オーク一行の逃走
敵兵の配置を、イクトールは完全とまではいかないものの、ほとんど正確に把握していた。
強固に囲まれていた包囲陣の1点は、先ほどの魔物化によって食い破られていた。
さらにその輪を埋めるように配置転換がなされたようであった。
イクトールが鋭い眼光で見たところ、包囲陣が全体的に薄くなっていたことと、魔物が乱した1点がほとんど陣を成していないことがわかった。
突然出てきたオークと、それを包囲する衛兵の間には、意志の強さという点において、埋め難い大きな差が生じていた。
イクトールの方はここを生きて抜け出すという、生に対する渇望があった。
しかし衛兵たちには突然の同僚の魔物化に加え、戦場の鬼であるオークと並ぶ恐怖があった。
そしてその恐怖を捏ねて像にしたような敵が、目の前に躍り出てきたのだった。
片手で悠々と重厚なウォーハンマーを握り締め、もう片方には両手用ロングソードを携え、明確な殺意を眼光に宿らせて包囲する衛兵を一舐めする。
その目は、腹を空かせた人食い虎が久しぶりに縄張りを通りがかった哀れな旅人を見るものとほとんど違いはなかった。
マスケット銃と魔銃と弓矢を構え、一部包囲陣が薄れているとはいえほぼ完璧な布陣と、それを構成する大人数。
その圧倒的優位性を理性が理解していても、それを凌駕する本能の恐怖が、衛兵たちの足を一歩退かせた。
「怯むな!撃て!撃てええ!」
衛兵長が絶叫に近い命令を下した。
イクトールを囲む衛兵たちはケツに電気棒を突っ込まれたかのように全身を硬直させ、歪んだ姿勢で第一射をそれぞれが放った。
飛翔した鉛弾と矢がイクトールの付近に着弾し、魔弾は一発も発射されなかった。
魔銃を構えて引き金を引いた衛兵たちは、皆一様に違和感と悪寒が下腹部で急激に膨らんだのを感じた。
慌てて魔銃を確認して、いち早く異変に気付いたのは皮肉にも魔銃を持たない衛兵の中の1人だった。
魔素可視化技術は誰もが持つ技術ではなく、先天的なものが大きい。
その先天的素質を持ったものが槍を構えて包囲陣を支える役割であったのは、まさに運命の嫌がらせであっただろう。
またさらに述べれば、魔素可視化は不安定で、精神状態が安定し、さらに高度に集中した状態でなければ発動することはできない。
なぜか魔弾を発射できず、目の前に異種族の凶戦士を見る衛兵に、落ち着いて魔銃を観察し、その魔法術式が完全に破壊されて跡形もなくなっていることを可視化させることは不可能に近かった。
狙いが逸れたにしろ、一発も命中しなかったのはおかしいと考えた衛兵たちは、マスケット銃の噴き上げる火薬の煙から薄っすらと一部始終を見ただけであった。
イクトールはロングソードを軽々と片手剣のように振り回し、空中で弾丸と矢を叩き落としていたのである。
それを見ることのできなかったものは、ある意味幸運であったかもしれない。
矢は急な命令に力が入っていなかったと弁解もできるが、鉛弾を空中で迎撃できる理由はどこにも見当たらなかった。
イクトールは単純に、その卓越した視力、反応速度、膂力を最大限利用し、また幅の広いロングソードを用いることでそれを可能にしただけであった。
ライフリングがない、ただ飛ぶだけの鉛弾に、鋼鉄のロングソードが撃ち抜けるはずがなかったのだ。
「我らが女神アンジェリカ様に栄光あれ!」
そう叫んで、イクトールはロングソードを放った。
振りかぶる際、背中の筋肉が異常なまでに膨れ上がり、シャツが耐え切れずに繊維が幾本か断裂したが、それに気が付いたのはイクトールだけであった。
血に飢えた凶戦士の放った鋼鉄の長剣は、風切音という唸り声を上げて縦方向に高速回転し、進行方向の衛兵たちをその迫力によって押し退けた。
陣形を維持せよとの厳命は、明確な殺意を持って飛翔する鋼鉄の刃に阻害された。
避けた衛兵たちが空けた道は、オークの放った狂気を衛兵長まで届ける役割を果たした。
とっさに火が着いた使命感が爆発して、衛兵長と凶刃との間に割って入ったキュオーンすらも貫いて、鋼鉄のロングソードは2人を串刺しにした。
それでも勢いは殺されず、回転力と突進力がそのまま2人を巻き込んでロングソードは暴れまわった。
荒れ狂う凶刃がもたらした破壊の風は、衛兵長と側近のキュオーンの身体を右肩から左腰にかけてほぼ切断し、あらぬ方向に跳んで隣に立っていた衛兵の1人をさらに傷付けた。
衛兵長の身につけたチェーンメイルは、持ち主を防御するという役目をまったくといっていいほど果たさなかった。
唯一果たしたのは完全に切断されることを防いだくらいで、その仕事がもたらした結果は命を繋ぎ止めるには焼け石に水であった。
唖然として見る衛兵たちの隙を着いて、イクトールはほとんどの衛兵に気付かれないうちに、包囲網の一端と接触していた。
ウォーハンマーが暴風を伴って振るわれ、攻撃を受けた衛兵はあまりに巨大な武器の攻撃をモロに受けた。
周囲の衛兵はさらに我が目を疑った。
ある衛兵は自問した。
ウォーハンマーは剣であったか、と。
さらに別の衛兵はこう自問した。
ウォーハンマーを用いてどのように人間を切断するのか、と。
宙を舞う上半身を無視して、進路を邪魔する下半身を蹴り飛ばし、イクトールは次の獲物に襲い掛かる。
接近戦を予想していなかった衛兵たちは無力だった。
その上、乱戦状態に持ち込んで、味方とゼロ距離で格闘戦を行うイクトールに照準を合わせるのは至難の業だった。
荒れ狂う旋風となったイクトールがウォーハンマーを一薙ぎするたびに、鮮血がこれでもかと飛び散って石畳を潤す。
頭を殴られた衛兵は頭蓋を失って、下顎から覗く歯を見せながら、ふらふらと覚束ない足取りで死の歩行を右、左、と歩いた。
その度にポンプから真紅の血を噴出させ、数歩歩いた先で倒れて、ピクリとも動かなくなって血の池を創り出した。
腰の辺りを下から掬い上げられるように打ち込まれた衛兵は、激痛を伴う数mの空中飛行を、途切れゆく意識の途中で、下半身の枷から自由になった上半身だけで体感した。
血飛沫がルビーのネックレスを引き千切ったように舞って、陽光を反射させて死の煌めきを周囲に見せつけた。
頭蓋の頂点からまっすぐに振り下ろされた戦鎚は、防御のために掲げられた、火薬も込められていないマスケット銃を鉛筆でも折るように粉砕した。
戦鎚は、防御を果たせなかったマスケット銃の持ち主の胸辺りまで真っ二つに割き、衛兵を優しい乳白色の肋骨とファンシーなピンク色の内蔵を飾る花瓶へと変化させた。
また恐怖と混乱の最中に放たれた衛兵の矢は、逃げ惑う野次馬の側頭部に当たって即死させ、それを目撃した市民たちへさらなる恐怖を植えつけた。
司令官が戦死し、最前線は死を恐れぬ凶戦士に食い散らかされる。
数で圧倒的に優勢であったはずの衛兵隊は、完全崩壊をそう遠くないところまで感じていた。
デックアルヴの衛兵が、手にしていた剣を投げ捨て、漆黒の手のひらをイクトールに向ける。
小さく自分にだけ聞こえるような詠唱が囁かれ、突き出した手のひらに体内の魔素が集中する。
『イクトールッ!4時の方向!』
イクトールの脳裏に女神アンジェリカの指示が飛ぶ。
その指示だけで、イクトールは両手で振るっていた戦鎚を片手に持ち替え、空いた手で腰に下げた魔剣を素早く抜いて振る。
女神の使徒の命令を感知した魔剣が、不可視にして不実在の刀身を伸ばし、デックアルヴの黒い身体を刺し貫いた。
物質的な損傷はないが、それだけでデックアルヴの体内の魔素、そして組み上げていた術式が破壊される。
詠唱者は自分の中の何かが、確実に破壊された音を幻覚として聞いた。
『……各自の判断に変化してきましたね。魔法攻撃が激しく来ますよ』
女神の指示は的確で、死に物狂いで襲い掛かってくる剣や短槍を振りかざした衛兵たちの攻撃も、真後ろの死角からの遠距離魔法であろうと確実に防御できる。
武器を戦鎚で打ち払われ、ガラ空きになった腹部にオークの全力の蹴りが飛んで、衛兵がサッカーボールのように飛ぶ。
鬼神の如き乱戦状態は、混乱を創り出し、狂騒を作り上げ、混沌の渦の中に秩序と理性を跡形もなく砕いて混ぜ込んだ。
数十人単位の衛兵たちが武器を捨て、防具を脱ぎ捨てて、群衆の中に紛れ込んで逃走するのを見たグルオンは、それに便乗する形で人混みの波に潜るように隠れた。
裏口から、溢れ出る魔力を使った不可視の魔法を駆使してロザリーと元奴隷たちが逃げ出したころには、衛兵隊のうち20人近くが意識のない生肉へと変わっていた。
ロザリーは溢れ返る悲鳴と怒号の中で、数十人の元奴隷たちに透明化の魔法をかけつつ、自分の肥大化した魔力に驚きを隠せなかった。
実のところ、ロザリーが魔物と化さなかったのは単純な幸運であった。
魔素が空になった状態でイクトール経由で女神の魔力に触れたことで、許容可能魔素量が増大したのだ。
もし女神アンジェリカの魔力に触れていなければ、ロザリーは悪魔型魔物へと変化し、大規模魔法を使ってベーティエの街を今後生き物が近寄れない土地へと変えていただろう。
高度な魔法であるはずの透明化魔法を使えていることに、ロザリーは不思議に思ったが、今の自分の魔力、すなわち魔素量に不可能はないという全能感がそれと同時に湧いていた。
『どうも、畜生と奴隷たちは無事に群衆に紛れ込んだようですね』
女神アンジェリカの報告を聞いたイクトールは、またも衛兵を物言わぬ死体に変えながら、心の中で胸を撫で下ろした。
『まったく、畜生は大きな口を叩いておきながら戦闘には参加せずに……。下等生物の脳では自分で言ったことも覚えられないようですね。肉便器は肉便器で、生意気にも高度な魔法を弄しているようで……』
女神アンジェリカは歯噛みするように言った。
イクトールはそれを無視しつつ、自分も門まで逃げようと反転し、突如として殺戮をやめて逃げた。
返り血を浴びて皮膚を真紅と新緑のまだら模様に彩ったイクトールが、逃げ惑う群衆を追う形となったのは、彼の思うところではなかった。
ほとんど全員が門からベーティエの街を見捨てて逃げようとする者たちだらけだったからだ。
道すがらの露天は踏み倒され、商品はゴミと違いが判別付かないほどに破壊された。
転んだ弱者は後続の人混みが踏み潰してミンチ肉に変えた。
その混乱が頂点に達したのは、犯罪者を逃さないためという名目で頑なに閉ざされた門の付近であった。
門を守る衛兵が高圧的な態度をチラリと見せた瞬間、命の危機を肌で感じている市民たちは爆発した。
足裏にこびり付いた、脱落者の脳髄の不愉快さを払うように、衛兵を殴り、蹴り、噛み付き、ナイフで刺し殺して、大多数の人の波で押し潰した。
恐怖に背を追われた数百人の民衆に対して、武装した衛兵十数人は無力だった。
あっという間に門は民衆によって制圧され、140年前の大征伐以来全開になったことのなかった巨大な正門が、完全に開いた。
そこから圧縮された水が逃げ場を求めて溢れ返るように、民衆たちはベーティエの街の外に逃げ出した。
狂乱に身を捧げた群衆は、正門前でスラム街を形成していた弱者と貧弱な住まいを踏み潰し、なけなしの金品を強奪する。
その様子を遠巻きに見ていたのは、路地裏の店の遣いの小僧だった。
馬の手綱を持って、狂乱の気配に当てられた馬を宥めながら、いったい何事かと溢れだした民衆を不審げに見た。
彼は店の主人に言いつけられたように、馬と幌付き馬車を伴って門の外で待機していたのだった。
そこへ1人の目を血走らせた男がやってきて、小僧を殴り付けるまで、彼は喧騒をどこか遥か遠い場所のもの、対岸の火事だと思っていた。
逃げようとした民衆が、ちょうどいい馬と馬車を見逃すはずはなかったのだ。
小僧を殴り倒して手綱を奪って握った男は、御者台に登ろうとした瞬間に、足を掴まれて引きずり降ろされた。
夫婦で逃げてきたと見られる男女の、髭を蓄えた男のほうが目の血走った男を何度も踏みつけ、頭を守ろうとしていた両腕から鈍い手応えを靴の裏に感じるまで攻撃の手を緩めなかった。
女の方は手綱をとって御者台に登って馬をコントロールしようとしたが、馬の後ろ足が飛んできて頭を蹴られて即死した。
そうやって何度もいろいろな人が手綱を握り、その数が2桁に近づいたころ、ようやく辿り着いたグルオンが、鋭い爪を手綱を握っていた恰幅のいい男の腹部に刺し込んで引き抜いた。
鮮血と共に、腹の中で掴んだ内臓を引き摺り出し、強奪者からグルオンは馬と馬車を奪い返した。
それから何度も襲い掛かってくる民衆を適度に傷めつけながら、グルオンはイクトールを待った。
「待たせた!」
「遅いぞ馬鹿野郎!」
イクトールが辿り着いたとき、民衆のほとんどがグルオンに恐怖して距離をとっていたが、イクトールの姿を見た瞬間に狂騒にかられて蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ったく、お前さえとっとときてくれりゃ3人も殺すことなかったろうに……」
グルオンは血に濡れた片手剣と左腕を、虚しそうに見つめて言った。
イクトールが御者台の隣に飛び乗って、グルオンが席を詰めた。
「グルオンは馬の扱いはわかるか!?」
「ああ、大丈夫だ!」
「待ってくださーいッ!!」
グルオンが手綱を操ろうとした瞬間、後ろから悲鳴に似た声が聞こえた。
それに振り返ると、そこには物理的な意味で胸を弾ませて走るロザリーがいた。
急いでいる瞬間なのに、イクトールの目線もグルオンの目線も釘付けになった。
「ロザリー!奴隷たちは!?」
肩で息をする巨乳エルフに、イケメンオーク(オーク基準)が真剣な表情で問い詰めた。
ロザリーは膀胱が緩ませて少しでも体重を軽くして逃げようとする本能を抑え込み、毅然としてイクトールの目線を受け止めた。
「ひ、人混みの波に巻き込まれて、みんな離れ離れに……!透明化の魔法が逆に仇になってしまって……」
『使えない!売女!役立たず!死ね!』
女神アンジェリカが怒号をイクトールの聴覚に飛ばした。
『回収しますよ!……見つけた!犬畜生、9時の方向に全速力!道中のゴミは轢き殺しなさいッ!!』
「グルオン!9時の方向だ!全速力で頼む!ロザリー!後ろに乗れ!」
イクトールが指示を飛ばし、2人とも素早くそれに応じた。
興奮した馬を操るのにグルオンは四苦八苦し、馬が暴れる度に女神アンジェリカが『この犬畜生!下手くそ!それでも犬か!家畜を操るのが貴様らの仕事だろう!』とイクトールの聴覚の中で叫んでいた。
少しして、女神アンジェリカが指示したところに魔剣を突き立てると、透明化の魔法が解けたオークの女が現れた。
彼女は地獄で神を見たように感激していたのであった。