スライム、魔物、ダンジョン、命の価値
イクトールが遺跡の前に辿り着いたとき、そこには誰もいなかった。
衛兵の1人や2人は立っているだろうとイクトールは予想しており、最悪の場合は彼らを排除してでも助けに行こうという心づもりであった。
しかしそこを守っていた衛兵は早々に突入隊に見切りをつけて、街の中に戻っていたのだった。
そこに立っていようがサボっていようが、契約金は払われるのだから、楽をする方がいいに決まっているというのが、この世界のこの時代の一般的な考え方であった。
(衛兵がいないのはラッキーだったな)
イクトールは腰に下げた斧に触れながら、そう思った。
ダンジョンという閉鎖された狭い空間では、弓や弩は役に立たないと考え、今回は持ってきていなかった。
「よし、入るぞ」
イクトールはわざわざ声に出して自分を鼓舞した。
そうしなければ遺跡の放つ邪悪な雰囲気に飲まれてしまいそうだったからだ。
ダンジョンの入口には不可視化の魔法がかけられており、外から中の様子を窺うことはできなかった。
見えるのはポッカリと開いた暗闇だけだった。
意を決して、イクトールはダンジョンと化した遺跡に足を踏み入れた。
このままではグルオンが死んでしまうという強迫観念が、イクトールの背中を押した。
女神アンジェリカから情報を聞いただけなので、グルオンが本当にダンジョンの中にいるという確信は持てなかったが、イクトールはなぜかグルオンの存在をダンジョンの中に感じていた。
戦士の直感である。
一歩足を踏み入れると、そこはダンジョンの中で、完全に外の世界とは隔絶されていた。
初めて入ったときとは明らかに雰囲気が違う。
念のために持ってきたカンテラは、すでに不要だった。
遺跡内部が不可思議な明かりに満たされており、薄暗くはあったが、視界に困ることはなかった。
それに蒸し暑さもなく、快適そのものだった。
ただ1つ、イクトールは全身を覆われるような不快感を覚えた。
これは空気中の高濃度な魔素が皮膚から浸透してくるものなのだが、イクトールには原因がわからなかった。
道が明るいので、荷物になるカンテラをその場に置いて、イクトールはダンジョン化した遺跡を、深く深く進んでいった。
『気をつけてください。スライムです』
30分ほど進んでから、女神が言った。
目の前にはぐじゅぐじゅと音を立てながら、活発に動く透明な巨大水饅頭のようなものがあった。
大きさは一抱えほどもあり、表面はぬらぬらと光っていて水分を感じさせた。
その透明な水饅頭こそがスライムだった。
その中心部には赤い玉が浮いており、それを中心にプラズマボールのように赤い線が枝分かれしつつ放射状に伸びている。
ともすれば民芸品にも見えそうなモンスターだったが、ある種の嫌悪感をイクトールは受けた。
その嫌悪感はイクトールの狩人として、そして戦士としての本能から来るものだ。
スライムの中心の赤い玉はコアであり、スライムの心臓部であり、そこから放射状に伸びるものは魔素を全身に行き渡らせる魔素管であった。
イクトールは気を引き締め、一撃で両断する覚悟で、腰の斧を抜いて振り上げた。
『あ、斬撃はやめておいたほうがいいですよ』
「ええっ!?」
鋭く踏み込み、まさに斧を振り下ろした瞬間、女神が思い出したように言った。
完全に遅かった。
素っ頓狂な声をあげたときには、イクトールの振り下ろした斧はスライムの身体を叩き割っていた。
ブジュッ!と熟れ切ったブドウを踏み潰したような音が、スライムから出て、同時に赤い液体がスライムから迸った。
「うわ!」
間一髪、イクトールは半歩下がってその液体が降りかかるのを避けたが、武器である斧はそうはいかなかった。
赤い液体が触れたところからグズグズと溶けていき、斧は一瞬にして使い物にならなくなった。
『スライムは体内に高濃度の魔素を保有しています。もちろん皮膚に浴びれば危険ですので、気をつけてくださいね』
女神アンジェリカはしれっと言った。
「それを先に言え!」
『はい?』
「あ、すいません、その、言ってくださいよ……」
『私より先にあなたが聞くべきではないですか?なぜ主人である私が下僕であるあなたのご機嫌伺いのような真似をしなければいけないのですか?はい論破』
「…………」
イクトールは女神アンジェリカの性格の悪さを再び感じていた。
しかし本来神というものは人智を超えた存在であり、定命の者の命1つを弄ぶことも可能なのである。
その点を考慮すれば、彼女から見ればイクトールは地上の蟻のような存在だ。
「でも、斧でダメならどうやって倒せばいいんですか……」
『最も効率的なのは魔法を使って凍らせるか、蒸発させるかです』
その手段のどちらもイクトールは有していなかった。
そもそもオークは魔法が使えない者がほとんどである。
「手詰まりじゃないですかー!」
『それが無理なら、手袋をして放り投げなさい。スライムは動きは鈍いですが、物量をもって押し潰す戦法を取りますから、取り囲まれないように。表皮は思ったより脆いので、気をつけなさい』
スライムの感覚器官は優れておらず、表皮が極わずかに感覚を有しているだけである。
地面から伝わる振動や、表皮を撫でる風を頼りに獲物を探知して、ゆっくりと襲い掛かるだけだ。
そしてその物量をもって取り囲み、獲物が疲弊するのを待つ。
そして相手が誤ってスライムを潰し、体内の高濃度魔素を浴びるなどして行動不能に陥ったところを、じゅるじゅると溶かして捕食するのである。
イクトールはそこからさらにダンジョン化した遺跡を深く深く潜っていったが、その道中でスライムに群がられて捕食されている衛兵だった肉塊をいくつも見た。
その中に犬族はいなかった。
「まだグルオンは無事ですか!?」
『ええ。まだその魂は私のところには送られてきていませんね』
女神アンジェリカは、通販で注文した商品がまだ届いていないかのように、不満そうだった。
そんな物言いにイクトールは不満を覚えたが、頭から振り払った。
女神は生き物とは違う思考回路を持っているんだろうと、自分に言い聞かせた。
その言い聞かせる内容も女神アンジェリカには筒抜けだったが、そのことをアンジェリカはわざわざ言うことはなかった。
さらにしばらく潜って行くと、イクトールはだんだんと頭痛がするようになってきていた。
ダンジョンの奥に進めば進むほど魔素が濃くなっており、またスライムの数も多くなってきていた。
スライムへの対処は、慣れれば簡単なものだった。
弱い表皮を持つ彼らをそっと持ち上げて、表皮から消化液を分泌させないうちに、ただ遠くに放り投げればいいだけである。
地面に叩きつけられた彼らは四散し、仮死状態に陥る。
コアを破壊されなければ彼らは死ぬことはないが、身体を構成している水饅頭のようなものがなければ、動くこともままならない。
巨大なイクラのようなコアだけになった彼らは、水分と空気中の魔素を糧に体を再生するまで、仮死状態になる。
コアは野球ボールくらいで、手のひらに収まるくらいの大きさだった。
強度もそれほどではなく、潰すことは容易であるが、その場合高濃度の魔素が周囲に飛び散ることになる。
そのため、このまま再生させないようにどうしようかと考えたイクトールは、持ってきていた大きな瓶にスライムのコアを詰めて蓋をしておくことにした。
瓶にいくつものスライムのコアが詰まった様子は、イクラかゼリーの瓶詰めのようにも見えた。
投げて潰したスライムの数が30を超え、瓶も3つ目がいっぱいになったところで、微かな呻き声がイクトールの耳に入った。
「大丈夫か!」
イクトールは大きな声で呼んだ。
「ギャア!ギャア!」
しかしその返事は、吠え声であった。
猿を思わせる甲高い叫び声で、連続して吠えている。
『あっ、これはまずいですね』
女神がそう呟いた。
「何がまずいんですか?」
『どうも人間が魔物化しているようです。魔素に親和性の高い個体がいたようですね』
魔素に対して親和性が高いということは、要するに魔法使いの才能があるということである。
逆にオークは魔法使いの才能がないため、魔素に対して抵抗力があり、イクトールが長い間ダンジョンに潜っていられるのも、女神アンジェリカの使徒であるという以前に種族特性という差もあった。
「魔物化……ってことは元々は人間なのか!?」
『まあ、そういうことですね。でも魔物は魔物です。殺してその魂を私に献上しなさい』
「こ、殺すってどうやって……」
女神は簡単に言うが、イクトールは今や丸腰である。
斧はスライムの魔素でダメになってしまったし、道中の衛兵の遺体が持っていた剣や槍も、同じくスライムの魔素でダメになってしまっていた。
唯一無事なのはイクトールが懐に持っている小刀だが、獲物を解体する用のもので、小さな包丁ほどの刃渡りしかない。
武器にはならないだろう。
ところが、女神アンジェリカの返答はイクトールの想像を絶するものだった。
『あなたは誇り高きオークの戦士でしょう!素手で下等な魔物ぐらい殺せないで私の使徒が務まりますか!!』
「嘘でしょ……」
そんな言葉が思わずイクトールの口を突いて出てきた。
非常識極まりない提案をした女神アンジェリカに呼応するように、邪悪な気配が壁の角からこちらを伺っていた。
半身を角から出していたのは、ずたずたになった衛兵の紋章が描かれたチェーンメイルを装備した、ハゲた猿のような生き物だった。
剥き出しになった歯は不揃いで、生理的嫌悪感を想起させ、ぎょろりとひん剥かれた目は血走っている。
不気味につるつるした表皮を持つそれは、一見すると人間のようだったが、その腕は異様に長かった。
だらんと伸びた腕は地面に擦れるほどで、腰が曲げられているのを差し引いても十二分に長い。
壁から半分だけ出た血走った目が、イクトールを捉えていた。
気持ち悪い、という感情をイクトールは抑えられなかった。
『さあその汚らわしい下等生物を蹴散らしなさいッ!我が使徒イクトールッ!』
「ギャアアアアアアア!!!!」
「うわああああああああ!!」
猿の魔物が吠えた。
イクトールも叫んだ。
魔物は不揃いの酷い歯並びを剥き出しにし、鋭い爪を立てて襲い掛かってくる。
しかし鍛え上げられたオークの戦士としての反射神経と運動神経は、爪と牙の3つの同時攻撃を難なく躱し、カウンターパンチを猿の魔物の下顎に叩き込んだ。
人間族が魔物化したところで、大木を一撃で破壊するオークの鉄拳を受けて無事ではいられない。
下顎を砕かれ、脳を揺さぶられた猿の魔物は、イクトールに覆い被さるように倒れ込んだ。
「はあっ、はあっ、はあっ!」
荒く喘ぐように呼吸をしながら、イクトールは猿の魔物を自分の上からどけた。
落ち着いて観察してみると、うっすらと人間のような面影があるような気もする。
魔物はビクンビクンと痙攣していて、まだ息があるようだった。
『さあ、とどめを刺しなさい!』
「え、でも……」
『早くしなさい。魔物は回復力が高く、すぐにでも起き上がって襲いかかってきますよ』
女神アンジェリカがそういうので、イクトールは魔物の首に小刀を当てた。
そのままズブリと刺して、横に掻き切る。
大量の血が吹き出して、ダンジョンの石の床に血が広がっていくのと同時に、魔物から生きている気配が失われていくのを感じた。
それは、狩りのときによく感じた、生き物が死ぬ気配だった。
『よくやりましたイクトール。それでこそ私の使徒として相応しいです』
女神アンジェリカは魔物化した人間の魂が、イクトールの魂に施した術式で魔力に変換されて、自らに取り込まれるのを感じた。
「俺、人を殺したんですね……」
『はい?』
「だって、この人は元々人間で……」
『だから何ですか?殺さなきゃあなたが殺されていたんですよ。それに理性の無い生物を殺すのに一々感傷に浸らないでください。あなたは羽虫を殺すのに罪悪感を覚えますか?哺乳類だからですか?元人間だからですか?同じ1つの命に価値の差はありません。はい論破』
女神アンジェリカの反論は痛烈だった。
それに答えを出そうとして、イクトールは考えたが、上手い反論は出てこなかった。
イクトールはただ血に濡れた小刀を持って、立っているだけしかできなかった。
『ほら、突っ立ってないで早く移動してください。血の匂いに誘われて同じような魔物が集まってきますよ』
女神アンジェリカの言うとおり、イクトールにもいくつかの気配がこちらに近づいてきているのが感じられた。
1対1なら勝てるかもしれなかったが、不要なリスクを追う必要もないし、なるべくなら体力は温存していたかったので、女神アンジェリカの言うとおりにイクトールはその場から逃げ出した。
『あ、でも保有している魔力量は魔物の方が上なので、できるだけ積極的に殺してくださいね』
女神アンジェリカはどこまでいっても女神アンジェリカだった。
イクトールは溜息で返事した。




