狼たるキュオーン族のグルオン
グルオン・ルショフは北の生まれである。貧しい農民の生まれで、冬は凍えていた記憶しかないので大嫌いである。
暖かそうな毛皮も見た目だけだ、と思うがなにせヒト族のように毛が生えていないときがないので、ヒト族よりは暖かい思いができているのではと思う。どうせ五十歩百歩さ、とも思う。
寒さより何より、心の芯まで凍えそうな貧しさがグルオンを冷やした。両親に兄弟合わせて7人の計9人の家族は、何より食い物に困っていた。父は働き者でいつも一番最後まで働いていた。
今思い返せば、父の行動は合理的ではなかったのだろう。他の農民は素早く仕事を切り上げて、副業の藁仕事に従事していた。麦藁から縄を作ったり、籠を作ったりして、小金を稼ぐのだ。本来は禁止されている副業について、父は反対だった。自らの仕事に専念するべきだ。不誠実だ。神アヌビスが許されない。
副業の蓄えが冬に食料として消費されるのだが、父は、合理的ではなかった。冬は食べるものに困り、2週間を椀にほんの少しの大麦粥だけで過ごしたこともある。ついには寒波に乗って麦の病がきて畑が全滅して、とうとう麦粥もなくなってしまった。こうなっては餓死する他なかったが、周囲の農民たちはそうではなかった。
ルショフ一家と違い、他の農民は副業収入と隠し畑によって、ある程度の飢饉は乗り越えられたのだ。だがそれでも彼らは助けてくれなかった。
いや、今思い返せばそれも合理的で論理的なことなのだろう。父は他人から見れば農業だけをやって、飢饉に備えようとしない怠け者に見えたのだ。ただでさえ自分たちの生き死にがかかっているのに、怠け者をわざわざ救ってやる必要もない。
結果的にルショフ一家は離散した。父は炭鉱夫、母は娼婦になり、兄弟たちは教会の孤児院に入れられた。アヌビス神からジェフヴァ神への宗旨替えをしたことは、少なからず幼いグルオンの心に傷を負わせた。キュオーン族は元々忠誠心に厚い種族である。それが信奉する神を変えるという最大級の裏切り行為は、幼いキュオーンの少年には酷く残酷なことのように感じた。
段々と成長するにつれ、グルオンは自分の置かれた立場も理解するようになってきた。
孤児院のある場所はバリスト辺境伯領にあり、元々いた土地からかなり西に進んだ場所だということだった。
元々ルショフ一家がいた土地はルシフル大公という、ヒュムランド帝国に形式だけ属するキュオーン族の王が治めている土地だ。広大な北の大地に広がる山林地帯で、キュオーン族発祥の地と呼ばれる。
ルシフル領の森の奥、ヴォルブスグラドと呼ばれる地に巨大な骨がある。巨大な狼の姿をした骨で、城ほどの大きさがあるという。古代の狼であり、そして神アヌビスの右腕による祝福を受けてキュオーン族の祖となった。とグルオンは小さな頃に母から聞いた記憶があった。
名をヴァナルガンド。
グルオンは冬が来るたびに、隙間風の吹き込むあばら家で兄弟たちと聞いた母の話を思い出すのだ。荒れ狂う吹雪の吐息を放って堂々と四肢によりて立ち、森を睥睨する巨体で大地を揺らしながら歩く、見上げるように巨大な狼の姿。
母はことあるごとに言うのだった。
「ヴァナルガンド様のように強く生きなさい」
アヌビス神、ジェフヴァ神、ヴァナルガンド。異なる神がグルオンの心にあった。そこに現れた超常の化身アンジェリカと、その使徒イクトール。
初めてイクトールと出会った時は、ただの出稼ぎのオークか、道に迷ったオークか。どちらにせよ世間知らずな田舎者に見えたのだ。他に生き方を知らなかった不器用な父の姿と重なるようで、放っておけなかった。
それがどういうわけか迷宮で命を落とそうというときに現れて自分を救ったのだ。父を、家族を助けてくれなかったルシフルの農民たちとは違い、イクトールは助けてくれたのだ。信仰の迷いを払うように、イクトールは助けてくれた。努力を惜しまない者に、やはり神は救いを差し伸べてくれるのだ。そう思った。
だがイクトールは、オークの女神アンジェリカの使徒であった。
男神アヌビスでもなく、使徒ヴァナルガンドでもなく、男神ジェフヴァでもなく、女神アンジェリカの使徒イクトールであった。
イクトールは、奴隷商館を襲撃し、謎の魔導具をもって敵を無力化し、そして数百の騎士団を打ち倒した。グルオンは主戦場に辿り着くことすらできなかったのに。
ロザリーの魔術で気絶してから目覚めたときには、すでに周りに人の気配はなかった。火柱が天を焦がすのを見て、山を登っていって辿り着いたときには、すでに男女2人の騎士が、この世の絶望を見たような表情で地面に転がっていて、それに対比するように黄金の髪と瞳を持つ美少女にオークたちが平伏す光景だった。
女神、顕現、使徒、宝具、騎士団、隷属紋。そのどれもが非現実的で非日常的なものだった。田舎者だと思っていたイクトールは易々とその話題についていき、時折鋭い意見を向けるようでもあったが、グルオンにはその意見の意味すらもわからなかった。
ただ、非現実的な美貌を持つアンジェリカの言葉だけが、グルオンの心に深く刻まれた。
「神の下に、すべての生命は等しい」
目から鱗が落ちる思いだった。今までは神授王権……神が王へ民を支配する権利を与えており、神の下に王がいて、王の下に貴族がいて、貴族の下に兵や民がいると教えられていて、そしてそれが当然と思っていた。それを真っ向から否定された。
神は王や貴族や平民を、何とも思っていない。脳裏に母の物語が鮮烈に思い出された。そのときに感じた隙間風の寒さを思い出して、全身の毛が逆立った。
「ヴァナルガンドはとってもとーっても大きかったのです。ヴァナルガンドにとって、生き物は空を飛ぶか飛ばないかの2種類にしか区別できないくらいでした。なぜなら、ヴァナルガンドの太い毛だけで木の幹ほどの大きさがあるものですから、どんな動物も彼のふさふさした毛の森に隠れられてしまうのです。あなたが毛に入る2匹のノミをそれぞれ区別できないように、ヴァナルガンドは他の動物を区別できませんでした」
グルオンはそのとき、確かに神を見たのだ。吹雪の森を見下ろし、月を喰らうほどの巨体を東西山脈に横たえて、ルシフルの地をつまらなそうに見るヴァナルガンドの姿を。
箸休め的な話が続きますが、お付き合いください。




