オークと騎士団と女神
『うふふふ、ふふふふふふ』
女神アンジェリカの不気味な笑い声がイクトールの脳裏に響き渡る。無邪気な声にも聞こえるそれは、イクトールの感覚では蟻の巣をほじくり返して笑うような、無邪気さ故の残酷さを思わせた。
『哀れな蛮族はどちらでしょうね、我が使徒イクトール?』
『私には何のことか……』
『ふふふ、仕掛けたのはジェフヴァでしょうね。あの赤い髪の女騎士の隣、銀髪の騎士……。彼はあなたと同じ転生者ですよ』
『じ、自分以外にも転生者が!?』
イクトールは念話を飛ばしながら、驚愕に目を開いて銀髪の騎士を見た。焼け焦げて黒くなった地面に立ち、全身鎧を外套で覆った姿は高貴さを漂わせている。すっとした背筋は貴族としての教養だろうか。
『……ああ、前世のあなたはそういう性格でしたね。別に、転生者はあなただけ、という特別な存在なわけではありませんよ。思い上がらないように』
女神アンジェリカは冷酷に言い放った。
『他の神々を僭称するゴミクズどもも、何人かは連れてきているのではないですか?よく見ないとわからないように偽装されていますが……』
「あいつが……」
イクトールの目線の先に、ロザリーの大規模魔術を相殺させた騎士、フリードリヒがいた。今はロザリーの魔術による2回目の雪崩で、エクスリーガの持ち主の周囲だけが無事でいるだけだ。
「あいつ?あいつってどれ?なに?」
ロザリーが魔力を練り上げながら尋ねる。すでにもう1発さっきの魔術を放てるだけの魔力は練り上げられていた。
「あの銀髪の騎士、俺と同じ神の使徒らしい」
『イクトール、使徒ではありません。神と勝手に名乗る屑の使いっぱしりです』
「ふーん、だからあんな意味不明な魔力の使い方ができたんだ……」
ロザリーは何かに納得がいった様子であった。
十数名に減った敵を、じっと油断なく観察しながら徐々に彼らに近づいていくと、何やら言い争いが始まった。
そして銀髪の騎士、フリードリヒが組み伏せられて縛り上げられた。
その瞬間、イクトールの頭の中に女神アンジェリカの笑い声が木霊した。さっきの笑いが無邪気な笑い方なら、これは芸人のギャグがツボに入ったときの笑い方だった。
『見ました?見ましたかイクトール?あの転生者、周囲からかなり嫌われているようですね!』
女神アンジェリカはご機嫌である。
『なになに?あー、魂にはやはり偽装がかけられてますけど、周囲の事象まではさすがにプロテクトはかけられていないみたいですね。フリードリヒ・カイザル・ド・フルール、子爵、長男一人っ子。あー…、これは典型的な転生者ですね。3歳で魔術修業……、騎士団長とは幼馴染、あと幼馴染のメイド、魔術大学での先輩で現魔術大学助教授ね……。あーあ、魔術と先天的知識を悪い形でしか使ってませんね』
『どういう意味ですか?』
『あなたたちは所詮世界の異物なのですよ。それが空気を読まずに好き勝手すると、周りを腐らせる腐ったリンゴになるだけです』
女神アンジェリカはやれやれといったふうに溜息をついた。
『生まれたときから市井を知らず、世間知らずの為政者が気まぐれに改革を行い、民と土地を腐らせる……。それが前世の世界では革新的で素晴らしいものでも、そうと知らない彼らにとっては、気違いの戯れ言も同じです』
イクトールはこの世界の社会構造を思い出していた。まだオークには農耕という文化も貨幣すらもなく、人間はまだ封建制度を維持しており、奴隷市場すら存在している。そんな世界に、例えば自由市場、ナショナリズム、奴隷解放を急激に導入しようとすればどうなるだろうか。間違いなく世界は混乱するだろう。
なぜなら、その制度がイクトールたち転生者から見て遅れているとしても、その制度によって生活している人たちがいて、その制度によって治安が保たれているのである。時代を行き過ぎた制度や科学や文明は、毒にしかならないだろう。
『イクトールはその点、ちゃんと初めの街で恥をかいて以来は控えているのに、この子は一度も痛い目に合わなかったのでしょうか?』
女神アンジェリカが言ったのは、ベーティエの街でダークエルフの商人ナーキスから信用云々と言われた件だろう、とイクトールはあたりをつけた。
確かにアレ以来、イクトールは意図的に前世の知識を利用しようとするのをやめていた。前世での常識がこの世界での常識にあたるとは限らないのだ。
嫌な思い出をほじくり返されてイクトールがブルーな気持ちになっているところで、一人の騎士が叫んだ。
「聞かれよ!そなたは歴戦のオークと見受けられるが、どうか!」
2人は警戒して足を止めた。いくら一方的に魔術を使えるからといっても、数の上では負けている。警戒するに越したことはない。
「我ら騎士団を相手に1人でよくぞ戦い、そして打ち破った!見事というほかあるまい!」
その騎士はイクトールを称えて叫びながら、フリードリヒをぐいと引っ張った。その姿はさっきまでの凛々しい騎士の姿ではなく、哀れな虜囚にしか見えない。
「この方は我らが騎士団の副団長だ!此度の戦の責任をとるべく、この者の身柄をお渡ししたい。この者はフリードリヒ・カイザル・ド・フルール!フルール子爵家の当主にして、50アルパンの領主である!この者の身柄で、手打ちとしようではないか!」
『……どういうことですか?』
イクトールは「てめえら全員ブチ殺す以外は受け入れられねえ相談だな……」と思いながらも、まず女神アンジェリカの意見を仰いだ。
『無視してかまいません。アホな相手が勝手に自滅してくれているだけです。イクトール、あなたは今から私の言うとおりに動きなさい。あのエクスリーガを奪いますよ』
炎龍宝玉エクスリーガを奪う。
女神アンジェリカからイクトールに伝えられた作戦は、究極にわかりやすく言えばそういう内容だった。
しかし女神アンジェリカの説明にはかなりの解説が付随し、結局10分以上、彼女はイクトールの脳内で喋り続けた。それまでエクスリーガ騎士団からは、「2人で幸福を受け入れるかどうかの相談をしているのだろう」と推理されたので、時間には多少余裕があったのが幸いした。
魔物と動物の違いは、高濃度魔素結晶体の有無である。高い純度の魔素を帯びた生物は高濃度魔素結晶体が体内で精製されて魔物となる。また、理論上は、生きたまま魔物から高濃度魔素結晶体を抜き出すことができれば、魔物を普通の生物に戻すことができるとされているが、技術的な問題で成功したことはない。
七宝具は強大なドラゴンの高濃度魔素結晶体に、強力な封印を施したものだ。
女神アンジェリカは正確に「七宝具とは高純度魔素結晶構造体に魔素循環型封印術式及び魂魄変換型魔力抽出術式を施したものである」と告げていたが、イクトールにとってはちんぷんかんぷんだった。
要するにエクスリーガは元々強大なドラゴンで、今の紅蓮のハルバードの姿に封印されているということだった。つまりはその封印を魔剣で壊してしまおうというわけだ。
だがエクスリーガで魔剣と競り合えたということは、一筋縄では破壊できないということである。
その理由も「魔素循環型封印術式が魔剣の分離抽出型魔力結合切断術式を妨げており、また自己防御修復術式が魔素自動変換型魔力抽出術式から直結されていて、術式の破壊に至らない」と女神アンジェリカが説明したのだが、イクトールは女神アンジェリカは得意分野になると饒舌になるタイプだなと思うしかできなかった。
『アホにもわかるように説明すると、魔剣の攻撃力とエクスリーガの防御力が同等だから、相殺してるときじゃないと封印術式を破壊できない。ということです。わかりましたか?我が使徒アホトール』
酷い言われようである。ウーパールーパーみたいな名前だ。
だがイクトールには対案がないので、とりあえずはそれに従うしか選択肢がない。
「ロザリー、あいつらを捕縛することってできるか?」
「殺すなら簡単だけど……」
全く予想していない物騒なことを隣のエルフが言い出したので、イクトールは普通にびっくりした。顔は美人だが目を話せば口がぽかんと開いている、ポヤンとした雰囲気のロザリーからは、まったく想像できない言葉だった。
『殺しても構いませんが、なるべく捕獲したいところです。落とし穴と麻酔玉を使いましょう』
『アンジェリカ様ってたまにそういうこと言いますよね』
そういうときは大抵機嫌がいいときである。女神アンジェリカが機嫌がいいときは何か嫌なことがあるものだ。イクトールは経験則から悪寒を感じ取っていた。
「とりあえず逃げられないようにすればいいんだよね?……大地の精霊よ、今こそ我が声に応え敵を飲み込め!」
詠唱が完了して、マリアンヌとフリードリヒを除く騎士たちそれぞれの足元の砂が隆起して、奇っ怪な化物の顔をいくつも形作る。
交渉待ちかと思えば、いきなり魔術攻撃を受けた彼らにとってはたまったものではない。一方はほとんど無尽蔵に思えるほどの魔力で魔術を使うことができ、もう一方は魔素の一片も残っていないのだ。
馬が驚いて後ろ足で立ち上がろうとしたところで、そのまま騎士も馬も砂の化物が飲み込んだ。硬いものが壊れるような音……具体的には骨の折れるような音が聞こえたが、それから砂は形を失って崩れ落ち、気絶した馬と騎士たちが地面に倒れているだけだった。
マリアンヌはその光景を無感動な目で見ていた。思考が現実に追いついていない、胡乱な目だった。
フリードリヒも同じようなものであった。裏切られたことが信じられないのか、自分の行動を省みているのか。どちらにせよ、フリードリヒは仲間のことなど目に入っていないようで、焼け焦げた黒と灰の地面を焦点のあっていない目で見ていた。
「ふう、疲れた……」
仕事をやり遂げたロザリーは手の甲で額を拭った。一応殺してはいないようで、意識の残っている騎士は呻き声を漏らしている。
美人なのにとんでもない戦闘力に、イクトールはただただ恐怖するしかなかった。
『我が使徒イクトール。魔剣をエクスリーガに当てているうちに、そこの売女に純粋魔素射出術式を使わせて、あの竜の睾丸を破壊しなさい』
「ロザリー、あとは俺に合わせてあの赤い武器を壊すってできるか?えーと、純粋魔素射出術式ってやつ?」
「それくらい使えるわ。馬鹿にしないでくれる?」
2人で耳打ちをして攻撃を整えると、我に返ったのか、身に染みついた反射なのか、マリアンヌとフリードリヒが身構えた。フリードリヒは縛り上げられたままなので、特に意味はないように見えた。それに彼からは覇気が消え去っていた。あれだけ自分のしてきたことが否定されれば、自業自得だとしても誰だって意気消沈する。イクトールは彼を少し不憫に思った。
「私を殺すというのか……!」
マリアンヌがエクスリーガを構える。すでに彼我の距離は10mもなく、炎を纏ったエクスリーガなら必中の距離だった。だがそれはイクトールにも言え、この距離なら魔剣は間違いなくエクスリーガの魔力を吸い尽くせるし、フリードリヒの魔術も妨害できる。
『いいえ、殺しません。殺してほしくても殺してあげません。あなたには利用価値があるのですから……』
女神アンジェリカの声を聞いて、イクトールはぶらんと下げていた魔剣を握る腕を高速で振る。オークの膂力で振るわれた腕が風を切って、不可視の魔術破壊の刃がエクスリーガに纏わり付く。
それに合わせてロザリーが瞬時に純粋魔素を飛ばす。揺らめく陽炎が実体化したような何かが飛んでいき、エクスリーガへと吸い込まれた。
響いたのは不気味な音だった。
エクスリーガから響いたようでも、直接鼓膜を震わせるようでもある音は、ガラスを割った音に似ていた。
エクスリーガの赤い装飾が砕け散り、本体である鮮血よりも紅い宝玉がぼとりと地面に落ちる。
「え?」
マリアンヌが、現実を理解できずに硬直する。
『魔剣を刺せ!イクトール!』
女神アンジェリカの言葉が響いたときには、すでに宝玉から赤い何かが生え始めているところだった。慌ててイクトールが魔剣をエクスリーガ本体に突き刺すと、中途半端に生えた赤い何かは、そのまま成長を止められた。
深紅の球体からは、トカゲの頭と手足が生えている。
「やれやれ。ようやく封印から解き放たれたと思ったのだがな。これでは生殺しではないか」
宝玉から生えていたトカゲの頭。その先端にある口が開かれ、ブツブツと文句を呟いた。
『さて、炎龍エクスリーガ。そろそろその無駄に長い命に終止符を打ちましょう』
女神アンジェリカの声がイクトールの脳裏に響いて、宝玉エクスリーガが燃え上がった。それに反応できたのはイクトールとロザリーで、マリアンヌとフリードリヒは呆然とするばかりだ。彼らは周囲の景色が目に入っていないようで、ただ呆然と彼らの力の象徴であったエクスリーガの破片を見つめるだけだった。
魔剣をエクスリーガに刺しているのに、燃え上がる炎は一向に収まらない。それどころか炎はどんどん勢いを増して膨れ上がっていく。
『意識送受信術式正常作動を確認中……、完了、術式正常作動中、事象固定式正常、次元融合術式の誤差修正、擬似生命創造術式起動、修正術式常時作動へ変更、肉体形成術式を制限解除して再構築、魂魄変換型魔力抽出術式を分離抽出型魔力結合切断術式へ接続、感覚受容器官形成管理術式を魔素循環術式に直結、物質分解術式から再構成術式まで固定、概念術式で次元空間構成、本体との適合率を許容範囲内まで修正……、失敗、修正……、失敗、修正……失敗、修正……成功』
イクトールの脳裏に響く女神アンジェリカの声は早口で、まるでコンピューター上に表示される文字を読み上げていくかのようだった。
そしてその断片から、イクトールは女神アンジェリカがとんでもないことをしようとしていることを理解した。
『下界顕現術式、起動』