オークと帰郷
ある晴れた日のことだった。
その日はイクトールが集落を出て行って2月を経とうとしていたときであった。
カルアは去っていった想い人(想いオーク)に後ろ髪をひかれながら日々を過ごしていた。半分血の繋がった異母兄弟であるのだが、イケメン(オーク基準)で知能も高く紳士的なイクトールに、カルアは心を奪われていた。
彼が離れていったあとでも、いや、むしろ離れていったからこそ、心の中で彼を求める気持ちが高まっていた。
日々の作業、……と言っても父ブルナーガの寵愛を受けている、正妻ともいうべき母クルーカの娘であるため、そして身体が弱いため、作業量は他の兄弟姉妹に比べて遥かに少ないものだったが……、その少ない日々の作業すら気もそぞろだった。
集落を囲むように建てられた柵の近く。イクトールが去っていった方向の集落の入口で、カルアは縄を編んでいた。
はあ、と溜息をついて空を見上げた彼女の表情は、恋する乙女のものだった。カルアは豊満な身体つきをしているものの、オークの美的感覚からは少しズレる位置に立っている。
淡い緑色の皮膚に、煌めくような金髪。労働に追われないために溜まっていく一方の脂肪は、胸に集まってきて形を成している。
オークのもつ筋肉が乳房を形良く整えていて、ツンと上を向いた乳首が薄い服の下から強めの自己主張を叫んでいる。腹部は脂肪からすると魅力のない部位らしく、あまり運動をしないカルアだが、腹部だけは脂肪の占領地になっていなかった。四肢には適度に肉がつき、扇情的な雰囲気を纏っている。
人族であれば十分心奪われる容姿でも、オークの美的感覚からは少し遠いのだった。彼らは豊満な女性を好むが、その意図するところは潤沢な食料によって蓄えられた皮下脂肪に向けられるのだ。噛み砕いて言えば、オークはデブ専であった。
そのため、カルアは「胸の脂肪が腹部に回ればいいのに」、と聞く人が聞けばもったいない!と叫びそうな願望を心の隅にこっそり置いていたのであった。その願望は、イクトールが去ってから急速に膨張を進めていった。
自分に魅力が無いから、イクトールは去っていったのではないかという考えが、ふと頭をよぎるのだ。カルアは薄い服の上から無駄に大きな双丘を撫でて、悩ましげに溜息をついた。
直後聞こえてきた呼び声を、カルアは幻聴だろうと思った。
「おーい!」
懐かしいイクトールの声だ。不可思議な知識を持ち、何かを隠しているような、そんなミステリアスな幼馴染。幼いころ、どこから仕入れたかもわからない知恵で、自分の命を救ってくれた幼馴染。
カルアの心を溶かす甘い声が、風に乗って届いたのは現実のことだった。
森を抜けてくるように現れた屈強なオークの姿は、2月前に去っていった想いオーク、イクトールだった。
カルアは数秒言葉を失って口をあんぐりと開け、編みかけの縄をポロリと手から落とし、つぶらな瞳を最大限開いた。酸欠状態の魚が空気を求めるようにぱくぱくと口だけを開け閉めして、帰還してきたイクトールを見ていた。
「カルア!」
なだらかな坂道を上がってきながら、名前を呼んで片手を上げて微笑むイクトールの姿を見たとき、カルアは反射的に駆け出していた。
ほんの少しも走る勢いを緩めず、カルアはイクトールにほとんど体当たりのようにぶつかった。それでも、大木の幹のように頑丈なイクトールはびくともしなかった。その大きさが、その安心感が、カルアの心を溶かす。
飛びつかれたイクトールは難なくその場に踏み止まり、両手を所在なく中空に漂わせた。ぎゅっと強く抱きしめられていることに気がついたイクトールは、カルアの小さな肩を抱きしめ返した。
「おかえりなさい……」
「……ただいま」
小さな声が交わされて、しばらく2人の男女のオークは、後ろに馬車と男キュオーンと女エルフと女オークを待たせながら抱きしめ合っていた。
*
「そうだったんだ……」
女神アンジェリカの使徒であること。彼女の声が聞こえること。その導きに従って、ベーティエの街の近くの遺跡を再起動させたこと。奴隷として囚われていたロザリーとラコを助けたこと。ベーティエの街を大混乱に陥れて逃げてきたこと。
幌付き馬車の中、藁束の上で、イクトールがほぼすべての事情をカルアに語った時、彼女の反応はそんなありきたりなものだった。
しかしその表情は普通のものではなかった。
目は恍惚の熱に浮かされていて、薄緑色の肌はほんのりと赤く上気していた。2人の距離も初めはある程度の空間があったが、次々にイクトールが真実を明かしていくうちに、食い入るように聞き込んでいくカルアは次第に距離を詰めていった。
最終的には膝と膝が触れ合うほどに近づいて、カルアはイクトールの話を聞いていた。カルアの耳には、イクトールの話は歴戦の勇者が語る武勇伝にしか聞こえなかったのである。
神に選ばれし戦士。使命を帯びた旅。囚われた同族を救う勇者。行商人や旅の吟遊詩人から聞いた物語の主人公が、カルアの目の前にいたのである。
巨乳の幼馴染に楽しそうに話すイクトールを見ていて面白くないのは、ロザリーとラコであった。イクトールの話を聞いて力強く頷くたびに、カルアの胸が揺れるのを見ていて面白かったのは、グルオンであったが。
「ぜひともその話をお父様にもしましょう!きっと力になってくださるわ!」
顔を輝かせてそう言って、カルアはイクトールの手を両手で包み込むようにした。その体勢になって、胸が左右の腕に圧迫されて強調されるようになったので、さすがにイクトールも魅惑の谷間に視線を泳がせるしかなかった。
しかしイクトールの脳の冷静な部分が、口を冷静に制御した。それがイクトールの中の、郁人の部分であったのか、オークの戦士たる部分だったのかはわからないが。
「それは不可能だろう。父上は立場ある身だ。そしてそれは、何の根拠もないことを、はいそうですかと聞き入れられる立場ではない」
これはイクトールの予想であった。イクトール自身が父と言葉を交わした回数は、片手の指で数えられるほどだった。ブルナーガは立場ある者であったし、いろいろと忙しかったのだ。
だが、その予想は的中していたとイクトールは確信した。最もブルナーガやその愛妻と会話しているであろうカルアが、いたずらを見つかった子供のような表情を浮かべたのである。
「で、でも、私が口添えすればきっと……!」
「うん。頼るようで悪いけど、それをお願いしたかったんだ。俺たちは同胞を救うために行動したんだ。それをきっと受け入れてくれるはずだ」
「任せて!すぐにお父様を説得してくるわ!」
大慌てで、と表現するに相応しい足取りで、カルアは馬車を飛び出て集落の方へ向かっていった。馬車をここに留めているままなのは、ブルナーガ集落に言い訳の余地を残すためだった。
集落に入ってしまえば、言い訳はできないだろう。同胞を匿ったと取られれば、侵略の口実になりかねない。それこそ、奴隷逃亡で発生した損失を埋めるために、この集落のオーク全員が奴隷の身に落ちてもおかしくない。
「……かわいい幼馴染じゃねえか」
グルオンが羨ましそうな目で、イクトールを見て言った。
ロザリーは無言の抗議の目線をイクトールに突き刺した。
イクトールとカルアの会話はオーク語によって交わされており、2人はどういった内容の話をしていたかを理解できなかった。
傍から見ればイクトールが故郷に置いてきた恋人に睦言を語り、恋人がうっとりした表情でその身を寄せ、そしてなにやら喜んで馬車を出て行ったようにしか見えなかったのである。
「なんであんなかわいい幼馴染がいて集落を出たりすんだよ」
「なんでも何も、異母姉妹だからな……」
そう言うと、グルオンだけでなく、その場の全員が疑問の表情を浮かべた。
「だから何だ?」
グルオンの疑問は純粋なものだった。
イクトールは知らなかったのだが、元の世界で近親間の婚姻が禁止されているのは遺伝研究が進んだ結果のものであり、こちらの世界では禁忌とされていなかったのである。田舎になればなるほど近親間婚姻は当たり前のように行われているという現実があった。実際、ラコの両親も異母兄弟であったし、ロザリーの両親は叔母と甥の関係であった。
「でも、カルアは首長の正妻の娘なんだ。将来を約束された相手もいるらしい。……どこの誰かは知らないが」
「そんなもん奪っちまえばいいんだよ!お前らオークはそういう種族だろ?」
グルオンは笑ってみせたが、その無神経な発言にラコがむっとした表情で迎撃した。
「それは偏見ですよ。……まあ当たらずとも遠からずですけど」
「どういうことだ?」
イクトールの質問に、ラコはとうとう呆れた顔をした。オークであるにもかかわらず、あまりに種族の風習についてイクトールは知らなすぎた。
一般的なオークにとって、力で何かを奪うのは正当な権利とされていた。それを弱肉強食を具現化する悪しき風習と見る若者が、また集落を離れて人間の街へ行く理由にもなるのだが。
「これが最近の若者ですか……」
「わ、若者って、俺とそんなに変わらないだろ!」
イクトールは「ゆとり」と言われたように感じて反論した。こちらの世界にゆとりも何もないのだが。
「さっきまではそんなに変わらないと思ってましたが、彼女を見てわかりました。イクトールさん、まだ成人して短いですね?」
「あ、ああ……」
オークは15歳で成人を迎える。イクトールは成人を迎えてすぐに集落を出たので、年齢は満15歳と2ヵ月にならないくらいだった。
「私は今年で23になります。あなたより8歳年上なんですよ」
「ええっ!?」
イクトールは驚いた。ラコがそんなに年上だとは思わなかったのである。というかオークのどの辺を見れば年齢が判断できるのか、あまりわかっていなかった。
オークの年齢を判断する基準は鼻の周りのシワなのだが、それを知っていてもラコの年齢を判断するのは難しかっただろう。奴隷として囚われていたが、ラコの肌は瑞々しく新緑の色を保っていたのである。
「ちょ、ちょっと待て。お前、23より年下なのか!?」
グルオンが驚いたように言った。
「え、うん。……言ってなかったっけ?」
「えーと、23と8の差だから、……23から8を引いて、……ええと、いち、にい、さん、しい……」
ロザリーが藁を1本1本床に並べだした。それは最終的に23本並んだ。
「これで23で、ここから8を引くから……、いち、にい、さん、しい、ごお……」
「ちょ、ちょっとロザリー?何をしてるんだ?」
「え?イクトールの歳を数えてるんですけど」
「…………」
イクトールは愕然とした。さらに愕然としたのは、「数えている」と言ったことに対してで、計算という言葉がロザリーの口から出てこなかったことだった。
だがまだ驚くことはあった。
「ふふん。すごいでしょう?先輩に教えてもらって1000まで数えられるようになったんです」
「う、うん……」
ロザリーが鼻を鳴らして自慢したので、イクトールは何も言えなかった。
「途中まで覚えたら、後は簡単ですよ。1000までそれぞれを覚えるのではなく、いくつかの組み合わせですから。あ、イクトールさんは1000を知ってます?100が10個集まったら1000なんですよ?」
イクトールにはロザリーの笑顔はまぶしすぎた。それと同時に義務教育という制度に感謝してもしきれないくらいに感謝した。そしてきっと掛け算は知らないのだろうと思って、不憫に思った。
嘘だろ、という驚愕の感情に支配されながら隣のグルオンを見ると、片方の眉を上げていたずらっぽく笑っただけだった。
この世界の教育水準は著しく低かった。グルオンは衛兵として最低限の計算はできるが、ロザリーは3年前に奴隷として捕らえられる以前からも、計算とは無縁の生活を送っていた。
ロザリーのいた集落のリョスアルヴたちは、厳粛な戒律の元に生活を送っていた。肉を食べず、金銭を扱わず、自然の恵みに浴しながら営む原始的な生活。
そんな中での生活は、算数と縁がないものだった。
そんな生活は、いとも簡単に火薬と機械文明を駆使する人間によって蹂躙された。数千年前まではその膨大な魔力によって他の種族の追従を許さないほどであったが、今では見る影もなかった。
そもそも生物を殺す方法は、何も火炎魔法や雷撃魔法でなくて良いのである。小指ほどの鉛弾を高速で射出するだけで、生物はいとも簡単に生命活動を停止するのである。
そのことをいくつもの集落を陥落させられて、ようやくリョスアルヴたちが気づいた時には、人間の数は膨大なまでに膨れ上がっていた。
自分たちが領土侵略を受けた理由が、ただそこにあった樹木資源のためであったことを知り、さらに圧倒的な人数と思っていた人間たちは、ただの地方領主の軍であったことを知って、愕然となった。
リョスアルヴ5000人に対して、人間の動員した兵力はその倍の10000人を数えた。マスケット兵、騎兵、槍兵、砲兵、弓兵、弩兵……。そこで初めてリョスアルヴたちは、兵種というもの、陣形というもの、火薬というもの、騎乗というものを知った。
圧倒的なまでの文明力の差は、埋めがたい戦力差を生み出した。
いくら脚力を魔法で強化して走ろうとも、隊列を組んで猛進してくる騎兵からの馬上槍からは逃れられなかった。いくら火炎弾を撃ち込んでも、強固に組まれた陣形は崩されず、逆にマスケット兵の密集三段射撃によって蜂の巣にされた。いくら強靭な魔法障壁を構築しても、降りしきる鋼鉄の砲弾、矢、投槍、投石の雨を防ぐことはできなかった。
盾の魔法を詠唱し続けていた老エルフは、急性魔素欠乏によって失神し、死が訪れる瞬間まで意識は戻らなかった。必死に火炎弾を撃ち続けた若いエルフは、槍兵の盾に阻まれ続け、紡錘陣形を組んだ突撃によって原型を留めないまでに踏み潰された。村一番の美人と謳われた女エルフは、捕らえられて高級娼館に送られた。老若男女問わず、そこに住んでいたリョスアルヴはすべて捕らえられ、奴隷になるか、物言わぬ肉の塊になるかを選ばされたのだ。
その戦いに参加した者のうち、衛兵や常備軍など、職業軍人であった人間が300人程度、傭兵が1000人を数え、残りは徴兵された農民たちであった。
迅速な破壊活動は、一瞬にしてリョスアルヴの生活の跡を踏み躙って灰燼と化さしめた。残ったのは、伐採の運命を地平線上に見下ろす巨木たちであった。
ロザリーはそんな争いの中から逃げ出した先で、包囲陣を敷いていた常備軍に捕らえられ、丁重に奴隷として売り飛ばされて国庫の助けとなっただけだった。
「ふふっ、まあ田舎者のイクトールさんにはちょっと難しかったですかね?」
彼女の放つ笑顔は、そういった過去の皿の上に載った宝石だった。そんな過去を感じさせないのは、彼女の気丈さなのか、天性のものなのか……と聞かれれば後者だが。
「いや、普通に23引く8は15だろ」
ムカついたのでその宝石に唾を吐くくらいはしたくなったイクトールであった。




