3歳の誕生日の儀式
イクトールがこの異世界に転生してから太陽が登って沈んでを幾度も繰り返したころだった。
そのころにはもう郁人も、イクトールと呼ばれることに違和感を覚えなくなっていたし、オークの生活にも順応していた。
オークは子供の誕生日を祝うということはしない。
なぜならあまりに兄弟が多すぎるからだ。
一々祝っていてはすぐに食料が底を尽きてしまう。
祝うのは3歳と7歳と10歳のときだけだ。
イクトールが3歳のころ、彼はすでに十分な歩行能力を有していた。
オークは1歳になるころからすでに歩行を開始し、会話も行えるようになる。
その例に漏れず、イクトールは3歳になる頃にはオーク語と呼ぶべき言語を習得していた。
周囲が生まれた時からオーク語しか話さないので、習得は容易であった。
というか郁人としての意識が覚醒する前にすでに言語を習得していたので、何ら苦労はしていない。
その時期を過ぎたころに意識を戻したのは女神の良心であるし、そもそも郁人の知能では新たな言語を修得するに及ばないだろうと判断されたからでもある。
翻訳の魔法を女神が使うという方法もあったのだが、端的にいうと面倒だった。
端的にいわなければ、常に魔力を消費するため、今の信仰力ではその魔法を維持しておくのは困難だというきちんとした理由があるのだが、女神アンジェリカはそれを郁人に説明するのも面倒だった。
こんなクズより、少ないながらもまた信仰力を貯めて、まともで死にたてほやほやの新鮮な魂を新たな使徒として転生させたほうがいいと判断したという側面もあるのだが、これももちろん郁人には説明していない。
そんなわけで女神アンジェリカのイクトールに対する対応はかなりぞんざいなものだった。
イクトールが念じれば、女神アンジェリカに連絡をとることが可能なのだが、彼女はその連絡に応えるのもそこそこだった。
「女神様、女神アンジェリカ様、応答してください」
幾度も無視されて、だんだんと丁寧な口調になってきたイクトールであった。
それでも女神アンジェリカはそれに応答するかどうかはかなり適当であった。
最初はきちんと応答していたのだが、次第にくだらないことで呼びつけられるようになったのでほとんどの場合は無視することにしていた。
神への問い掛けに応じたりすることを啓示というのだが、それに使う魔力もただではない。
ただでさえ少ない魔力を「アニメの最新話はどうなったか」だのと、信仰アップに何の影響も及ぼさないような質問に答えるのに使いたくなかった。
しかしちゃんと答える質問もあるにはあった。
女神アンジェリカは郁人の世界も覗けるし、望めばその世界の睡眠中の人間の脳から情報を取り出すこともできた。
なので、イクトールが武器の製造方法を訪ねてきた時には、ちゃんとボウガンの作り方を教えたりもした。
「女神様はなぜそんなに知識が豊富なんですか?」
『女神だからです』
女神アンジェリカの郁人への対処はあくまでも適当であった。
3歳になったイクトールを祝う儀式が整いつつあった。
部族の長であるブルナーガという名のオーク、つまりイクトールの父を中心にして、儀式の準備が着々と進行する。
儀式の場を準備するのは基本的に男の役目であった。
オークの集落の中心にある大きな石を中心にした祭壇には、キャンプファイヤーさながらに井の字に木が組まれて、明るい炎が轟々と燃えている。
その炎を頂にする石の下に、木の台があり、その上には生きたままの子鹿が縛り付けられている。
イクトールはこの子鹿を殺さなくてはならなかった。
イクトールがどのようにこの子鹿を殺すのかを元に、彼の一生が決められる。
そういうしきたりだった。
当のイクトールは儀式に対して及び腰だった。
そりゃ今まで社会人ではないものの文明人として生きてきた郁人にとっては、哺乳類を殺すということは経験したことがなく、かなり抵抗感のある行為である。
祭りの準備が整った頃には、すでに日の沈むころであった。
大人のオークより大きな、集落の中心の大岩に縄が締め付けられている様子を見て、イクトールはかつて郁人だったころの日本の記憶を思い出した。
(まるで注連縄みたいだ……)
イクトールの目の前には、轟々と燃える井の字に組まれた木があり、その前には草が敷かれた上に子鹿が横たわっている。
手足を縛られた子鹿はイクトールを見つめている。
その眼の色からは、恨みや恐怖などは感じなかった。
ただ見ているという気がした。
(女神様、どうしましょう……)
イクトールが心の中で呼びかけると、女神アンジェリカは素早く対応した。
『見ていましたよイクトール。あなたの好きなように殺しなさい』
(殺さないという選択肢はないのですか?)
『殺さない……ですか。本来ならその子鹿を私への生贄として捧げる儀式だったはずですが、今は正式な儀式すら失われているようですね。私への回路が繋がっていません……』
女神は淋しげに呟いた。
最後に女神への捧げ物が送られてきたのはいつだっただろうか。
『好きにしてください。殺したくなければ殺さないでもいいですよ。その子鹿は薬で意識が混濁しているでしょうから、足を結んでいる紐を解いて、頭でも撫でてやりなさい。それで儀式は終わりです』
(わかりました。そのようにします)
イクトールは力強く頷くと、しっかりと歩を進めた。
族長であり父であるブルナーガから渡されたナイフで、イクトールは子鹿の足を縛っている紐を切った。
その瞬間、おお!と周囲がざわめいた。
イクトールが子鹿を愛おしげに撫でると、族長の側近が立ち上がって声を上げた。
「イクトール!貴様、殺さぬというのか!」
イクトールはびびった。
そりゃかなり厳つい顔をしているオークがいきなり名指しで吠えたのだから、たまったものではない。
正直ちびってしまいそうだった。
「神聖な儀式において、よくも貴様……!」
「まあ、よいではないか」
そう言ったのは族長、イクトールの父、ブルナーガだった。
「しかし……」
「これがイクトールの生き方ということだろう。女神様の言うとおりなら、これが彼の未来を暗示するということだ。イクトールは優しいオークになるだろう」
族長の意見は絶対である。
ブルナーガがそう言う以上、側近は何も言えなくなってしまった。
「父様……」
「イクトール、君は君の運命を生きなさい」