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後編

 歌が終わっても、その心地いい余韻が頭の先から足先まですべてを満たして、なにも考えられず、身じろぎひとつすることができなかった。



 ぼんやりとした意識が、視界の端の方で岩場に乗り上げている船底に水溜まりができているのを捉えて徐々に引き戻されてくる。


 潮が満ちはじめ、船が揺れている。


 ぞわりと背中に這い寄る感情が膨らんでいくのと同じ速度で、水溜まりがじわりじわりと成長していく………。




「――どうして、泣いてるの?」


 穏やかな含み笑いで聞かれた途端、潮風が撫でる頬が一筋濡れているのを感じた。

(……泣いて……?)

 ごし、と肩に頬をこすりつけてそれを拭う。

 なのに、ぽろぽろと次から次に涙が溢れた。

(な………んで、涙なんか……)

 理由なんかわからなかった。

 とにかくこぼれる涙を肩で拭い続けた。


 男はヴァイオリンを足下に置いて立ち上がった。バランスの悪い船の上をゆっくりと歩いて、私のいる船の縁まで近寄って来る。


 船の縁に腰掛け、両手を伸ばして私を捕まえ、引き寄せ、自分と同じように縁に腰掛けさせる。


 麻痺したように頭も体も動かなかった。


 細い指が頬を伝う涙を拭った。そのまま両手で顔を包み込まれ、額が触れあいそうなほどの距離に顔を寄せられる。


「………っ!」


 なぜだかヴァイオリンの音を聞いている時と同じように心が震えて、息を呑んだ。


「どうして泣いてるの?」


 子供に言い聞かせるような穏やかさで重ねて問われ、必死に理由を探す。


「もう、そのヴァイオリンが聞けなくなるから……?」

 心の中を何度も(さら)ってなんとか拾い上げてきた答えを、男はふふふと小さく声をあげて笑った。


 そして、左手が背中に添えられる。右手の細くて長い指が、頬からうなじへと滑っていき、髪を梳く。翼を慈しむように撫でていく。


 彼が弾くあのヴァイオリンの弦になってしまったように、細く激しく心がふるえる。


「純白の翼……天使みたいだ」


 うっとりとした酔いしれる言葉の響き。

(――あぁ、そう。仲間達が虜にした男って、こんな感じだ)

 そう思うと、胸の中に風が吹いたようだった。


「……バカじゃないの。天使なんて、正反対の――」


 でも、翼の先端まで到達した指先が再度頬に戻ってきたら、やっぱり言葉が出なくなった。


「似たようなものだ。少なくとも、私にとって」


 逸らすことを許さない視線と真摯な言葉に心がふるえ続けていて、体が麻痺している。


 このまま私がほんの少し後ろに体重をかければ、ふたりして海の中に沈んでいくことができる――そう思うのに、体が動かない。


 がこ、がこんと音がするのが聞こえたが、熱い視線に囚われて確認することができない。



 ぎしぎし、ぎしし……



 偏った重みに船が傾いて軋んでいるのだと理解する。



(このままでは、転覆する――)




「――あ。……あぁ……」


 血の気が引いた。

 涙がとめどなく落ちていった。


 あれほど、人間を酔わすことができない自分が惨めで嫌いだったのに。


 なんでこんな――……


「……もしかして、私は君のはじめての獲物か?」

 そう聞いてくる男が嬉しそうに見えるのは、気のせいだろうか。

「涙で誘惑されるとさすがに困る」

 聞き分けのない子供に向けるような呆れ交じりの笑顔で涙を拭う。そのまま、細い指が迷うように額から頬に滑り、唇をそっとなぞる。

 むずかゆいようなもどかしいような感覚が、背中をぞくぞくと這いあがっていく。

「正直に言うと、あんなキンキンした笑い声のセイレーン達に惑わされるのと飢餓に苦しむのとではどちらがマシかと思っていた。だけど、君の虜になるなら悔いはない」


 覆い被さるようにふってきた言葉と唇が、結局は額に触れて、全身の血が沸騰するかと思った。


「けれど私の命と引き替えに願うことが許されるのなら、君の虜になる男は私だけでありたい」

 ……なんて思うのは、やはり相当酔っているなと男は自嘲気味に呟き、一瞬だけ照れくさそうに笑った。それから切れ長の目元を涼しげに細めた。

「歌ってくれ。私の安息を願い、レクイエムを」

「……無理。歌えない。あのヴァイオリンがなくては……」

「大丈夫。君の記憶の中に、ちゃんとある」

 まっすぐな目を逸らすことなく、髪を梳いた指先が背中にまわされる。両腕でしっかりと抱きすくめられる。


「君が歌ってくれれば、私は死の恐怖を感じずに安息を得られる」


 首筋に顔を埋め、息苦しそうに、呻くように、囁く。


「だから……歌ってくれないか」


 静かに乞われ、沸騰していた血がゆっくりと冷えていった。


「……うん」


 しかしかわりに疼きに似たかすかな痛みが結晶のように残る。その痛みを大事に胸の中に仕舞い込み、心を決める。


 自然と涙が止まって、口元が緩む。





 彼を両翼で包み込み、目を閉じ、肺一杯に冷たい夜風を吸い込む。


「――主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光でお照らしください……」





 最後の音の余韻までが完全に消え去ってから、ゆっくりと目を開ける。男もゆっくりと顔を上げ、満足げな笑みを浮かべた。


 そして再度細い指が頬に触れ、顎に滑った。


 少しだけ上を向かされ、いいかと問いかける真摯な眼差しに、私はただ目を伏せた。



 ――ふふ、ここまで来てくれたら愛してあげる。

 仲間達は海の中から艶めかしく手を伸ばし、妖艶な唇でそう誘い文句をかけ、海中に引き入れる。気に入った男ならば実際に口づけを交わし、ほんの少し戯れる時間を与えてやることもあるけれど……。



 背中にまわされている両腕に身じろぎできないほど強く力が込められ、ひんやりと冷たい唇が今度こそ唇に重ねられた。


 思わず、息が止まる。



 同時に、とぷんと静かな音を立てて海に転がり落ちる。



 やろうと思えば、簡単なことだった。

 重ねられた唇から、ほんの少し息を吹き入れてやるだけ。

 それだけで、人は少しの時間だけれど海中で呼吸をしなくても生きていけるようになる。


 ――けれど。



 彼の口からごぽごぽごぽと激しい音を立てて気泡が水面へ上っていく。


 銀色の体をナイフのように煌めかせる小魚達の群が、餌と勘違いしてその気泡をつつく。


 数匹の鮫達が遠巻きに様子を見ている。


 栗色の髪が海草のようにゆらめく。


 苦しげに、眉を、口元を歪める表情……。



 私はただそれを眺めていた。


 海水を飲み込み、線の細い見た目からは想像のつかない強い力できつく抱きしめられる。


 縋るように、助けを求めるように、強く。



 私は、ただ両翼で彼を包み込んだ。




 やがて、ゆっくり……ゆっくりと、腕の力が抜けていくのを感じた。


 刻一刻と失われていく体温を感じながら、私はただくるりくるりと舞うように一緒に海底にむかってゆっくりと落ちていく。




 涙が溢れると同時に海水に溶けていくのを感じながら、私は心の中で歌っていた。



 ――永遠の安息を彼に、と。



 ただひたすらに、歌い続けていた。






 最後までお付き合いいただきありがとうございました!

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