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オークの日常生活

朝靄に包まれた山は、しんと静まり返っている。聞こえるのは微かな鳥のさえずり。ほとんど無風状態なので、木々の葉は髪がさらさらと流れるような音しか立てない。


その中に、ほんの僅かな息遣い。その者自身にのみ聞こえるほどに低く潜まされた長い呼吸。音を立てずに、すーっと長く伸びる息は、その者を静寂へと溶け込ませている。


苔むした巨木を思わせる緑色の肉体。そこから生み出される規格外の膂力が、大きな弓を引き絞る。そっと、ゆっくりと引かれた弓は、静かにその弦を限界まで緊張させる。緩やかな弧を描いていた弓が、引き絞られて形を歪ませる。


狩人の瞳は、闇夜のように黒く、それでいて殺気を放っていなかった。その瞳の向こうには、立派な角を持った2頭の鹿がいた。片方の角が小さいのを見ると、彼らはつがいなのだろう。角の大きい方の獲物に狙いを定めた狩人は、ただ静かに、限界まで引き絞った弓の力を解放した。


弾ける音と共に、矢が空間を駆け抜ける。音に反応した獲物が、全身をびくりと緊張させるが、逃げ出すより矢が届く方が速かった。


矢は胴体に突き刺さり、ぐらりと獲物の身体が揺らぐ。一歩、二歩と倒れまいとたたらを踏む。つがいの雌は一目散に逃げ出した。雄は、踏み止まった。倒れなかった。


狩人は2本目の矢を弓につがえ、すぐさま引き絞っていた。1本目で倒れるとは思っておらず、放った直後には、右手は腰の矢筒に伸びていた。2回目は、音を気にする必要はなかった。


手負いながらも、逃げようと地面を蹴り出したその後足の付け根に、2本目の矢が深々と突き刺さる。静かな山に、獲物の断末魔が響いた。


2本目で足を奪った狩人は、腰の短刀を抜いて駆け出す。その動きは常人の動きではない。木々の間を滑るように移動し、根や岩で不安定な足場をものともせず獲物に近づく。


足を射抜かれても懸命に逃げようともがく獲物に、狩人はその手で直接トドメを刺した。





イクトールの朝は早い。けして仕事に追われているわけではない。幼少期から日の出と共に起き、日が沈めば早くに寝るという生活を送ってきたからだ。


だが今はそんな生活とは無縁なものである。トランフルール領となった旧フルール領内の山で、イクトールは淡々と狩りに勤しむだけだ。女神アンジェリカは顕現し、イクトールの脳内を覗き込むこともない。


寝泊まりする場所は山の裾野にある小屋だった。かなり頑丈な造りのそれは冬にも使えるような保存食置き場という兼ね合いもあったらしく、4、5人が生活するには十分な広さがある。基本的には1人でイクトールは住んでいる。


捕らえた獲物を小屋の前の木に吊るして血抜きから解体を行うのは、カルアの仕事だ。イクトールが狩りに従事することになったことを受けて、何か手伝いがしたいとのことだった。


「……手伝おうか?」


「い、いえ!イクトールは休んでいてください!」


木に鹿の後ろ足を吊るすのは、集落にいたころは一苦労だったが、今では滑車を組み合わせることで半分以下の力で血抜きをすることができる。しかしそれでも狩りに慣れてきて、日に数頭も獲物を狩ってくるイクトールのスピードに、カルア1人では対応できなくなってきている。


元々カルアは身体が強くない。オークであるのに四肢はほっそりしているし、肉付きも胸以外はほとんどない。だが胸だけが肥大化しており、余計に彼女の作業の邪魔をしている。


「もうっ!邪魔ですわこの肉!」


「それを捨てるなんてとんでもない!!!」


そう言って自分の緑色の胸をぺちんと叩いたカルアを、イクトールは如何に巨乳が素晴らしいかを懇切丁寧に解くことで落ち着かせたこともあった。


内容的には、カルアが自分の身体にイクトールが劣情を抱いていることに興奮して大人しくなっただけなのだが、イクトールはその辺の感覚が転生者としてズレているので勘付くことはなかった。カルアの鼻先がじんわりと湿ったことについても、人間でいうところの濡れるという現象に近いのだが、それにイクトールは気付くこともなかった。


「いや、俺はカルアが心配だ。助っ人を呼ぼう」


「わ、私では不満ですの!?」


「俺はカルアの身体を心配してるんだ……。もし将来に影響があったら大変だろう?」


「しょっ、将来に!?そそそそ、そ、そうですねっ!そうですわねっ!大切にします!」


「うん?……まあ納得してくれたならいいけど」


カルアが下腹あたりを愛おしそうに撫でるのを見ても、イクトールはピンともこなかった。イクトールは鈍感だった。


今ある分の毛皮や角や牙などを、旧フルール領内に新たに設けられたオークの居住地……名目上奴隷のオークたちということになっている場所……へ運ぶための馬車を操る御者に、イクトールは人手がほしい旨を伝えた。





翌々日の昼。イクトールが午前に狩ってきた猪を解体して、鍋にしているところに応援がやってきた。駆けつけたのはイクトールの妹、ウラグだった。ウラグは同母兄妹の唯一の生き残りである。上の妹であるガルシアと母であるルルゥは、エクスリーガ騎士団の誰かに殺されたようだった。


そのことについては、そのときに必要な分だけイクトールは泣いた。今でも思い出すと悲しくなるし、無力感に苛まれるし、エクスリーガ騎士団の連中が憎くなるが。


「お兄様、お手伝いが必要と聞いて参りましたわ」


ウラグは多くのオークと同じように、十分な肉付きの少女である。オークの美的感覚では美少女にあたる容姿だ。


黒く丸い目はくりんとしていて愛嬌があって、長い睫毛がカールして目を強調している。その自重で垂れ下がっている大きな耳は、頭の上で時折ぱたんぱたんと跳ねる。


オークのセックスアピールとも言うべき鼻は、大きく、そして上を向いていつも湿り気を帯びているのがよいとされている。そしてウラグの鼻はそれに当てはまっている。


ひくひくと鼻を動かして、ウラグはイクトールの目線を観察する。同年代のオークの男の子なら、これで気まずそうに目線を逸らすものだ。人間でいうところの、胸を強調する仕草に近い。


「ありがとう。……ウラグだけか?」


「……ええ、そうです」


イクトールはちっとも反応しなかった。ほとんど無視しながら鍋に具材を放り込んでいく。白菜やキャベツに似た、丸い緑の葉をつける野菜を、メリメリと腕力で強引に小さくちぎって大きな鍋に敷き詰めるように入れていく。


白菜のような葉、猪の薄切り肉、葉、肉、葉、肉、葉……、と重ねていって、イクトールは簡単な鍋を用意していく。


包丁もまな板もあるが、この「手で千切る」ことで鍋に温かみが出る。とイクトールは信じていた。


ウラグが、兄が不全なのではないかと勝手に心配する前で、着々と料理は進んでいる。少しのエールを注ぎ、イクトールは鍋の下の焚き火に新しく薪を入れて、火かき棒で薪の配置を変えて火力を強める。水を加えずとも、葉っぱから出る水分で鍋になるのだ。


エールのアルコールで肉が柔らかくなるし、水で旨味が薄れることもない。塩だけで美味い一品である。唯一の問題点は、夏に好んで食べるものではないということだけだが、「夏に敢えて鍋を食べるのもまた一興」というのがイクトールの主張である。


それに夏だろうが冬だろうが、肉にありつける生活を送ることは、この世界では難しいのである。が、イクトールはそのことを知らない。


「……ウラグだけなのか?他の人たちはやっぱり忙しいのか?ウラグが抜けてきても大丈夫なのか?」


火の様子を注意深く観察しながら、イクトールはウラグの方を見たり、火を見たり、薪を見たり、鍋を見たりしている。つまりほとんどウラグの方は見ていなかった。


「……お兄様がその辺の感覚が疎いのは変わりありませんね」


ウラグはやれやれと首を振った。鍋に負けているのが悔しくて、ついつい口調がキツくなる。


「お兄様は今や有名人です。お近づきになりたいという女の子はたくさんいますわ。それこそ、ライバルがカルアさんだから、お父様の意志を尊重する意味で誰も積極的に近づけないだけで、お兄様から手伝ってほしいなんて動きがあれば……。どうなったかはわかりますね?」


イクトールは集落を救った英雄である。自分で撒いた種が集落を襲ったわけだからマッチポンプと言われても仕方のないことなので、イクトール自身はかなりの引け目がある。


そういう事情もあってイクトールはオークたちから離れて生活している。山から獲物を乱獲するように狩っているのも、罪滅ぼしという意味である。


だが、その事情を知らない「助けてもらった側」は、イクトールを英雄と祭り上げ、ブルナーガの次の首長はイクトールだと言って聞かなかった。


そんなイクトールからの人手がほしいという要請に、オークの女たちは色めきだった。イクトールにとって異母姉妹にあたる者たちは、こぞって自分が手伝いに行くと言って聞かなかった。


最終的には実の妹であるウラグが行くということで、流血沙汰は避けられたほどだ。


「ふーん。そういう事情があったのか……」


イクトールはぐらぐらと茹だってきた鍋を見て、また調子を見ながら火かき棒で火力を調節する。ガスコンロに懐かしさを感じる一時(ひととき)である。


「……まあ実妹だからといって枷になる道理はないんですがね……」


イクトールが腕を組んで「うーん」と唸っている間に、カルアを一瞥しながら、ウラグはイクトールにだけ聞こえないような声でぼそっと呟いた。それを聞いたカルアはぎょっとした顔になった。


「だ、ダメですわイクトール!イクトールの妹にこんな重労働させられませんわ!」


カルアが慌ててイクトールのがっちり組まれた腕を持って揺さぶる。ウラグの発言はほとんど宣戦布告のようなものだった。


「いや、でも手伝ってくれるのはウラグしかいないみたいだし、そりゃ妹に手伝わせるのは忍びないけど、それを言い出したらカルアに手伝わせてるのも忍びないし……」


「というかイクトールはどうして私に料理を手伝わせてくれませんの!?」


「だって美味しい料理食べたいし……」


「れ、練習すれば上手くなりますもの!その練習をさせてくださいと言っているのですわ!」


「でも塩がもったいないし……」


イクトールが顔くらいの大きさの壷からスプーンでそっと出して鍋に入れたのは、貴重な塩だった。この蓋付きの壷の塩だけで20マルクス金貨になる。


旧フルール子爵領は海に面しておらず、また岩塩坑もない。海は広大なベーティエ公爵領を挟んで向こう側にあるのだ。故にここで塩を入手しようとすればかなりの税金がかかる。塩は専売制であり、その流通を安定させるために王家か公爵家でないかぎり生産が禁じられている。


ベーティエ公爵の生産する塩をここまで持ち込むのに、ベーティエ領での塩税、出国税、そしてフルール領での塩税、入国税がかかる。故に塩は高級品にならざるをえない。


生活に欠かせない塩であるのだが、エルフ大征伐という戦時下である今、塩税が数倍になっているのだ。それにこの機会を逃すまいと二重税を課しているのは何かの冗談だと思いたい。


「はあ……。せっかく女神アンジェリカ様が領主になりましたのですから、塩税免除!なんてのをやればよろしいのに……」


カルアが恨めしそうに塩壷を眺めた。さらに、イクトールの腰に下げてある革袋には拳大の岩塩が入っていて、狩りで疲れたときには時折舐めて疲労回復を図っていたりする。ちなみにその岩塩はメギハード公爵領産のもので、1つにつき、マルクス金貨で50枚もする。


生活に根付いた塩であるが、安定して供給するために専売制をとるのは仕方のないことだった。買い占めによる価格高騰を生活必需品で行えば、人が死ぬのだから。


逆に言えばそれをさらに上回る量の供給。塩が余りに余って牛や馬たちにまで与えられるほどになれば、専売制というシステムも、それによる税収という財源も崩れ去ることになる。


税金を課すということは、国という経済システムを安定させるために必要不可欠なことであった。


だが、生活必需品を人質にして税を取り立てるというシステムは、イクトールの心に何となくシコリを残していた。

久しぶりのイクトールくんとオークの愉快な仲間たち。

オークしかいねえ。

「多くのオーク」って定番のオークジョークですよね?

……定番?

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