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前編

 ひとり、引き潮になると海面から顔を出す岩場に降り立つと翼を畳み、腰を下ろして空を見上げた。

 吸い込まれそうな満天の星空に穴が開いたようにぽっかりと浮かぶ真円の月が眩しくて目を細める。


「今日は大仕事だったわねぇ」

「見たぁ?あの船長さんたら、私の歌声にうっとりして鼻の下伸ばしてさぁ」

「え~?私に見惚(みと)れてた男の方がいい男だったわよ」

「私なんか、君のためなら死んでもいいって叫んで自分から海に飛び込んだんだから。……顔はイマイチだったけどさ」

「数なら私が一番よぉ!」

 きゃははははと笑い合う仲間達の甲高い声が聞こえてきて鬱々とした溜息が漏れ、それにつられて視線が海上へと落ちる。


 折れた船体から突き出すマストと寂しげに風になびく旗の残骸の影が墓標のように見えた。その巨大な墓標にふさわしい数の人間が乗っていたはずだが、今や動いている人影はひとつもない。

 月明かりの中で夜空を舞い踊るのは、豊かな髪を風に揺らしカナリア達のような鮮やかな翼を広げる半人半鳥――燐光を放ちそうな白い肌が形作る妖艶な肢体と美貌の(おもて)。ルビーのように紅い唇から紡ぎ出す甘い歌声で船乗り達の心を酔わせ、船を座礁させ、海に引きずり込む――セイレーンの姿だけだ。

 最近は迷い込む漁船も、敢えてこのセイレーンの海域を通る愚か者も少なくなってきている。まれに、今日のように興味本位や腕試しに来る海賊がいるから、暇を持て余していた彼女達は久々の大きな船に大はしゃぎで、あの様子だけれど。

(……来なければいいのに)

 鬱々とした気分でぱしゃんと海に足を浸してみる。

 魚達が餌でも落ちてきたかと勘違いして群がり、足をつついてくすぐったい。

「ふふ……残念、ハズレ」

 くすぐったさに強引に気分を持ち直して顔を上げる。

 日が沈む前には威風堂々と誇らしげに骸骨が描かれた海賊旗を掲げていたが、散り散りになってマストに残った今の残骸ではその面影はない。あれらの残骸や人骨は海流に乗って私たちの小島をひとまわり大きくするのだろう。


「あらぁ?あなた、そんなところにいたの?もうみんな帰るわよ」

「うふふふ、今日もまた獲物がとれなくて落ち込んでいるんでしょ」

 私のいる岩場にふんわりと優雅に舞い降りたのは、鮮やかな深紅の翼のセイレーンと翡翠の翼のセイレーンのふたり。翼を畳んだ仲間達は綺麗な顔立ちに酷薄の笑顔を浮かべ、甘ったるい声で両側から交互に耳元に囁いてくる。

「ひとりにしてあげるほうが親切よぉ」

 と、上空では夜空のような瑠璃色の翼の仲間が笑っている。

「ねぇ、あなたもそろそろひとりくらい酔わせてみなさいよ」

 ふんわりとした深紅の翼が、私の喉から頬にかけてをするりとひとなでする。

「あはははは、無理無理。この子ったら声も小さいし、歌だって下手でさぁ」

「それもそうよねぇ~」

 嘲笑に白い翼がふるえそうになる。が、俯いて歯を食いしばって耐える。

 足をついばんでいた魚達はすでに間違いに気づき、本物の食事を求めてそれぞれに海の中に消えている。

「……私、少しここで練習してから帰る」

 自力でなんとか喉から絞り出した返事に、彼女たちは揃って盛大に笑い声をあげた。

「そうよねぇ。もうちょっとうまくなってくれないと邪魔だもの」

「頑張ってねぇ~」

 ひらひらと手を振るように大きく翼を広げてからふたりは飛び立ち、瑠璃色の仲間と合流する。

 笑い声と羽音が遠ざかり、鮮やかな深紅や翡翠、瑠璃の翼が闇の中に消えていった。





 あとには穏やかな波の音だけが残る。


「…………はぁ……」

 ずっしりと重い溜息が漏れ、錨のようにずるずると気分が沈んでいく。

 けれど、あの人たちのおしゃべりを聞いているよりはひとりのほうがずっと気楽だ。


(……来なければいいのに)


 ひんやりとした岩場に転がり、ただぼんやりと空を見上げてもう一度そう思う。

 獲物が来るから、こんな惨めな思いをしなければならないのだ。残骸や人骨が流れ着いて島が大きくなった分だけ、彼女たちの自尊心は膨らむ。同じだけ、私は惨めになる。

 島に帰るのも苦痛なのにほかに居場所がない。

 いずれ帰って自慢話に付き合うしかないが、もう少しくらいはこのままでいたかった。







 ぼんやりと空を見上げ、波の音に聞き入る。

 心を空っぽにして、静かに繰り返される波の音に耳を澄ませていると、同じように心が凪いでいく。






 ふと――静かな波の音の狭間に、どこからか聞いたことのない澄んだ音色が聞こえるような気がして、身を起こす。

(綺麗な、音……)

 目を閉じて耳を澄ませてみるけれど、もうその音は聞こえなかった。

(……気のせい……?)

 今度はあたりに目を凝らしてみる。


 漆黒の海面は月明かりに照らされてぬらりぬらりと蛇のようにうねり、突き刺さっている船の残骸の影を飲み込もうとしているように見える。


 だがそれ以外、なにもなかった。


 しばらくはもう一度あの音が聞こえないかと耳を澄ませていたが、いくら待ってももう波の音しかしなかった。


(――私も、あんなふうに歌えたら……)

 儚い記憶の中の音階を辿る。

 音色もさることながら、美しい旋律だった。

 悲しくて、切なくて――そして、優しく包み込むような。


「らら……ら……ら、――あ、」


 記憶に残る旋律を真似てみようとしてみたが、音程を外してしまい、溜息をつく。


 記憶の中では美しいあの旋律が、私が口ずさんでしまえば壊れていきそうで唇を噛む。

(やっぱり……ダメね……)

 肩を落とした、その瞬間だった。


「半音、高かった」


「………ひゃぁっ!」

 唐突に男の声が聞こえ、慌てて海に飛び込んだ。

 仲間達のように簡単に人間を(とりこ)にすることができるなら手玉に取りこそすれ、怯える必要などないのに、と苦い気持ちが溢れた。

 だが。

「ふふ、歌の下手なセイレーンなんているんだな」

 しかし背中から降り注いだ静かな含み笑いは嘲笑ではなくて、とても穏やかであたたかく耳に届いた。


 そんなふうに笑う人間を、知らなかった。


 海賊か漁夫か……どちらにしろ、海の男達はがさつで粗野で荒々しい笑い声を上げるものだ。

 にわかに興味を惹かれて、海中から水面(みなも)を見上げる。

 揺らめく船の残骸の隙間を縫ってさらさらと月光が降りそそぐ。広がったり縮んだりを繰り返す銀色の網のような水面に、原形を留めた小船の影があった。さっきまでいた岩場から少し離れたところだ。


 その小舟から、さっきの音色と旋律が再びゆっくりと流れ始める。


(やっぱり、綺麗な音……)

 吸い寄せられるように船底にそっと身を寄せて、耳を澄ます。


 目を閉じて、ただその美しい音色と旋律に心を傾ける。


 近くで聞くと、それは空気を、海を、ぴりぴりと小刻みにふるわせながら伝わって、胸にまで響いてくる。


 全身の毛がざわざわと逆立つ。


(……もっと、近くで聞きたい……)


 怖いという気持ち以上に、強くそう思った。


 人間が私たちの歌を聞いた時ってこういう気分がするものなのだろうかと心の隅で考えながら、誘惑に耐えきれずに船の(へり)からこっそりと船上をのぞき見る。



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