転生者の内政
魔剣はエクスリーガの刀身に突き刺さった。正確にはその付け根にある真紅の宝玉に突き刺さっていた。不可視の刀身が、エクスリーガの刀身と鍔迫り合っているようだった。
宝玉から発せられる魔力が、生み出される瞬間から虚空の裂け目に消えていく。虚無の空間の先にある玉座にその無限の魔力を純粋魔素に換えて届けていく。
エクスリーガに突き刺さった魔剣は、イクトールが所持して使い始めてから、初めてその刃を止めた。何かに突き刺さり、引き抜こうとしても抵抗感がある。掃除機が何かを吸い込んで詰まったような感触にも思えた。
「うぉっ!?これ、どうなってんだ?」
思わず独り言がイクトールの口から漏れる。こんな現象は初めてだった。今までは何の抵抗もなく、ただ包丁で絹ごし豆腐を斬るような、まったくの無抵抗だったのだから、これは驚くべき現象だった。
魔剣は次から次へとエクスリーガから発せられる魔力を吸い続けるが、それには底が見えなかった。不可視の刃がエクスリーガに突き刺さったせいか、騎士たちの持つ燃えるハルバードは霧散した。
突然丸腰になった騎士たちは慌てて腰の剣を抜くが、騎乗したままで剣は短過ぎて使えない。先の突撃した者たちの例もあり、全員が馬から降りる。まだ彼らの魔導全身鎧は機能を有している。
しかし、供給されていた魔力が突然途切れてただの金属鎧と化したのは装備している本人たちが一番理解していた。軽量化と防御力強化の魔術に費やされる魔力量は、エクスリーガの補助なしではまかないきれなかった。
「マリア!」
思わずフリードリヒは敬語や敬称を忘れて、恋人の愛称を叫んだ。苦々しい顔をしている恋人は、必死に不可視の刃からエクスリーガを抜こうと両手で引っ張っているが、腕力が足りないようでその成果は現れない。いや、腕力は関係なかった。魔術の因果とも呼べる繋がりが、2つのアーティファクトを結びつけていた。
フリードリヒ自らが造り上げた最高級の魔導鎧を装備し、力という力が強化されているにも関わらず、不可視の刃はエクスリーガを捕らえて離さない。魔力制御の能力で周囲の魔力を探ってみると、まるで不可視の刃が布の端を吸い込んだ掃除機のようにエクスリーガに張り付いていたのが見えた。
宝具エクスリーガの、いや全7つの宝具の能力は無限魔力精製である。プールしておける魔力は限られているが、エクスリーガは常に魔力を精製して持ち主に与える。
その膨大な魔力を使うことでマリアンヌは具現の魔術と武装の魔術によって、騎士団全員に燃え盛るハルバードを与え、魔導鎧に常に魔力を供給している。言ってみればエクスリーガは発電所で、騎士団は繋がれた電化製品だ。
エクスリーガが機能停止するということは、発電所が落ちたということだ。もはや騎士団の戦闘能力は激減したといっていい。
それを理解してか、ロザリーが魔力を練り上げる。
「凍てつく波動よ、我が眼前の敵を飲み込む波濤となりて顕現せよ!」
フリードリヒからすれば、いや人間からしてもエルフからしてもふざけた魔素量だ。以前、マリアンヌたちが帝国の討伐要請で戦ったレッサードラゴンを遥かに上回る魔素量だ。
(空を飛んできたときは、自分と似たような能力で飛んでいるのか、そういう固有能力持ちかと思ったが、体内にこれだけの魔素を有しているエルフなんて見たことないぞ……!)
「くそっ!」
フリードリヒは素早く魔力制御によって周囲の魔力を支配下に置く。周囲には宝具エクスリーガによって放たれた魔術による魔力の残滓が漂っていた。その大量の魔力を自らの術式へと流し込む。ほんの僅かにフリードリヒの魔術は間に合った。
怒涛のごとく押し寄せてきたのは、まさに雪崩だった。高さ3メートルはあるだろう雪崩はフリードリヒの火炎魔術によって防がれた。雪崩と同じように火炎が山の斜面を、ほんの僅かに残った木々を焼きながら登っていった。ぶつかり合った雪崩と火炎は相殺されて消滅した。
魔力によって生み出された氷は溶けても水にはならない。氷になるという特性を与えられて魔素から魔力に変化すると、魔力は氷にしか変化せず、氷から変化した場合魔素へと還元される。フリードリヒが魔法大学時代に書いた固有魔力特性の1つだ。
「嘘!?今の相殺されちゃうの!?」
ロザリーが驚愕に目をまんまるにして悲鳴に近い声を上げる。ロザリーの知る限り最も強い魔術に、今まで込めたことのない量の魔力を注ぎ込んだ戦略級魔術だったのだ。それが、相殺された。相手の魔素残量は多かったが、自分の最高最強の魔術が相殺されるとロザリーは思ってもみなかった。
対して、フリードリヒの方は冷静に彼我の戦力差を推し量って顔を真っ青にしていた。マリアンヌも、騎士団全員も、顔を青くしていた。フリードリヒは間違いなくエクスリーガ騎士団最強の魔導騎士だ。だが、それが相殺という結果しか導き出せなかった。いつもなら相手の魔術ごと飲み込んで押し返したはずなのに、ただ相殺するに終わったのだ。
(ふざけんな。こっちはエクスリーガから撒き散らされた周囲の魔力を使ってんだぞ。どんだけの量になると思ってんだ……)
その魔力もフリードリヒの魔術でほとんど消滅した。ただでさえ魔剣によって周囲の魔力がどんどん失われていくのだ。もうフリードリヒが使える魔力は周囲に残っていない。あるのは体内にある魔素だけだ。こちらの量は十分にあるが、そういってもさっきの大規模魔術1回分あるかといったところだ。
フリードリヒの魔素保有量は多い。人間族の中では遙かに多く、エルフと比較しても圧倒的に多い。これも3歳のころから魔術修業を繰り返した成果だが、それをさらに上回る魔素保有量のエルフ、ロザリー。彼女は明らかに常軌を逸した量の魔素を体内に宿している。
元々エルフ、リョスアルヴは種族として魔素保有量が多い種族だ。自然に近い存在であるためと言われているが、その真偽は定かではない。だがロザリーの魔素保有量は、それでも説明がつかないほどのものだ。
マリアンヌは未だにエクスリーガを不可視の刃から解放できていない。オークは柄を持ってマリアンヌに向けているが、解放してやろうという意思は見られない。
「総員、魔術攻撃だ!何でもいい!あのオークを撃て!」
フリードリヒの判断は早く、正確だった。魔剣の刃は1本しかない。エクスリーガを自由にするには魔剣を別の方向に向けさせなければならない。
地に降りた騎士たちが、思い思いに詠唱して魔術を放つ。彼らの馬が、あちこちへと逃げていく。
「くっ……!」
フリードリヒの思惑通り、イクトールは魔剣を横薙ぎに振るう。
だが予想が当たったのはここまでだった。
魔剣はその場にいる者すべての魔力だけでなく、体内の魔素すらも奪い去ったのだ。もちろんフリードリヒの体内の魔素もすべて無に帰していた。
「嘘だろ……!?」
他にも魔導鎧の術式が全て破損している。たった一薙ぎで、ありとあらゆる魔法的要素がその場から失われていた。不可視にして伸縮自在の刃は、魔術を中心とした武力にとって最悪の敵だった。
「凍てつく波動よ、我が眼前の敵を飲み込む波濤となりて顕現せよ!」
続いて再びロザリーが魔力を練り上げる。一撃目より魔力が込められていないのか、その総量は少ないが、それでも明らかに異常な魔素量だ。
「ふざけんな!」
一方が魔術を使えて、一方が魔術を使えない戦い。それは間違いなくただの虐殺だ。そんな戦いをさっきまで自分たちがしていたという事を忘れ、騎士たちは口々に罵詈雑言を吐いて、雪崩に飲み込まれていった。
飲み込まれなかったのはマリアンヌとフリードリヒ、そしてその近くにいた騎士数名だけだった。マリアンヌが魔剣から解放されたエクスリーガを振って、灼熱の火焔の障壁を生成して、雪崩から身を守ったのだ。
だが、抵抗はここまでだった。咄嗟の魔術展開ではそれが限界だった。
「マリアンヌ様……、いや、マリア。降伏しよう」
フリードリヒはゆっくりと近付いてくるイクトールとロザリーを見ていた。たった2人で戦局をひっくり返したバケモノが、悠々とこちらに歩み寄ってくる様は、死刑囚に執行人が首切り斧を抱えて近寄ってくるのと意味は同じだった。
それならば一縷の望みに賭けて、降伏して助命嘆願した方が、バケモノ2人相手にささやかな抵抗を試みるより、まだマシなギャンブルだ。
「な、何を言うんだフリードリヒ!」
「これはチャンスかもしれない……。謎のオーク、圧倒的なエルフ、不自然な依頼、未知の宝具……。これは明らかにヤバいものが絡んでいる」
「し、しかし、こちらは何百人もの部下が殺されているのだぞ!」
「こっちだって何十人も殺した。数の問題じゃない」
「副団長……、いや、フリードリヒ!」
冷酷に言い放つフリードリヒに、周りの騎士たちは苛立ちを覚えずにはいられなかった。
「な、何をする!?」
フリードリヒは後ろから複数名の騎士にのしかかられ、地面に叩き伏せられた。地面はエクスリーガによって焼き払われ、雑草一本もなく、灰と砂で覆われていた。フリードリヒは舞い上がった灰が気管に入って咽せた。
「貴様はオーク相手に交渉ができると思っているのか!?」
「マリアンヌ様と旧知の仲だからといって我ら伝統あるエクスリーガ騎士団に勝手に上がり込んできやがって!」
「そうだそうだ!大人しく宮廷魔導師として城に籠もっていればいいものを、生意気に皇帝陛下と交渉だと!」
「つけあがるのも大概にしろ!マリアンヌ様の手前我慢していたが、今の発言で堪忍袋の緒が切れた!」
騎士たちが口々に罵詈雑言を並べ立てる。フリードリヒは強力な魔術師に首輪を嵌めたかった帝国の思惑を利用しただけだ。帝国としては宮廷魔導師でもエクスリーガ騎士団でも、目の届くところにフリードリヒを置ければどちらでもよかったのだから。
だが、それはフリードリヒの視点から見ればの話であり、実際に副団長に就くまでの過程に、大きな軋轢が生まれていたのだった。
「お、お前たち、フリードにそんな感情を……」
「言っておきますがマリアンヌ様。我々が仕えてきた相手はエクスリーガの使い手であり、マリアンヌ様個人ではありません。当然、貴族の礼儀も騎士の心も持たないような魔術師崩れに仕えているのではありません」
「降伏するというのなら、貴様1人だけがするべきだ!」
「我々は最後まで戦う!エクスリーガ騎士団は、エクスリーガさえあればまた蘇るのだからな!」
彼らの言うことは、巨視的には正解だった。彼らエクスリーガ騎士団は七天騎士の配下として存在する騎士団であり、通常の爵位としての騎士や奉公としての騎士とは若干異なる。本当の騎士の爵位持ちもエクスリーガ騎士団だけでなく、他の七天騎士団にも在籍しているが、基本的には自由契約によって、彼らは七天騎士へと付き従っている。
その団結力の中枢であるのはもちろん七天騎士であり、その七天騎士を七天騎士たらしめているのは七宝具だった。その七宝具は使い手が死ぬ度にまた新たな使い手を選定し、またその度に七天騎士団は新たな使い手に従うのだ。
つまり、七天騎士団員が従っているのは使い手ではなく、七宝具なのだ。その使い手……マリアンヌに対して忠誠を誓っているわけでも、またその恋人……フリードリヒに忠誠を誓っているわけでもない。
「やめろ!お前たち、フリードリヒを放せ!」
マリアンヌが下馬するが、その目は油断なくイクトールとロザリーを見据えている。敵である2人の動向が気になり、騎士たちを力で止めることはできない。
「ご理解ください、マリアンヌ・オールヌス・ド・トラン・ド・エクスリーガ様」
騎士の1人がマリアンヌのフルネームを言った。その声は淡白で、そして事務的であった。彼らにとってマリアンヌはエクスリーガの付属物であり、その人格が及ぼす影響はむしろ不愉快ですらあったのだ。
「我々はエクスリーガ騎士団です。マリアンヌ騎士団でも、フリードリヒ騎士団でもありません。ある程度はエクスリーガに選ばれたあなたの意志を尊重しますが、もう我慢の限界です」
会話に応じる彼以外の騎士たちが、鮮やかな手際でフリードリヒを縛り上げる。
「フルール卿を副団長にするという無茶な要求も我々は飲みました。我々にとって、もう敗北や降参という無茶な要求は受け入れがたいのです」
「ふ、フリードリヒの副団長就任はお前たちも喜んでくれたのではなかったのか…!?」
「マリアンヌ様の決定に従うのが当然であれば、就任を祝福するのもあくまでも建て前です。むしろなぜ本心から彼の副団長就任を喜んでいたとお思いで?」
「彼の魔術師としての成績は確かに素晴らしいものがあるやもしれません。ですがそれがどうして副団長就任ということに繋がりましょう?魔法大学教授としての地位、もしくは宮廷魔導師としての地位がエクスリーガ騎士団副団長という地位と同等だとでも?」
フリードリヒが入団の前に皇帝陛下と行った交渉はマリアンヌも聞いていた。皇帝陛下と交渉など、さすがフリードリヒと思ったものだった。
だが、現実は違った。
「アヴァリオン卿とマーリン卿の顔に泥を塗ってまで、このエクスリーガ騎士団を手に入れたかったか、反逆者!」
騎士の1人が縛り上げたフリードリヒに唾を吐いた。
宮廷魔導師の所属母体である帝国魔術研究会。魔法大学の所属母体である魔導省。この2つはすこぶる仲が悪い。宮廷魔導師は帝国の地位を確固としたものにするために日夜秘密研究に明け暮れており、市民の生活の質の向上という魔法大学の意志とははっきりと対立している。
この2つの団体から声をかけられたフリードリヒは、それを蹴った。それだけでも名前に泥を塗られた思いなのに、重ねて頭上を通り越して皇帝陛下に直接交渉に至ったという事態は、研究会にとっても魔導省にとっても腹立たしいことこの上なかった。
なぜなら研究会会長のリチャード・ミカエル・ド・アヴァリオン公爵と、魔導省大臣兼魔法大学学長の29代目マーリンことフランシスコ・ビスマス・ド・マーリン・ド・サンマルティア公爵では、話にならないと公言したのと、意味は同じであるからだ。
公爵2人の顔に泥を塗ったフリードリヒは、皇帝に条件を突き付けて、エクスリーガ騎士団副団長の座を手に入れて私物化した。
国内の貴族たちの目に、フリードリヒの行動はそれ以外に見えることはなかった。
泥を塗られたアヴァリオン公爵とサンマルティア公爵が共通の敵を得たことで、宮廷魔導師と魔法大学生の仲が改善されたのは両者にとってある種の収穫であった。むしろ共通の敵を作ることで結束を高めようとする動きすらあった。その動きに便乗して、両派の魔術師が酒の席を囲むときに、「反逆者フリードリヒに乾杯!」と杯を掲げるようになったのは、もはや笑い話だった。
「貴様のせいでどれだけの団員が苦しんだと思っているんだ!恥を知れ!」
騎士の1人が、フリードリヒを立たせた。そのまま彼の後ろ手に縛った腕を持って、ぐいぐいと押して、イクトールとロザリーへと進んでいく。その光景にマリアンヌは何もできない。
彼という爆弾を抱きかかえたエクスリーガ騎士団はたまったものではなかった。風当たりは当然強くなった。
皇帝が視察にくる七天騎士団の大規模演習では、エクスリーガ騎士団は後方に回され、参加人数も絞られた。生意気な口を聞かれた皇帝が、機嫌を損ねなかったわけはないのだ。面と向かって生意気だとフリードリヒに言わなかったのはマナーであり、皇帝として保つべき威厳であった。
本来ならエクスリーガ騎士団は参加すら認められなかったのだが、陸軍省大臣の「七天騎士団の演習で六騎士団の参加は示しがつかない」という進言でエクスリーガ騎士団は参加を認められた背景もあったし、その進言すらもエクスリーガ騎士団員たちの賄賂と根回しの結果だ。
さらに対エルフ大征伐ではエクスリーガ騎士団だけが待機を命じられ、面白くもない国境警備に騎士団員を駆り出され、長い旅路になる出張費も自腹を切らされていた。その上、俸給は目減りし、馬の世話係を解雇して、自分で馬を世話する騎士も出た。今着ているフルプレートアーマーを騎士たちが互いに着せ合うといった無様な光景も、エクスリーガ騎士団だけだ。他の騎士団員は当然鎧を着せる部下を持っている。
「そんな……、だって、お前たちがそんな生活を送っていたなんて……」
マリアンヌはその光景を見て不憫に思うところはあったが、フリードリヒの言う「倹約による結果的な戦力強化」を信じ込んでいた。恋は盲目という意味をマリアンヌは知っていたが、自分がそういう状況にあるとは夢にも思わなかった。
フリードリヒは常々こう言っていた。
「騎士たちだけでなく、貴族たちは無駄に金を使いすぎる。そういう金を生活に困っている平民たちに対して使うことで、全体的な生活の質を改善することに繋がり、ひいては国力強化になるんだ」
だが現実問題として、それは理想論に過ぎなかった。それどころか理想論にすらなっていなかったのかもしれない。
フリードリヒが倹約と称して行った数々の節約は、彼の領民から仕事を奪い、生活を困窮させた。若くして転生し、貴族の生活しか知らなかったフリードリヒには、自分たちに高級衣服を売ることで生計を立てていた領民のことなど勘定に入っていなかったのだ。金を持つ者が経済活動を動かしているのに、それをしなくなった途端に、フリードリヒの領地であるフルール領は衰退を始めた。
「た、食べるのに困ったわけではないのだろう!?フリードが作ったジャガイモというもので、食糧事情は改善されたのだろう!?」
「食糧事情は改善されましたよ。……食糧事情はね」
騎士がフリードリヒの腕を握る手が強まり、彼は痛みに呻き声を漏らした。
農地改革として行われた新たな作物……ジャガイモの導入は、今まで麦を扱っていた業者を困惑させた。その上、領主であるフリードリヒ主導で行われたそれは、中間マージン、つまり以前の業者による価格管理と自然な富の再分配を離れて動き出した。
結果、フリードリヒ自身はジャガイモによって儲かったが、末端価格の合計が半分以下に下がったことで、市場で動いた額は半分以下であった。これはその市場に関わっていた者の半分以上が儲けに加われなかったことを意味する。
単純に計算して、フルール領周辺の麦市場に関わる半数の人間が破産したのだ。
「私は聞きました。彼の領地にあった麦ギルドが潰れたと」
まだ馬に乗ったままの騎士が、マリアンヌの側に馬を寄せながら言った。
すぐにでもマリアンヌを抱え上げて逃亡できる構えで、重荷になる全身鎧はすでに脱ぎ捨てている。着々と撤退準備は整っている。
「いえ正しくは潰されたのです。彼によって、ね」
期待した収入が得られなかった彼らは、返済予定をクリアできずに銀行に身包み剥がされ、今は船底でオール漕ぎか、もしくは夜逃げして表の世界に出てこれなくなった。身分を偽って行商人へとなっているかもしれなかった。
フリードリヒのいう農地改革は確かに食料を生み出したが、同時に特定市場における急激な価格下落とそれによる混乱と被害を生み出した。通常であれば、そういった農地改革や食糧事情の改善は緩やかな市場変遷を経て行われるために、混乱は情報を軽んじた間抜けな商人に限られる。
だがフリードリヒが行ったのは、彼に従う者以外への大規模な経済攻撃だ。フリードリヒにその意志がなかったとしても、小麦の納入ままならずジャガイモに顧客を奪われた平民のパン屋は、確かに閉店したのだ。
当然、麦流通を確保していた麦ギルドは、フルール領主であるフリードリヒに抗議をした。
……
質素であるが綺麗なフルール子爵の事務室で、麦ギルドの交渉役は冷や汗を垂らしながらフリードリヒに向かい合っていた。
「なぜ小麦の生産を止めて、そのような訳の分からない芋という作物を生産するのですか」
その問いに、フリードリヒは憤慨して、しかし外面は冷静に答えた。
「ジャガイモは作物として優秀で、生産面積にして麦の収穫量に対して3倍だ。この価値がわからないのか?」
「ですが、突然に麦の供給が絶たれては、我々も生活に困ります……!」
「だからこのジャガイモを取り扱えばいいだろう?今までの3倍の量になるジャガイモを、……そうだな、これまでの麦の取引額の半分まで引き下げて行おう」
譲歩しているようで、まったく傲慢な提案だった。価格は半分に下げるが量は3倍。つまり今までの1.5倍の金を払って、買い手の決まっていない市場未開拓の品物を大量に買えと言っているのだ。交渉役は自分の血の気が引くのを感じた。
「そのような金額……、とても用意できるものではありませんし、すでに小麦の納入を待っている者もおりますゆえ……」
やれやれ、といった風に鼻息を吹き出す領主に、麦ギルドの交渉役は辛抱強く抗議した。
「お前たちが不当に売却額を吊り上げていることはわかっているのだ。それで蓄えたもので買えばいいだろう?」
領主が自慢げに話したことで、交渉役はめまいを覚えた。
(領主は……、こいつは、我々を殺すつもりだ……!)
抗議しようとして立ち上がり、しかし言葉は出なかった。それを見てフリードリヒは、自分が図星を言い当てたと満足した。
確かに資金は貯めてあるが、これは安全にギルドを運営するための資金だ。銀行から期限を早めて請求されることもあるし、急な取引が舞い込んでくることもある。そういった不測事態のための資金だ。
「どうした?知られていないとでも思ったか?そういう悪事はいずれ露呈するものだ。諦めて真っ当な仕事をするべきだよ」
「わ、我々は真っ当に働いております!その結果得た利益は当然我々に帰依するものであって……」
「もういい!言い訳は聞きたくない……」
そう言ってフリードリヒは目を手で覆い、ふかふかの椅子に身を委ねて天を仰ぎ見た。その様子を彼の横のメイドが心配そうに駆け寄って水を進める。
「フリードリヒ様、大丈夫ですか?お気を確かに……」
「ありがとう、エティル。大丈夫だよ」
若いメイドだった。交渉役の目には彼の抱える愛娼にしか見えなかった。
エティルの母はフルール家に代々使えるメイドで、フリードリヒの世話係であった。年の頃の近いエティルは、フリードリヒのいわゆる幼馴染で、そしてエティルにとってフリードリヒは憧れの人であった。
心の中では「メイドである私とフリードリヒ様が結ばれる訳には……」と思っているが、それを万人が心の秘密を暴いた上で、そうと受け取る理由はどこにもない。
交渉役の目には、アヴァリオン公爵、サンマルティア公爵の2人の顔に泥を塗り、皇帝をも恐れずエクスリーガ騎士団を私物化し、そして今度は麦ギルドを締め上げてさらなる利益を追求して我が儘を通す、史上最悪の領主にしか映らなかった。
フリードリヒの言う不当な利益というのはギルド運営に必要な経費で、銀行ギルドへの利子であり頭金であり、そして担保である。故にこれは動かしてはならない資金だ。それを運用して、信用も実績もないジャガイモという詳細不明な食物を買えと言うのだ。
目の前に試食として出された料理があるが、これをどうしろというのか、交渉役には理解できなかった。
目の前にあるのは、茹でた芋にバターを乗せたもの。潰して他の野菜に混ぜたもの。揚げて肉と一緒に炒めたもの。味を付けて肉と一緒に煮込んだもの。
確かに味は悪くない。だがこれが大衆食堂で売られ、そして安定的に売り上げが伸びる保証もなければ、そのレシピが普及するかは別問題だし、そもそも芋の値段が大幅に下落すればそっちの市場すら危うい。
それに材料費の下落と、レシピの普及によってこれを庶民が作れるようになれば……つまりこの料理と既存の料理の値段に開きができてしまえば……いずれ客は需要供給曲線に沿っての価格遷移で食堂を潰すだろう。
いくら飯の値段が安くなっても、生きる人々と胃袋の容積は変わらないのだ。ならば安いものが売れるようになれば、料理を提供する宿屋や食堂や酒屋の収入が減るのは当然の帰結だ。
目の前で、清楚な魅力を持つ若いメイドから、笑顔と水を貰って微笑む若い領主は、交渉役にとって悪魔にしか見えなかった。失意を胸に、交渉役はギルドに帰るしかなく、彼は帰路の馬車の中で延々とどうやってギルド長に説明するべきか悩むこととなった。
結果、フルール男爵の領地にあった1つの麦ギルドが姿を消した。それはフリードリヒの8代前から続く、堅実な麦商人たちから成るギルドだった。そこからの混乱は、語るまでもない。
……
「少々私の家の事業とも関わりがあったのですがね。残念でした。フルール領の開拓時からずっと懇意にしていたとかで、今は私の兄の推薦で、規模は小さくなったものの、ベーティエ公爵の下で働いていますよ」
残念そうに首を振る騎士は、マリアンヌに手を伸ばした。彼女がその手を取った瞬間、彼は馬を全速力で走らせて、マリアンヌを逃がすだろう。
後ろに控えた数名の軽装になった騎士たちは予備だ。馬が疲れ切ったときの交代役や、敵の追撃があれば肉の壁になる役だ。
「何度も蜂起という話は持ち上がったそうですが、せいぜいが酒の席だったそうですよ」
横暴な領主への武装蜂起も、相手が宮廷魔導師に推薦されるほどの大規模魔術の使い手で、さらにエクスリーガ騎士団副団長ともなれば計画すらされなかった。
そしてフルール領には浮浪者が蔓延した。だがそれでも彼らは飢えに困ることはなかった。
フリードリヒの魔術による作業効率化で農民は仕事を失い、農地改革で商人は姿を消し、そして売れ残った芋だけが大量にあった。フリードリヒはそれを無職となった彼らに振る舞ったが、どう見てもマッチポンプにすらなっていない酷い光景だった。職を奪ったのがフリードリヒなら、彼らに食を与えるのもフリードリヒなのだ。
そしてフリードリヒは、食わせるからには兵役に就けと要求した。その要求は今度こそ明確に皇帝の怒りを買った。
「すでに皇帝陛下直属の軍が動き出しています。あと数日後にはフルール領は皇帝直轄領となっているでしょう。結果論ですが、この作戦も陽動にすぎなかったのですよ」
「まあ、まさか誰もエクスリーガ騎士団の精鋭500人が全滅するとは思ってもみませんでしたがね。国境警備にほとんどが割かれていて無傷なのは皮肉なものです……」
2つの公爵家と皇帝への無礼。
騎士団の私物化。
市場への大規模介入と混乱の誘発。
大量の浮浪者の意図的な発生。
急激な軍事力の強化。
すべての要素が、フリードリヒの反乱を匂わせたが、証拠はない。幾度も暗殺を企てられ、それは幾度も阻止された。
今回の奴隷商館襲撃事件の討伐も、このようなフリードリヒの状況と、エクスリーガ騎士団とあらゆる財政の逼迫、その打破を目的としたものに他ならなかった。
依頼者である奴隷商人はフリードリヒの野心をあてにして、またエクスリーガ騎士団の財政逼迫を弱味につけ込んだ。断れる要素はなかったし、むしろこれを好機ととらえた。
フリードリヒを売って、エクスリーガ騎士団の地位を取り戻す。
マリアンヌが抗議しようとも、反抗の意志を見せようとも関係ない。必要なのはエクスリーガの使い手であり、マリアンヌ個人ではない。使い物にならないのなら、殺して新しい使い手が選定されるのを待てばいいのだ。
報せを受けた騎士団幹部たちは、すぐさま宮廷と連絡を取って事に臨んだ。フリードリヒを破滅さえさせれば、ある程度の状況は好転する。そう読んだのだ。
「さあ、マリアンヌ様」
準備は完全に整ったようだった。騎士たちは全身鎧を脱ぎ捨てて、弓を手にしている。逃げても追ってくる敵に射掛ける構えだ。相手が空を飛ぶなら、それに対応した武器を選ぶまでだ。
「聞かれよ!そなたは歴戦のオークと見受けられるが、どうか!」
慎重に近付いていたイクトールとロザリーが足を止めた。話を聞く気はあるらしいとわかり、騎士たちはまず安堵した。
「我ら騎士団を相手に1人でよくぞ戦い、そして打ち破った!見事というほかあるまい!」
相手を称えて叫びながら、騎士はフリードリヒをぐいと引っ張った。
「この方は我らが騎士団の副団長だ!此度の戦の責任をとるべく、この者の身柄をお渡ししたい。この者はフリードリヒ・カイザル・ド・フルール!フルール子爵家の当主にして、50アルパンの領主である!この者の身柄で、手打ちとしようではないか!」
騎士の言う意味は、子爵身分の男を捕虜として差し出すから、身の代金交渉はそちらでやれ。ということだった。