幕間2
『よく食べますねえ。よく食べる子は好きですよぉ。うんうん』
朝から、女神アンジェリカはごきげんだった。
まだ痛む頭に手を当てながら、イクトールは宿屋の1階で朝食を食べていた。
今日の朝食も食べ損なった晩飯の分を含むので、かなり豪勢なものだった。
宿屋の料理長の人間族の男性は、この大食らいのオークのために朝から重労働を強いられていた。
イクトールのテーブルには七面鳥の丸焼き、ピラフ、シチュー、ミートパイ、サラダが並んでいたが、それは20分前のことで、今はもう空の皿とグラスと、ミートパイが数切れ残っているだけだった。
その数切れのためにエールのおかわりを頼むか頼むまいか悩んでいる、そんな頃だった。
「おい、聞いたか!遺跡がダンジョン化したらしいぜ!」
カウンター席で朝からエールを煽っていた人間族の男が、興奮した様子で受付を務める宿屋の主人に言った。
イクトールは内心、興味を持っていた。
イクトールが犯した殺人は、街の住人の話題にすら上がらず、衛兵の間で淡々と適当に処理され、不良同士の抗争ということで早々に捜査は打ち切られていた。
そういう経緯もあって、イクトールが行動した結果が他人の口から語られることなど、前世も含めて今までになかったことだ。
興味を惹かれないわけがない。
「何でも衛兵隊12人が先行部隊として潜入したらしいんだけど、時間になっても1人も帰ってこなかったんだと!」
「へえ」
宿屋の主人は興味がなさそうだったが、アルコールの回っている人間族の男はなおも話を続けた。
「そんでよ、36人にして三倍にした第2次部隊が今日の朝入ってったらしいんだが……」
男はここでもったいぶって溜めた。
「俺の予想じゃこれも壊滅するだろうなぁ」
イクトールは女神アンジェリカが朝から妙に機嫌がよく、頻繁に自分に語りかけてくる理由がわかった。
女神アンジェリカは40体を越える定命の者の魂を食らってご満悦だったのだ。
今の女神アンジェリカの力は全盛期に遥かに及ばないものの、魔素不足によって感じていた苦しさが軽くなって、非常に上機嫌だった。
『さあ、これで当面の魔素の問題は大丈夫でしょう。帝国から宮廷魔導師を中心にした魔法部隊が来るとしてもあと2週間はあるでしょうし、そのころにはスライムも十分対抗出来るだけの数が揃うでしょう』
『なあ、アンジェリカ』
イクトールは残りのミートパイを口に入れて、心で念じた。
瞬間、イクトールの全身に痺れるような痛みが走った。
どこかを刺されたとか、攻撃されたとかではなく、全身を満遍なく余すところ無く電気で熱せられたような痛みだった。
その痛みが走ったのは一瞬だけで、今はもう幻だったかのように消えている。
『女神アンジェリカ様、です』
女神アンジェリカの使う、「天罰」という神だけが使える術式だった。
指定した相手に指定した分の苦痛を与える広域制圧魔法であり、予めイクトールの魂に刻んでおいた魔法の1つだった。
先日まではそれを起動する魔力すら節約していたのだが、今となってはケチる必要がなくなったので、女神は無駄遣いをしていた。
そういった無駄遣いが魔素不足を引き起こした原因の1つではあるのだが、女神アンジェリカの存在そのものの性質がそういうふうにできているので、変えようもなかった。
『女神、アンジェリカ、様』
『なんでしょう、我が使徒イクトール』
女神アンジェリカは何事もなかったかのように、落ち着き払って言った。
『その、気になることが1つありまして……』
『ああ、あの犬のことですか?』
犬のこと、と女神アンジェリカは言い切った。
イクトールが心配していたのはキュオーンのグルオンのことだった。
彼は衛兵であり、その衛兵が遺跡に入っていったとなれば、少なからずグルオンが遺跡への潜入任務を遂行する可能性は十分に考えられた。
『あの犬はまだ死んでおりません』
しかしイクトールはアンジェリカの言い方に引っかかりを感じた。
”まだ”とはどういうことなのだろう。
『もちろん、言葉通り”まだ”という意味ですよ。彼はまだ遺跡の中で抵抗を続けています。それに、まあ、そこそこの魔素耐性を持っているようですね。忌々しい獣ですが、そこそこには優秀なようです』
イクトールは女神アンジェリカが何も言い終わらないうちに宿屋を大慌てで出て行った。
『なんですか?あの犬に愛着でもあるのですか?ダメですよ、異種姦は』
女神アンジェリカがぶつくさと言うのを聞きながら、イクトールは全速力でベーティエの街を全力疾走した。
『まあ、あなたは正義感というか、そういう執着心が強いみたいですからね。私は何も言いませんが、何でも救うことは不可能なのですよ』
「そっ、それでもっ!助けたいんだっ!」
『はぁ』
アンジェリカは溜息を吐いた。
『好きにしてください。死なないでくださいね。肉体再生の魔術は酷く疲れますので』