イクトールとアンジェリカ
「さて、我が使徒イクトール」
少し嬉しそうに部屋を出ていったフリードリヒを見送って、アンジェリカが口を開いた。フリードリヒの背中を見るアンジェリカの目は、何かを心配しているかのようだった。
「あなたは私の使徒です」
アンジェリカは扉を見つめたままだ。
「あなたを使徒としたのは、魂が似ていたからです。といっても木っ端にも足りない異世界の魂と、比類なき高みにあるこの魂とは比べ物にならないのですが。それでもなるべく波形の近いものを選びました。それがあなたです。万道郁人」
久しぶりに、前世の名を呼ばれ、イクトールは酷く混乱した。今が現実であるという認識と、夢の中ではないかという認識とが混濁し、胡蝶の夢のように前世と今世のどちらが夢で現実なのかと迷っていたころのように、アイデンティティが揺らぐ感覚が全身を襲った。
どちらも、現実なのだ。
ソファの感覚が戻ってくる。柔らかく、しかし郁人の知っている柔らかさより硬い、ソファの感覚。イクトールの知っている硬さより柔らかい、ソファの感覚。主観的に見れば、何が現実だって関係ない。今見えているものが現実だ。
「私はあなたを魔剣に近い場所に転生させ、それから少しづつ調整を加えました。狩りをするたびに魂を取り込み、あなたの魂は徐々に成長していった。そして、魔剣を手にし、我が神域にパスを繋ぎ、同族のために異種族を贄とさせ、魂の調律は完成しました。あなたの魂は、1つ階段を登ったのです」
イクトールの脳裏には奴隷商館での出来事が思い出された。確かにあのとき、何か、言葉では表せないが、何かが1段階上がったような感覚があったのだ。
アンジェリカの言葉に、イクトールは何だかホッとしていた。疑問に思っていたことが氷解していくような感覚だった。
「あなたは私をこの世界に留めておくための送受信機です。私の意識はあなたを通してこの世界に顕現しています。まあ酷く魔力を消費する上に、やはり魂の位階の差は埋め難いので、いろいろと苦労しているのですけどね」
アンジェリカが自嘲的に笑った。幼女のする表情ではない。
「ジェフヴァのクソ野郎が何を考えて使徒を多数送り込んでいるのかはわかりませんが、あのボケナスの行動は結果的に他種族を駆逐しています。それは止めなければなりません。創世の神々の守護がなければ、この世界は崩壊してしまうのです」
「ジェフヴァ……?崩壊……?それは、信仰心減衰の問題に繋がるわけですか?」
「ええ。結果論ですが、個々の性能を抑えたジェフヴァの種族は、適応力に関しては一級品です。サキムニの種族やアイアコスの種族には劣りますが、それでも繁殖力は他種族より高く、適応力と相まって今や最大勢力です」
「サキムニ……?アイアコス……?」
「ああ、ジェフヴァもサキムニもアイアコスも私と位階を同じくするとか僭称しているカス共ですよ。ヒト、ラバイト、ミュルミドーンの守護神です」
アンジェリカは事も無げに言う。イクトールが知らない種族や神々の名だ。
そのイクトールの思考を読んでか、アンジェリカは言葉を続ける。
「ラバイトは帝国から南東に進み、我らオークの国を跨ぎ、砂漠を越えてミノタウロスとケンタウロスの領域の境目付近の高地にいます。ミュルミドーンはミノタウロスの領域から海を渡った先の島々でリザーディアン相手に争っていますよ」
イクトールは頭がクラクラしてきた。イクトールの知る種族は6つで、オーク、ヒト、リョスアルヴ、デックアルヴ、キュオーン、アイエルロだ。そこにいきなりラバイト、ミュルミドーン、ミノタウロス、ケンタウロス、リザーディアンときた。
ラバイトは兎、ミュルミドーンは蟻、ミノタウロスは牛、リザーディアンは蜥蜴がそれぞれ二足歩行しているような種族である。ケンタウロスだけは下半身が馬である。
「この程度で驚いてどうするのですか我が使徒イクトール」
アンジェリカは呆れたように言った。
「と、とにかく、その神々がこの世界を維持しているってことですか?」
「そうです。胸糞悪いことに、私以外の神が消滅すると、この世界にどんな悪影響を及ぼすのかまだわからないのです」
「なるほど……」
「とにかく、そういうわけで当面の行動方針として、我々は人間とエルフの戦争に介入します」
「ああ、あのエルフ大征伐とかっていう……」
「そうです。ヒトの最前線であるヤーダベルク辺境伯領で、皇帝の息子であるアルディギオンがエルフの魔術によって斃れたことに端を発した弔い合戦です。それが今ではエルフ大陸の権益を搾取しようとする動きに変わっています。何万人ものエルフの奴隷がこちらに運ばれてきてますよ」
「……皇子は、本当にエルフが殺したんですか」
「さあ、それはどうでしょう。もし仮に貴族たちの策謀の結果として殺されたとして、どうやってその証拠を見つけて、どうやってこのエルフ大征伐なんていう馬鹿騒ぎを収拾し、どうやって罪人を裁くのですか?」
「いえ、自分は真実が知りたかっただけです。その真実次第で、主犯格の貴族を脅して傀儡にする手もとれますから」
「ふふふ。いいですよ。なかなか私の波長に合うようになってきましたね」
アンジェリカは小さな体を震わせて笑う。イクトールと比較して、腰までしかない身長の彼女は愛おしい。守備範囲の広いイクトール的には最高であった。
そんな幼女は、くるりと踵を返し、自分の椅子に、ぽふっと腰掛けた。それからお茶を一口飲んで唇を湿らせる。
「残念ながら主犯格はわかりません。ただ、一つだけ言えることは、私にも見えなかったということは転生者絡みだということです」
転生者。つまりいずれかの神々の使徒ということになる。
「転生者……ですか」
「そうです。つまり神の意志が介入しているということです」
アンジェリカが人差し指を立てて、自信満々に言う。神々の戦い。それに巻き込まれていく。そんな抗い難い大きな流れを、イクトールは感じた。
「……アンジェリカ様の考える、このエルフ大征伐の着地点とは何ですか?」
せめて、この巨大なうねりの終着点が見たくて、イクトールは縋るように尋ねた。
「エルフ勢力とヒト勢力の拮抗。これに尽きます」
「つまり同程度の力を有することで戦線を膠着状態にして、事態収束に向かわせる……と?」
「その通りです、我が使徒イクトール」
アンジェリカは無垢な笑みを浮かべた。その顔だけは歳相応である。
「なるほど。では私はロザリーを連れてエルフ大陸に渡り、エルフ勢力と接触し、秘密裏に連携をとって援助する……という任務を与えられるわけですね」
イクトールの言葉に、アンジェリカは驚いたようだった。
「話が早くて助かります。転生してから随分と成長しましたね、我が使徒イクトール」
「有り難きお言葉にございます」
「あなたは旅の準備をしていなさい。マリアンヌが帰ってくるまで、もう少し時間がかかるでしょう。彼女が戻り次第、詳しい作戦を立てます。顕現している限り、私は今までのように神の視点を持ちませんから、あなた方の情報収集能力が頼りです。頑張りなさい、我が使徒イクトール」
「はっ!」
イクトールはソファから弾かれたように立ち上がり、跪いて頭を垂れた。
その姿を見たアンジェリカは、椅子から降りてイクトールの側まで歩いてきた。
「あなたもナデナデしてあげましょう。よしよし」
イクトールの頭に一掴み分ほど生えている髪を、アンジェリカは愛おしそうに撫でた。




