沈下 (2)
というか、『明滅』は、「天使」→「沈下」→「明滅」の順番立てです。それぞれに連関性はあります。
(承前)
はたして男は、この世の主だった世界から取り残されていた。もう彼には生きていくだけの経済的手段もまたそれを実現しようとする心もちも持ち合わせてはいなかった。現にそれらはとうの昔に失われてしまったし、もう彼は二度と労働者として生きていけることはないだろう。そういう意味では彼は人間ではなかった。いや、それは言いすぎかもしれない。労働が人間の条件だなどと言うのは、やはり少し傲慢な見方を挟むものであって、男は偶然的な理由をして、力強く生きていくだけのエネルギーを誰かから、そして何かから奪われてしまっただけに過ぎない。じっさい、世の中にそんな人はゴマンとありふれているし、そのことを見逃すと我々はこのおぞましき世界を何一つ分かってないことになるだろう。
実際、男はどこからかふらふらとやって来て、このカエデの樹がよく植えられている公園を遂に見つけたのだった。この場処は今まで過ごしたところよりも、幾分安全な場所のように思えた。安全というのは、もちろん自分の身が落ちつけて過ごせて、夜も休むのにそこまで苦労しない、ということなのだが、それ以上に、浮浪者を公園から追い出すあの忌々しい警察官や、怪しい目で見てくる親子とかいったものが、そこまで居ないように思われた。それは、彼が彼自身の存在を消去するのに一番適した状況であった。
夜の暗さは今や確実に辺りを覆っていた。公園には男が居座っている方のスペースにうすら寂しい街灯が一本だけ立っていて、その照明がいっそう闇の妖しさを際立たせていた。暗闇の中では空気の質量は重々しく感じられ、まるで我々の息も黒色の分子に吸い込まれるかのようだった。ここでは指一つ動かすことさえ鈍い。存在の輪郭を闇の中にうまく溶け込ませた男は、やがて現実の映像なのか夢の中なのか判別することがむつかしいイメージを目にしていた。まず男の目――あるいは脳裏――に飛び込んできたのは、一匹のキツネだった。キツネはよく映える金色の毛をして、長い尻尾をたずさえていた。キツネは男が気付くまでは公園の茂みに隠れていたらしく、姿を現してから、キュウンと耳慣れない鳴き声を出して、左隅の砂場のほうへ向かっていった。キツネの歩みは闇の中自分の足取りを一歩一歩慎重に確かめるかのようだった。
キツネは砂場の真ん中までたどりついた。そしてしばらくすると、日本の前足を使って、そこにある砂をかきわけはじめた。何か埋まっているとでもいうのだろうか? キツネの挙動を見ていた男は、キツネのあまりの一心不乱なその動きに、不気味なものを感じた。砂はどんどん掘り崩され、キツネは上半身を砂の穴にすっぽり収めてとり付かれた様に作業を続けていた。やがて、動きが止まった。男はなぜか今や透明ごしにキツネの頭が見えた。キツネは何か黒いものに触れていた。掘っていたのは暗闇だったか、いやそうではない。黒いものはだんだんと姿を大きくし、キツネが掘った穴の範囲をぐんと超えた。そこにあるのは、キツネが見上げるほどの大きさの、巨大毒グモだった。
毒グモはずんぐりした胴体から伸びる八方の足の関節を自在に動かした。キツネははじめは毒グモの様子に怯えていたが、しだいに毒グモに向かってグルグルと怒りの声を発した。両者の対決は今や明らかだった。両者は向かい合って取っ組み合いをはじめた。先手を取ったのはキツネのほうで、彼の鋭い前歯が毒グモの一本の足を見事に食いちぎった。毒グモは唸りにも似た音を上げて倒れたが、他の足でキツネの胴体を絡め取ることに成功した。両者は倒れたままぐるんばたんぐるんばたんと、激しい攻防を繰り広げた。
そうしている内に、どちらがどちらかの区別もつかなくなっていった――夜の闇よりも濃い毒グモと、明るかったキツネは、ただの漆黒の闇に回収され、それも最初は動きが大きかったのだが、だんだんと小さくちぢこまって、やがて争う音も消えつつあった。そうすると、漆黒の闇は一つの点になって、あたりにはすっかり静寂が取り戻され、男が気が付くと、毒グモとキツネがいた場所は元の砂場があるだけだった。
(つづく)




