オークの企図せぬ帰途
結局のところ回収できた元奴隷は、ロザリーと、ラコと名乗ったオークの女だけだった。
ラコはどちらかというと貧相な身体つきのオークだった。
奴隷として囚われていた間に痩せ細ったわけでもなく、元々貧しい集落の出身であるためだった。
彼女の語った身の上話では、妻が3人しかいないごく小さな集落に住んでいたが、山賊に襲撃されて捕らえられたのだという。
もちろんイクトールは義憤に駆られたが、すでに済んでしまったことと、ここからだと出身地がわからないというのであったので、彼は行き場のない怒りを持て余した。
他の奴隷たちがどこに行ったのかは、混乱の中にわからずじまいに消えてしまった。
イクトールは気に病んだが、グルオンは反対に、
「気にすんなって!生きてりゃ何とかなるし、あと30分くらいは透明化の魔法の効力が続くんだろ?なら問題ねえよ!」
と御者台から気楽に言い放った。
この世界のこの時代では、そういった考え方が一般的なようで、助かったラコも同意見のようだった。
当面の行き先が定まらないので、「とりあえず一番近い街へ」とグルオンに手綱を任せると、イクトール、ロザリー、ラコの3人は幌に守られた馬車の中で、干し草を尻に敷いて座った。
「あの、イクトールさんの出身はどちらですか……?女神アンジェリカ様を信仰してらっしゃるのでしたら、ビリオリアか、それともハルドレオでしょうか?」
ラコが口にした地名のうち、ビリオリアはオーク族の大領主が住んでいる土地で、ハルドレオはオーク族のうち信仰心の強い者たちが集まって女神アンジェリカに祈りを捧げているという土地だった。
どちらもイクトールにとっては名前とどういうところかという情報を断片的に聞いたことがあるだけで、実際にどういう場所なのかは見当がつかなかった。
なぜならハルドレオが正確に女神アンジェリカに祈りを捧げている場所なのだとしたら、彼女が信仰心の少なさに困っているということの説明がつかないからだ。
1つ、その情報に矛盾をなくす解釈があるとすれば、それは祈りが歪んでしまっているということだった。
それはつまり祈りが形骸化し、信仰心と嘯いて私利私欲を貪っているという可能性だった。
もう1つ、祈りの方法が伝承していくうちに変化していき、女神アンジェリカに正しく信仰心が伝わっていかなかったというものも考えられた。
その2つはオーク社会の間でも有名で、ビリオリアに至ってはベーティエの街よりも巨大で、数百という単位のハーレムが形成された大都市である。
逆にハルドレオは高い峰の麓で質素な生活を営んでおり、規模としては小さなものである。
しかしイクトールが生まれ育ったのはそのどちらでもなかった。
貴族のイケメンに転生するというなら、そのどちらかにでも転生させてくれればよかったのに、と思わずにはいられないイクトールであった。
「いや、そのどちらでもなくて……。その、ブルナーガってオークが統治してる場所なんだけど」
「ブルナーガ……、ですか?……ごめんなさい。どちらの方でしょうか」
「ええと、ビリオリアから見てかなり西に進んだところかな。ここからだと東だけど」
「あら、ずいぶんと、その、言ってはアレですけれど、辺境の……」
「ええ、まあ……」
ずいぶんな言いようであることに、イクトールはむっとしたが、ラコの方には悪意はないようであった。
しかし、オーク社会において生まれというものは重要で、誰が誰の子供で、どこの出身であるかという点は重要視されるのであった。
それはオーク族が血筋を重要視し、ハーレムを形成するという点から自然と生じた社会的風習であった。
よって、オークたちはお互いに出身地と誰の息子・娘であるかを名乗るのが習わしであるが、オーク社会からしても田舎者であったイクトールはそれを知らなかった。
そのオークの常識を教えてもらい、イクトールは改めて自己紹介をした。
「俺はブルナーガの息子、イクトールだ」
「私はバルムンクの娘、ラコです」
イクトールにとってオークの風習は奇妙なものに思えた。
隣で奇妙な自己紹介の風景を見ていたロザリーも同様に感じていた。
「純粋に学問的な質問なんだけど、それに何の意味があるの?何がわかるの?」
ロザリーが好奇心を抑えきれずに尋ねた。
イクトールとラコの会話はオーク語で交わされていたが、逐一イクトールが翻訳してロザリーにも教えていたのであった。
「だってお互いに、その、ブルナーガとバルムンクって人を知らなかったら意味なくない?」
「そうですね」
ラコは、頭上から額へとデコを出すように分けた、豊かな金髪を揺らして頷いた。
返答は単純なもので、侮辱されたと受け取ってややこしくなることを覚悟していたロザリーは正直言って拍子抜けした。
本当に正しく翻訳しているのかとイクトールに問いただしたほどだったが、ラコ自身からそういった反感という雰囲気は感じられなかった。
ラコが説明を続ける。
「ですが、知らない名だということは、その程度の地位の方ということなのです」
「そういうものなのか」
イクトールは腕を組んで唸った。
異文化に触れる機会は前世でも恵まれなかったし、今世でもほとんどが初めて体験することばかりだった。
そもそもがイクトールの集落が酷い田舎で、陸の孤島と化していたことが原因なのであるが。
「それで、これからどこへ行くのですか?」
ラコが額に落ちかかった金髪を払いのけて言った。
「一番近い街のはずだけど。……グルオン!今、どこに向かってるんだっけ?」
イクトールは、前半をオーク語で、後半を帝国公用語で言った。
グルオンは御者台への窓になっている小さな格子戸から声だけで答えた。
「こっから南にシエーナって小さな宿場町があるんだが、……ちょっとまずそうだな」
グルオンの声色が良くなかったので、イクトールは心配になった。
「どうしたんだ?」
「街道のど真ん中で人山ができてやがる」
「……それはまずいんじゃないか」
「だろ?」
イクトールの頭をよぎったのは、すでに検問が張られているという可能性だった。
この世界の文明レベルが低いことから、イクトールは心の中で逃げ切れるのではという思いがあったが、それは計算違いであった。
この世界には魔法があり、分野によれば現代文明を凌駕するだけのポテンシャルを有していることを、イクトールは計算に入れていなかったのである。
『ふわぁ……、あふ。ん?……ああ、確かに検問が張られていますね』
眠そうにアクビをかました女神アンジェリカは、至極どうでもいいように言い放った。
「ど、どうします!?後ろからも追われてるんですよね!?」
「いや、ベーティエからの追手は来ない」
顔を真っ青にして言ったロザリーに、イクトールは力強く断言した。
「ベーティエは今混乱の最中にある。もし統制のとれた行動ができるなら、別の街まで連絡を回すことはしないはずだ。他人に貸しを作りたい人間はいない」
その洞察は当たっていた。
ベーティエの街は酷い混乱状態で、衛兵の統率すら危うく、街中が暴動と略奪の渦を巻いていた。
『はあ?何を恐れるのですか我が使徒イクトール。あなたと、宮廷魔導師クラスの売女がいるのですから、ゴミ虫どもは蹴散らしてしまえばいいのです』
女神アンジェリカは熱弁した。
さらっとアンジェリカが述べているように、ロザリーは自らが魔物へと変化するギリギリまで魔力を注がれたために、膨大な魔素をその身に保有していたのである。
『ここから売女に命じて、大規模魔法によって前方のクズどもを吹き飛ばし、混乱している隙にすべて殺し尽くしてしまいましょう。火の系統がいいですね。逃げ惑うクズに対応しているうちに、奴らは致命的な隙を見せます。そうすれば畜生程度の腕でも簡単に屠れるでしょう』
イクトールは女神アンジェリカの意見は無視して考え込んだ。
「進路変更するなら今だぞ」
グルオンが急かす。
「…………」
イクトールにとって、手がないわけではなかった。
1つは女神アンジェリカの言うとおり、強行突破を図ること。
おそらく方向から目的地を割り出されて包囲されるだろう。
だが、それによって救われる者たちがいる。
はぐれた元奴隷たちだ。
彼らはこの地において地理的知識に欠け、また路銀すら持っていないのである。
それを考慮すれば、彼らの集合場所となるか、またイクトールたちが追手の気を惹いているうちに別の場所へ逃げるか、そのどちらかとして彼らの力になるだろう。
もう1つの手は、その元奴隷たちへの救いになり、且つ穏健な手段であった。
それは方向転換によって、ブルナーガの集落に戻ることである。
奴隷たちの旗印となることもあるが、それ以前に地理的優位性をもって追手に対処できることが大きかった。
それに、イクトールに純粋に望郷の念がないわけではなかった。
ラコを見ていると、自然と幼馴染であるカルアのことを思い出すのであった。
それに、父であるブルナーガは、イクトールが集落を出て行くことを止めなかったが、本心ではどう思っていたのだろうか。
イクトールより大きな兄弟たちはみんな集落の外へと旅立って行ってしまったことに、父は何を感じたのだろうか。
そういった止めどない考えが、イクトールの胸を駆け巡った。
『ふんふん……。なるほど、いい考えですね。それでいきましょう』
珍しく女神アンジェリカは穏健な手段に賛成した。
それがイクトールにとって怖かったが、今更違うとも言うのは露骨すぎて嫌だった。
『こちらもそのように動きます。しばらく連絡できませんが、万事上手くこなしていてくださいね。我が愛しき従順なる使徒イクトール……』
女神アンジェリカは残されたイクトールの不安を最大限掻き立てることを言い放って、イクトールからの呼びかけに応えなくなった。
女神アンジェリカの言ったことを考えながら、イクトールは決断を下した。
「……グルオン、東に進路変更だ」




