人間と女神と、オーク
女神アンジェリカの超高度術式が発動した時、各地の強力な魔術師たちは背筋に悪寒が走るのを感じた。圧倒的な力を持つ魔人が誕生した時に感じる悪寒に近いながらも、どこか慈愛に満ちた温かい何かを感じ取った彼らは、妙な胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
黒く焦げた地面に落ちた真紅の宝玉は、不可視の魔剣を突き立てられて、生えかけのドラゴンの頭と手足を残していた。それがどろりと溶けるように形を崩し、そこから視界すべてを覆い尽くすような火炎が吹き出した。炎が辺り一面を焼き尽すかのようだった。
そのにいたすべての者が視界を炎で塗りつぶされた。次に目を開けた時には、イクトールの手にしていた魔剣は消え去っていた。同時に、ロザリーの魔術で半死半生になっていた騎士たちも消え去っていた。
その場に立っていたのは、イクトール、ロザリー、カルア、マリアンヌ、フリードリヒ、そして一面に広がる紅蓮の炎の中心に、異物として全裸の幼女が佇んでいた。
「な、何が起きたんだ……!?」
『女神アンジェリカ様!こ、これはいったい……!?』
口では疑問を発しつつも、何度もイクトールは念話を試みる。しかし、女神アンジェリカは一向に応答しない。だが、イクトールはある既視感を覚えていた。目の前の火の海。その中心に佇む幼女。
彼女の姿は幻想的なまでに美しく、燃え盛る風に黄金の糸の髪を煌めかせて靡かせる。ぷにぷにしているのにすらりとした身体には一切の纏うものがなく、惜しげもなく柔肌を灼熱地獄に晒しているが、それで焼け焦げるようなことは一切ない。
幼いながらも、芸術の神が七日七晩で造り上げたような美しい腕を、彼女が振るう。それだけで火の海は、ただの焼けた大地へと姿を戻す。
「ま、まさか、女神アンジェリカ様……!?」
イクトールが驚愕に目を開く。
「な、何?何が起こったのイクトール?」
ロザリーがビクビクとイクトールの巨体の影に隠れながら尋ねた。そして、すぐにロザリーは気付いた。一度回路が繋がった魔術資質を持つ彼女は、焼け野原にぽつんと佇む全裸の幼女が女神アンジェリカそのものであることを確信した。
この世への顕現を果たした女神アンジェリカは、両手を広げて風を全身に感じた。消し飛ばした騎士団員の新鮮な魂を喰らい尽くし、彼らに施されたありとあらゆる術式を破壊して吸収した彼女は、物質界の感覚を身体中に感じていた。
「ああ、現世は何度来てもいいものですね。そう思いませんか?」
アンジェリカは傍らで口をぽかんと開けて、現実を認められないでいるマリアンヌに向けて言った。マリアンヌは目の前で起きたことが信じられなかった。
「あら?私のあまりの美しさに声も出ないようですね」
そう言い放ったアンジェリカは、一本一本が光を乱反射してきらきらと輝く金の髪をかきあげた。澄んだ金の瞳がマリアンヌの瞳を見据える。その目線は鋭利な刃物だ。マリアンヌの心の中にするりと滑り込んで、心臓を極寒の殺意で貫く。
死ぬ。
マリアンヌはそう確信した。いや、そうであってほしいと願った。彼女と目を合わせているくらいなら死んだ方がマシだという思いが彼女を支配した。
反射的に腰の剣に手が伸びる。剣が抜き放たれて、アンジェリカの首を狙う。
マリアンヌもただエクスリーガの力に頼っていたわけではない。それとは別に剣を学び、自己錬磨を欠かしたことはなかった。
鋭い一撃がアンジェリカの首に襲い掛かり、その皮膚に触れる。だが、剣が肌に触れた部分が溶けた。首に触れるか触れないかの空間で、剣はその質量と物質的結合力を喪失したように溶けたのだった。
ぶん、と振られた剣はそのままの勢いで振り切られたが、刀身は中頃で跡形もなく消えている。
「炎龍エクスリーガの力も悪くないですね。あと6匹……。まあ年老いて魂の摩耗した生贄による力ではこの程度ですね。いえ、魔剣が使えるうちにガリオテかズーオールあたりを狙っておいた方が効率的だったかもしれませんが……、まあ、贅沢は言い始めればキリがありませんね」
アンジェリカはマリアンヌの剣を全く意識のうちに入れずに、1人で考え事に取り組む。片方の肘を手で包み、もう一方の手を顎に当てて考える仕草は、芸術品と相違なかった。
たしかに斬ったはずの子供の首は、そこに鎮座している。それどころかマリアンヌの存在にすら気がついていない様子でもある。
不意に、アンジェリカは手を軽く振るった。
「っ!?」
マリアンヌが咄嗟に半分の長さになった剣を立てて防御をとるが、攻撃は一向にやってこなかった。アンジェリカは虚空から長い白い布のようなものを引きずり出し、それを幼い体に巻きつけただけだった。まるでトーガのようだ。
「あ、アンジェリカ様……ですか?」
ほとんど確信に近い感覚を抱きながら、イクトールは目の前の美幼女に声をかけた。この傲岸不遜な態度といい、振るまいといい、物理法則を無視した意味不明の魔術といい、逆にアンジェリカでないという説明のほうが無理だった。
「当たり前でしょう、我が使徒イクトール」
その口から発せられた声は、間違いなく女神アンジェリカのものだった。虚空の底から響くハープの音色のような、柔らかく、出所不明の空気の震えだ。
「しかし、あなたから見れば私はこのように写っていたのですね。忌々しいジェフヴァの子供の姿として降臨することになろうとは、全く嘆かわしい限りです。オークの子は嫌いですか?」
「いえ、そんなわけでは……」
「まったく、誤差修正でいくらか手間をとってしまいましたよ。まあ、結果的にジェフヴァの子の魔力軽減の恩恵は受けているようですから、好都合といえば好都合でしょうか。加護がない点ではどうせ変わりませんし」
ふぁさっ、と柔らかな金髪を手で払って、幼女アンジェリカは唇をへの字に曲げて言った。不機嫌そうに見えるが、どこかご機嫌のようにも見える。
「さて、マリアンヌ」
ここでアンジェリカがマリアンヌに向き合った。マリアンヌは呆然とアンジェリカを見るばかりだ。
もう魔力を練ることができない状態で、剣の効かない相手に、何をすればいいのか。マリアンヌはその答えを持っていなかった。
すっ、とアンジェリカが人差し指でマリアンヌの胸の真ん中を指差した。
「大地より捏ねて生まれし土塊を、束ねて縛る縄をこの手に。鍵を掛け、数多の願いを閉じ込めて、歌う小鳥の羽を散らさず」
朗々と歌い上げるようなアンジェリカの言葉が紡がれ、それがぼんやりとした鬼火の糸になって宙を漂った。蜘蛛の糸のような紫色の炎が、アンジェリカの指先からゆっくりと伸びて風に揺れる。
「底深き命の井戸は枯れるとも、清き灰から器は満ちる。護り手の剣を照らす篝火は、舞い散る花を赦すものなり」
その紫の炎の糸が、アンジェリカの指先から伸びて、マリアンヌへと伸びる。その怪しい揺らめきに魅入られたマリアンヌは、視線で糸の先を追うことしかできない。
「マリア!」
いつの間にか縄から抜け出したフリードリヒが、アンジェリカに飛びかかる。
だが、アンジェリカに触れる前に、イクトールによって迎撃された。すぐさま地面に叩き伏せられ、超人的な腕力で拘束される。
「こいつ、どうやって縄を……」
雁字搦めと言っていいほど、完璧に縛られていたはずのフリードリヒがどうして抜け出せたのか、イクトールは不思議に思った。だがその疑問はすぐに解けた。フリードリヒは地面の灰と同じ色の、鼠色をしたナイフを持っていた。
(なるほど、これで縄を切ったのか……)
周囲の魔力を操作できるフリードリヒにとって、灰をナイフの形に再構築することは難しいことではなかった。
だが、その能力を知らないイクトールからすれば、フリードリヒは信じられない存在だった。魔剣によって体内の魔素を根こそぎ奪われているはずなのに、魔術によってナイフを作り出したように思えたのである。
「マリア!逃げろ!それは隷属術式だ!」
「ほう、気付きましたか。でも、残念」
アンジェリカは満足そうに笑みを浮かべた。その指先から伸びる炎の糸は、マリアンヌの胸に触れた。
「遅かったですね」
触れた瞬間、それまで漂うようにゆっくりとした動きだった炎の糸が加速して、瞬く間にマリアンヌの中に吸い込まれていった。
「さて、マリアンヌ。武器を捨てなさい」
アンジェリカの言葉は優しかった。その響きは、まるで子供のイタズラを許すような母性に満ちていた。
だからこそ、マリアンヌは恐怖した。
「い、いやだ……」
口から漏れたのは、そんな駄々っ子のような言葉だった。子供が「イヤイヤ」をするように首を左右に振り、拒絶の意を示す。
その瞬間、激痛がマリアンヌの脳髄を走った。あまりの痛みに、視界が一瞬ブラックアウトする。息つく間もなく、気絶寸前まで追い込まれたマリアンヌの精神は、耐えることのない痛みによって再び覚醒まで引き上げられる。気絶と覚醒の間を振り子のように行ったり来たりを繰り返し、マリアンヌの精神は超高速で削られていく。
絹を裂くような悲鳴が山々にこだまするのを、遠い世界の出来事のように感じていたマリアンヌは、その断末魔の絶叫が自分のものだとは思いもしなかった。頭に杭を打ち込まれているような激痛が、絶え間なく襲い掛かる。
マリアンヌは、この世の絶望を詰めあわせたような絶叫を上げながら、薄汚い地面に頭を両手で抱えて擦り付けていた。マリアンヌの剣は地面に転がっていて、アンジェリカの命じた武装解除は、すでに果たされている。
マリアンヌは、口から泡を吹きながら、紅蓮の髪を振り乱し、地面に頭のてっぺんを擦り付ける。その様子は真っ赤な筆で地面に何かを描こうとしているように見えた。完全に狂人の行動だ。いや、まだスラムの影で薬物をキメているアイエルロのほうが遥かに理性的だったかもしれない。
紅蓮の髪の間から地が滲んできたところで、マリアンヌの脳を襲っていた激痛は嘘のように途絶えた。あまりに痛みが綺麗さっぱり消え去ってしまったので、マリアンヌは地面に擦り付けた頭の痛みなど、感じなくなっていた。
マリアンヌはそのまま気絶した。
「まあ、こんなものでしょう」
その様子を、まるで理科の実験の結果を見るように、アンジェリカは言い放った。リトマス試験紙が赤から青に変わったのを見たように、その声は無感動だった。
その場にいた者で、恐怖を感じなかった者は誰一人としていなかった。
「ま、マリア……」
目の前の何もかもが信じられない、といった表情で、フリードリヒは声を漏らした。糸が切れた操り人形のように、うつ伏せで倒れ込んだマリアンヌは、誰がどう見ても死んだようにしか見えなかった。
「大丈夫、死んでいませんよ。悪い子の躾に、ちょっと痛みを与えただけです」
「アンジェリカ様、いくら何でもやりすぎなのでは……」
あまりの光景に、イクトールが進言する。
「……そうですね、気絶してしまっては意味がありませんね。起きろ」
くい、とアンジェリカが手のひらを上に向け、人差し指を曲げた。まるで人差し指だけでマリアンヌを釣り上げるような仕草であった。
「か、はっ!」
肺に空気を一気に吸い込んで、マリアンヌの意識は再覚醒した。朦朧とした意識の中で、痛みに対する恐怖だけがねっとりとした空気のように纏わりついてくる。
それでも、マリアンヌは立ち上がろうとした。うつ伏せの状態から両肘をついて、上体をゆっくりと起こす。緩慢な動きだが、そこには立ち上がろうとする意思に満ちていた。
「さて、交渉です。ジェフヴァが使徒、フリードリヒ」
アンジェリカは、イクトールに捻じ伏せられているフリードリヒの顔を、芝居がかった仕草で覗き込んだ。足を折らずに腰だけ曲げて、頭の位置をフリードリヒの顔に近づける。両手を腰に当てて、艶かしく身を捩ってもみせた。
「我が軍門に下りなさぁい。これ以上は、悪いようにはしませんよ」
そしてアンジェリカは、ニチャア……と口を裂けんばかりに歪めて笑った。
邪神降誕!