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貨幣経済とオーク

「わあ!」


リーエスがイクトールの家に足を踏み入れたとき、自然と感嘆の言葉が口から漏れた。


イクトールの家族(母ルルゥ、兄アレクトール、妹ガルシア、妹ウラグ、そしてイクトール)が住む家は、彼が生まれた頃から様変わりしていた。


家自体の材質や外見、エクステリアには何の変化もない。


しかしそのインテリアは眼を見張るものがあった。


中には溢れんばかりの毛皮と鹿の角が並んでいて、空間を圧迫していた。


「これはいったい……?」


イクトールは、リーエスが言わんとしているところが理解できた。


基本的に人間族は多種族を見下している。


それは人間族だけに当てはまることではなく、人魚族、有翼族、オーク族などの亜人族と人間族が呼ぶ種族にも当てはまることだ。


概ねほとんどの種族が自分の種族に誇りを持っていて、それがプライドとしてこびりつき、他種族を見下すという傾向がある。


それでもリーエスは目の前の光景に素直に感心した。


「まるで帝都の毛皮店のようだ……!」


質はまだよく検討していないし、リーエス自身が毛皮を扱った経験が浅いので正確に推し量ることはできなかったが、量は一流と断言してもよかった。


「お褒めに預かり、光栄です」


イクトールは素直に褒め言葉として受け取った。


イクトールは帝都どころか他の街を見たことがないが、行商人として各地を渡り歩いている彼が言うのなら、きっといい意味での褒め言葉だろう。


「ね?すごいでしょ?イクトールはこの村一番の狩人なのよ!」


カルアがまるで自分のことのようにオーク語で言った。


目がきらきらと輝きを放っていて、上唇と一体化した小ぶりな可愛らしい鼻がふるんと揺れた。


頭頂部にぺたんと垂れた耳をひくひくと動かす、オーク族の喜びを表すジェスチャー付きだった。


「彼女は今なんと?」


「私たちが丁寧に剥いだもので、一級品ですよ、と」


嘘をついた。


別に翻訳するほどのことでもない。


「なるほど。確かオーク族は完全分業制なのですよね?」


リーエスが抜け目なく毛皮に目を走らせながら言った。


この雑談の間にもこの貪欲な商人は、宝の山に等しい毛皮の山から、どれだけ利益を吸い出すかをその頭で計算している。


「ええ。男は狩り、女は内職。適材適所で効率的でしょう?」


「そう、その通りです。帝都では少し違いますけどね」


「というと?」


「最近、どうもあちこちで女性が働き出しているんですよ。まあ、この間遠征が取りやめになって、経済が滞ってますから……」


『彼、結構やり手ですね』


女神アンジェリカが割り込んだ。


『聞いてたのか』


『いつも聞いてますよ。あなたの愚痴も私への悪態も』


『……脅しになるとでも?』


『別に。あなたが明確な反抗の意思を持つなら、私はあなたへの魔力供給をやめて新しい魂を転生させるだけですから』


『……彼の言葉の真偽は?』


リーエスが言った意味を、イクトールは何となく理解していた。


経済が滞っている、というところからこちらの経済状況も厳しい、ということを持ちだして値切ろうという算段だろう、とイクトールはあたりをつけた。


帝都を中心に経済が滞っている。


経済が滞ると懐事情が厳しくなる。


私の懐事情も厳しいので少し値を下げてくれないか。


簡単な論法だ。


郁人であったころ、掲示板での議論、……とも呼べない罵り合いから学んだレトリックだ。


リーエスが展開しようとしているのは詭弁にすぎない。


帝都の経済状況が滞っているとしても、彼の懐事情も厳しいとは限らないし、彼はたった今領主の、ブルナーガとの交渉を経て、取引を済ませてきたところである。


ならば現金か、もしくは現物を何かしら持っているはずである。


交渉の余地は多分にある


『本当のようですね。つい先月、秋の遠征は中止になったとのお触れが出たようです。彼は嘘をついていませんよ』


アンジェリカとの掛け合いは置いておくとして、リーエスは明らかに挑戦的な色を瞳の奥に宿していた。


イクトールを、いや、オークの知能がどれほどのものかと推し量っているのである。


イクトールはこれまでも度々訪れる行商人相手に立ちまわってきたので、いくつかのパターンを知っている。


初めからオークはウスノロであると決めつけてかかってくる相手。


いくつか会話をしてからその知能を見極めようとする相手。


そして油断なく相手を尊重しつつじわじわと回りこんでくる相手。


最も優秀で厄介な商人は最後の油断ない相手だが、リーエスという男は2番目の相手のようだった。


それなら、とイクトールはいくつかパターンを考えながら会話を進める。


「なるほど、確かに前に来た行商の方も懐事情の厳しい様子でした」


イクトールは他にも取引相手がいることを匂わせた。


これが取引の最終チャンスだという交渉カードを切らせないためだ。


これでリーエスは「では次回に……」というカードは切れなくなったはずだ。


これを逃せば次に来た商人に利益を取られてしまう。


動かせる資産があれば動かそうとするのが商人だ。


行商人にとって、増えない動かせない資産は、持っていないのと同じである。


「遠征が中止になったのはいつごろで?」


「つい先月のことですよ」


リーエスは嘘をつかなかった。


この時点で彼の目線は、毛皮から黒光りする鋭利なものへと向かっていた。


「これは……!」


「おっと、お目が高い。熊の爪ですよ。何でも装飾品にするのが流行っているのだとかで。そちらには鹿の角もあります」


これは女神アンジェリカからの情報だった。


郁人の世界においても、つまり前の世界においても、熊の爪は魔除けとして、不可思議な力を有するものとして信じられていた。


この世界でも同様に力を持つものとして扱われている。


熊の爪は魔術の媒介になり、正しい手段を用いれば本当にその膂力を増強させるアクセサリーに加工できる。


さらに述べるなら、藁で編んだ紐でくくられて無造作に置かれている鹿の角も、粉末にすることで薬の材料にもなる。


魔力を有している魔術師だけが錬金術を用いて魔法薬を調合することができるが、そうでない生き物が作成した場合には普通の漢方薬としての効能しかない。


「こちらの熊の爪、どれくらいでしたらお譲りいただけますか?」


リーエスは敢えて売るという言葉は使わなかった。


「うーん、加工前ということで全部でマルクス銀貨800枚でどうです?」


「全部……というと?」


「3頭分の手足の爪です」


「まさか!」


1頭分あたりマルクス銀貨約266枚。


ちなみに一般的な日雇い労働者の日給がマルクス銀貨3枚ほどで、簡単な処理をしただけの加工していない熊の爪の価格としては、ふっかけた値段になる。


適正な価格としては、需要が多少下がっていることも考慮しても550から650が妥当だ。


リーエスはおそらくここからどうやって値引き交渉をするかを考えているのだろう。


「もう少しお安くできませんか?先ほど申し上げたように今は経済が滞っている時期でもあります。需要を考えると、熊の爪は少々音が落ちてきておりますゆえ……」


そう来ることは当然と言えた。


熊の爪は所詮アクセサリーである。


恒久的に一定の需要が見込めるような穀物などと違い、需要に波がある。


遠征が行われていれば、筋力を強化する魔具としての需要が高まり、値段は高騰していただろう。


しかし熊の爪は保存が効く。


需要が高まってくるまで待つこともできる。


イクトールは800という値段が気に食わなければ断ることもできた。


「うーん……」


だが敢えてイクトールは悩む素振りをした。


目標値を設定するとすれば、おそらく相場を考慮して600程度だろう。


それよりも少し上をいきたいところだった。


「では700でどうですか?」


イクトールが譲歩した。


それを聞いたリーエスは笑顔だった。


その笑顔は商人が顔に貼り付けるものだ。


「相場で言いますと、600ほどが適正かと思いますが……」


決めに来た、とイクトールは思った。


相場を持ち出したということは、それ以上を提示する可能性が高い。


620、いや、半々と持ち出せば650まで上げれる可能性は高い。


しかし、イクトールは値を釣り上げようとはしなかった。


視界にいた幼馴染のオークの少女が、郁人の、イクトールとしての意識を呼び覚ました。


「では600で」


絞れるだけ絞るような真似は、転生してから今日までの間に染み付いてしまった、オークとしてのプライドが許さなかった。


イクトールは万道郁人であったが、同時にイクトール・ブルナーガ・アウルクールでもあるのだ。


「しかし」


イクトールは自分に言い聞かせるためにも言った。


それは同時に、この集落全体のことを思ってのものだった。


自分のプライドも大切だが、この集落の生活向上も重要なことである。


「我々もそろそろ冬ごもりの準備をせねばならない時期に近づいてきているのですよ。言わばオークにとっての重要な時期なのです。現金がダメでしたら、何か食料になるものはありませんか?」


「ああ、同じことを首長様からも言われましたよ。それでしたらベーティエで下ろす予定だった小麦粉がまだあります。見ますか?」


「ええ。お願いします」


リーエスはイクトールの家の前に停めた荷馬車の積み荷を見せた。


すでにブルナーガの検査を受けているのだから、見せても構わないと考えたのだろう。


荷馬車には一抱えほどある小麦粉の袋が8つ積まれていた。


袋にはリンゴをかたどったらしい模様が描かれている。


ギルドが用いる紋章である。


イクトールにはどこのギルドの紋章かはわからないが、おそらくリーエスの所属している商人ギルドのものだろう。


リーエスはその袋の口紐を開いて、中の粉を見せた。


「かなり良質なものでして、小麦の名産地として名高いウィーテンのものです」


「これは……、かなり値が張るのではないですか?」


見たところ、マルクス銀貨で150から200はするとイクトールには見えた。


小麦粉についてそれほど詳しくないが、質の悪いものはもっと黒っぽい色をしている。


それにここはそもそも遠隔地だ。


何もかもが高く取引される。


「ええ、先ほど首長様と1袋200で取引してきたところです」


妥当な取引に思えた。


イクトールはリーエスを良い商人だと結論づけた。


この相手になら、少しくらい色をつけてもいいとさえ思った。


それが商人の技術だとしても、今後とも継続的に利益をこの集落にもたらしてくれるのであれば、先行投資という意味でも有効に思えた。


「……でしたら、こちらも毛皮をお付けしましょう。これからの時期ですと、毛皮が高騰するでしょう?」


「それはありがたい。夜を凍えて過ごすのは耐え難いですからなあ」


交渉は上手く纏まりそうだった。



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