中編
そこにいるのは、男がひとりきりだった。
切れ長の目を伏せた男は、深い飴色でいびつな瓢箪のような形の板に4本の弦の張られた楽器を左肩と顎と左手で支え、右手にやはり弦の張られた棒を持ち、それらをこすり合わせることであの音色を奏でていた。
楽器を持つ指は細く長い。あんな細い指では漁をしたり剣を振るったら折れてしまいそう。
肌は日に灼けた浅黒い肌や赤ら顔ではなく私たちセイレーンのように白い。
ひとつにまとめて背中に流している栗色の髪も、潮風に晒されてバサバサと粗野な男達とは全然違う。しっとりとして艶やかに煌めいている。
服の素材は海賊と同じかもしれない。でも深い海の底のようなダークブルーに控えめな銀糸の刺繍の意匠に派手さはない。宝飾品もこれ見よがしにじゃらじゃらとつけているわけではなくて、スカーフピンなどの最低限のものだけだ。
声が低かったし服装も男だけれど、もしかして女なのかしらと思うほど全体的に線が細い。
(……それほど怯えなくても、空か海にすぐに逃げられそう――)
そう思うとついつい、そのままその音色と旋律にうっとりと目を閉じて聴き入った。
「――さっきも思ったけど、綺麗な声だ」
ふいに旋律が途切れ、やっぱり穏やかに男は言った。
(……声? 鼻歌でも、歌ってた!?)
驚きに心臓が飛び跳ね、口から飛び出してくるかと思った。咄嗟に翼で強く口元を覆う。
――おかげで、逃げ損ねた。
「せっかくの綺麗な声がもったいない。もっと自信をもって歌えばいいのに」
男が涼しげな目を細めて穏やかな笑みを向けるので、思わず眉をひそめる。
「……私が歌うと、あなた死ぬのよ?」
「はは、お気遣いなく。どうせそのつもりだったから」
「そのつもりだった……?」
意味がわからなくて、首を傾げた。男の笑顔が皮肉めいたものにかわり、巨大な墓標に視線を移す。
「海賊達の悪ふざけだ。竪琴でセイレーンの巣を抜けた伝説さながら、これでセイレーンと渡り合って見せろと言われていてね」
男は振り返らないままに軽く楽器を持ち上げて見せた。
「差し詰め、私が餌食になる光景を酒の肴にしようとしていたんだろうが……その結果、自分達が襲われて私が無事とは笑ってしまう」
吐き捨てるような剣呑な口調だったが、戻ってきた視線はやはり穏やかだった。
「……なんであなたは無事なの?」
男は溜息混じりに肩を竦めた。
「さぁ?バカバカしいと抵抗したら気絶させられて、目が覚めたらこの状況だったので、詳しくはわからないな」
おそらく深い昏睡で仲間達の歌を聴かずに済んだのだろう。小さい船なら生きていそうな人間がいれば起こしてでも聴かせるが、今日は充分な獲物を狩って満足していたから死体だと思って見過ごしたというところか。
(運がいいのか、悪いのか……)
「こんな海の真ん中の、しかもセイレーンの縄張りに、このまま水も食料もなくボロの小舟で浮かんでいたら飢餓で苦しんで死ぬ」
ちょうど同じことを考えたらしい男は、しかし私に向かっていたずらめいた笑みを投げかけてきた。
「ならば麗しいセイレーンに魅了されて死ぬほうがよほど幸せというものだ」
(――この人、私の歌で……酔ってる……?)
はじめてだから、わからない。
無意識の鼻歌がうまく歌えていたのかどうかもわからないし。
けれど仲間達が虜にした男達は、こんな涼しげな目をしていただろうか。もっと、とろんとした目になって――口元だって、だらしなくて。こんな寂しさが滲む笑みを湛えたりしていただろうか……?
訝しく見つめていると男は再び楽器をかまえ、純粋なほほえみを投げてきた。
「歌って」
キィィ――……細く、高く。
伸びやかで美しい音色が空に吸い込まれていくようだった。
「――主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光でお照らしください」
楽器が奏でる音色に、男は歌詞を乗せた。
「主よ、彼らを永遠の光でお照らしください。聖者たちとともに永遠に。あなたは慈悲深くあられるのですから」
一通りの歌詞を乗せると、促すように視線が投げられ、曲が始めから奏でられる。
「……私、うまく歌えないわ」
とぷんと鼻の上まで海面に沈んで視線を逸らし、くぐもった声で呟く。
「大丈夫、さっきは外してない。ヴァイオリンの音をよく聴いて。同じ音階をなぞってみてごらん」
そう言って、一音、一音……ゆっくりと丁寧に弾いていく。
あれはヴァイオリンという楽器なのかと心に刻むと、目を閉じてただその美しい音色に耳を傾ける。
誘うように――それはまるで海流のように抗い難い誘惑だった――何度も繰り返される歌いだしの旋律。
ついには誘われるまま船の縁に翼をかけて、おそるおそる……歌い出す。
「主よ、永遠の安息を絶えざる光でお照らしください」
驚いたことにそのフレーズを歌う間、一度も音を外さなかった。
あまりに不思議で自分の喉に翼で触れてみたが、いつもと何も変わることなどない。
「ほら、大丈夫だった。……自信を持って。喉ではなくて、お腹から声を出すよう意識して……」
優しく励まされ、もう一度最初から曲が始まる。
今度は促されるまま、言われるままに、お腹に力を入れて声を張る。
「主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光でお照らしください。
主よ、彼らを永遠の光でお照らしください……」
かこん、と音がした。
息を呑んで驚き見れば、小舟が岩場に乗り上げている。
「……え?」
ドキリと心臓が跳ねた。
押したわけではない。風も凪いでいる。
座礁というにはあまりにも軽い衝撃だけれど。
しかし、現に小舟は岩に乗り上げて動かなくなった。
「もう一度、最初から」
戸惑う私を薄笑みで一瞥した男は、しかし気にとめていないように再びヴァイオリンを弾き始める。
もはや歌いたいという誘惑に抗うことはできなかった。歌は本来、私たちの本能に刻み込まれたものだ。抗うことなどできようはずがなかった。
ただひたすらヴァイオリンの音色に耳を傾け、その音にり添うために歌う。
それしか考えられなかった。
「――主よ、永遠の安息を彼らに与え、絶えざる光でお照らしください。主よ、彼らを永遠の光でお照らしください。聖者たちとともに永遠に。あなたは慈悲深くあられるのですから」
悲しく、切なく――そして穏やかに。
優しく慰めるような旋律と歌声が最後まで途切れることなく、夜空に吸い込まれるように消えていった。