだけ多くの水を飲んだ。それから井戸の端っこでなるべく広い範囲に行き渡らないようにゆっくりと用を済ませた。
しかし再び渇きに耐えきれなくなるまでに助けは来なかった。
その日の夕刻、ぼくは嫌で嫌でたまらなかったが、しかたなくおしっこの混ざった井戸の水を飲んだ。
気休めに過ぎないかもしれないがおしっこをした方と反対側の水を手に掬った。
気分的な抵抗はあったものの、実際飲んでみればそれはどうということはなかった、これまでに飲んだ時と同じように泥臭くて青臭くてカビ臭い、ただのまずい水だった。
井戸の中での二日目はそうして終わった。
三日目も何も変化はなかった。
たまに声を出そうとしたが、喉の調子は戻っていなかった。怪物のような唸りが小さく井戸の中に響いただけだった。それはもう空にも届かず、ゆっくりと井戸の中に戻って来た。
一度飲んでしまえばおしっこが混じった水を飲むのももう苦にはならなかった。
井戸の端で用を足し、反対側の水を掬う。それが習慣になりつつあった。
ぼくにはもう他に命を繋ぐ術は何もないのだから。
もちろんその行動に自分自身嫌悪を感じることもあったが、それには気づかないふりをした。
そして三日待っても、助けは来なかった。
四日目には空腹に耐えきれなくなった。
それまでは服を湿らせ、それを噛むことによって何とか誤魔化してきたが、それではもうどうにもならなくなった。噛みしめていた部分はすでにぼろぼろになってしまっていた。
何か口にできそうなもの、はもう何度も探した。
そのようなものがこんな古井戸にあるわけがなかった。
強いて、そう強いて挙げるならこの壁面にびっしりとこびりついた苔であるとか、水面を泳ぐ名前もわからない虫であるとか、どこからか迷い込んだ蛞蝓になるのだろうか。
そんなものが食べられる訳がない。
だが、食べられる訳がないのは通常の精神状態であるからで、今のぼくにはそんなことを考えられる余裕はだんだんとなくなってきていた。
試しに苔をちぎり、しっかりと泥を落として匂いを嗅いだ。
匂い自体にはもうそれほどの印象はなかった。ここ数日間にさんざんに嗅いだ井戸の匂いである。だがもちろんそれは食べられるものの匂いではなかった。
何度か、いやさらに何度も躊躇を繰り返し、結局は口に含んだ。
泥は念入りに洗い落としたつもりだったが、それでもまだ泥の味がした、それでも噛んだ、何度も噛んだ。
水の何倍もの青臭さ、そしてエグ味が口いっぱいに広がった。
少しでも何かを摂取したいという肉体の欲求と、こんなものは飲み込んではいけないとする理性とが鬩ぎあい、ごく短い葛藤の末に肉体の欲求が勝った。
口の中でぐちゃぐちゃになった苔はそのまま胃に送り込まれた。
それに大した栄養があったとは思えないが、何かを食べたという満足感が心を満たした。
もう一度苔を毟り、夢中でそれを食べた。
さらにもう一回、今度は味わって食べた。
それで井戸に落ちてから初めての食事を終えた。
しばらくして、猛烈な腹痛に襲われた。
理由など考えるまでもない、やはり苔は食べ物などではなかった。
あまりの苦しみに水しぶきをたててのたうち回り、さらにのたうち回っても痛みは解消されなかった。それはますます強くなっていくような気がし、胃からこみ上げてくるものを抑えるのに必死になった。
脂汗を垂らしながらぼくが考えたのは大便をするしかないということだった。
ただそれはあまりにも危険で、残酷な決断だった。それはただでさえ汚れた水をさらに汚染するということを意味する、それでもこの苦しみから逃れるにはそれしか方法はなかった。
ぼくは熟考した末に、服を脱ぎ、それを手で持ってその上に大便をすることにした。気休めに過ぎないかもしれないが、空中で受け止めることができたならば水の汚染は最低限度に抑えられるかもしれない、そう思ってのことだった。
実際に行ったそれは当然のようにひどい下痢だった。ぼくは井戸の水に混ざらないように細心の注意を払った。もちろん飛沫の全てを受け止めるには至らず、その何割かはぽちゃぽちゃと落ちて水面に混ざり、溶けてわからなくなった。
だがそれでようやく腹痛は我慢できる程度までに治まった、まだシクシクと痛むが、さっきまで感じていた嘔吐感はなくなっている。
トイレのかわりにした服は端を括り、首からぶら下げた。
もちろん気持ち悪いことだったが、大便が溶けた水を飲むよりはましに思えた。
五日目にはまた新たな絶望がぼくを襲った。
首から下げていたはずの服は寝ている間に解け、井戸の水面に浮かんでいた。中にあったものは当然井戸の水に溶けだしている。
今後飲むことになる水は、もちろんそういうものになった。
遅かれ早かれそういうことになるのだと覚悟はしていたが、それでもその時が来るのはあまりに早かった。
次に飲んだ水の味は明らかにこれまでと異なっていた。
どう異なっていたかを説明する言葉を考えることすら不快だった。
だがこの場所にいる限り、ぼくに飲めるものはもうこれしかなかった。
それからはもう何も考えられなくなった。
いつか水も尽きるのかと心配していたがそれはどうやら問題ないようだった。どうやらそれはもともと地下の水源から少しずつ染みだしてきているもののようだった。
大小便の汚染具合は日に日に酷くなっているはずだったが、そんなことはもうあまり気にならなくなってきていた。
体が慣れてきたのか、苔を食べても腹痛を覚えるようなことはなくなった。
壁一面の苔を食べつくすと、今度は虫を食べ、蛞蝓を食べた。
水底の土をほじると蚯蚓が出てきたのでそれも食べた。
そのうちに苔はまた生えてきたので、また毟って食べた。
やがて一度に食べつくしてしまうより、少しだけ残しておいた方が苔の再生が早いということに気づいた。
口に入るようなものは何でも入れてみた、それで何とか死ぬことはなかった。
その場に排泄し、そして大小便の混じる泥水を啜った。
何日も何日もそれを繰り返した。
体中に赤いぶつぶつがいっぱいできた。
痒くてたまらなくて掻き毟ったらそこはだんだんと化膿してやがて血膿が滲むようにになった。
手も足もところどころは黄色くなった。そこからもときどき緑や赤の膿が出て、それが出なくなるころにはその部分は黒くなった。黒くなってしまえばそこはもう痒くはならなかった。
眼球の中で何かが蠢く感覚がするようになり、それからだんだんと視力が弱っていった。眼の中で動いていたものは時折鼻や口の中に下りてきて、しばらくするとまた眼の中に戻っていった。
おなかがぽっこりと膨らんで息がしにくくなった。
痒い部分があったのでそこを掻いていたら傷になった。そこから何か蟲のようなものが出てきたので指でつまんで引っ張ったら20センチほどで切れてしまった。切れた残りの部分は再び傷口に潜り込んでもう取れなくなった。
頭痛や悪寒が何日も続いたり、下痢や嘔吐が止まらなくなったことは何度もあった。
それらもしばらく苦しむうちに何とかなった。治ってしまうこともあったし、治らなくてもその状態があたりまえになってしまえば何もないのと同じだった。
それでもぼくは生きていた。
でももう何も考えなくなっていた。
季節の移り変わりを何度も感じたような気もするが、そんな気がしただけかも知れなかった。
特に何があったわけでもない。
たまたま両手を横に伸ばしてみただけだ。
すると両方の手のひらに井戸の壁の感触があった。
その時ぼくの頭に久しく忘れていた思いが蘇った。
頭上を見上げるとあの時と同じように青空が輝いていた。あまり見えなくなった目にもその青さは鮮烈だった。
「今日はあの空まで行ってみよう」
どこかへ行く、そんなことを考えたことも不思議だった。
井戸の内側に両手両足を突っ張り、少しずつで登っていくことができた。
ぼくの体はいつのまにか井戸の中で大人になっていた。
何年かぶりに井戸の外に出ようとしたとき、なんだか騒がしい声が聞こえてきた。
忘れるわけがない、その声はリューちゃんで、ノブヨシで、アカネで。
そして光の中に井戸を覗き込むハルマの姿があった。
あの時と同じようにリューちゃんに頭を押さえつけられていた。
ぼくの目にはその輪郭はおぼろげだったけれど、それでも見間違えることはなかった。
ハルマだけがぼくの存在に気づいていた。
そりゃあそうだろう、ぼくはハルマなんだから。
でもハルマはぼくがハルマだということまでは気づいていないようだった。
それも仕方なかった、だってハルマはまだ子供なんだから。
ぼくの顔にはこれ以上はないほどの恐怖が張り付いていた。
ああ、あのときのぼくもこんな顔をしていたんだろう、そう思った。
ぼくは安心させるようにぼくを思いっきり抱きしめた。
その手にはもう力なんかあんまり残っていなかったけれど、自分自身を抱きしめるぐらいならそれで十分だった。
ぼくたちは、ぼくは、青い空を見上げながら、ゆっくりと、井戸の中に落ちていった。