遺跡探索
「ここが遺跡か……」
イクトールは遺跡に来ていた。
「ベーティエ遺跡」と街の名前をそのまま付けられた遺跡は、ベーティエの城壁の外にあった。
海が見える場所で、潮風が海から吹いてきている。
その塩害のせいか草はまばらにしか生えていない。
そんな荒れ地とも言える場所にぽっかりと口を開けて、遺跡は鎮座していた。
遺跡は立方体の入り口を持っていて、雨よけと考えられる石の粗末な屋根を海側に伸ばしている。
頑丈そうな柱は装飾がされており、人のような化け物のような形をした動物が多数描かれていた。
ガイドとして雇っていたツエル曰く、神々とその眷属を描いたものだという。
ツエルのことを考えると、イクトールの心が少し痛んだ。
彼女は元々あまりよくない噂のある子だったらしく、宿屋の主人もやっぱり雲隠れしたか、といった感じの物言いだった。
イクトールは殺人を犯した自覚を持たなかった。
元々殴っただけで人が死ぬとは思っていなかったのである。
しかし木造の家でも素手で解体できるほどの膂力を持った、イケメン凶戦士オークの渾身の一撃を。魔導防具も無しにまともに受けて生き残ることができるほど、人間族は頑丈ではなかった。
「入るか……」
イクトールは覚悟を決めて、その岩石のような拳を強く握って、遺跡に足を踏み入れた。
ランタンを手に、暗い遺跡に入る。
中は本当に暗く、湿度がかなりあって蒸し暑かった。
ランタンの光がゆらゆらと揺れて、イクトールの巨体の影を壁に映し出していた。
事前に仕入れていた情報によると、この遺跡にはすでに帝国の調査隊が入っており、捜査は終了しているらしかった。
地図も手に入れており、今この遺跡には観光以外の価値はないとされている。
イクトールは遺跡を地図に従ってどんどん地下に降りていった。
たしかに、内部に生物の気配は存在しなかった。
コウモリの一匹も存在していない。
イクトールはそのことにも違和感を持っていた。
「おかしい……。生き物が一匹もいないなんて……」
『ええ、それがダンジョンの特徴ですから』
「おわぁっ!?」
イクトールは突然女神アンジェリカの声が聞こえたことに非常に驚いて、思わずランタンを取り落としそうになった。
激しくイクトールの影が揺れて、遺跡の壁を這った。
『何を驚いているのですか』
『い、いや、急に話すから……』
『応答できないだけで、無職童貞のあなたが町娘に鼻の下を伸ばしていたのも、強盗に襲われたのも、そのうち3人を殺して2人を……いえ、あの売女を入れれば3人を取り逃がしたのも確認していましたよ』
『そ、そんな……!』
この女神アンジェリカの宣告によって、イクトールはようやく自分が殺人を犯した事実を知った。
人の命。
何物にも代え難いその崇高なるものを、イクトールはその腕で奪ってしまったのである。
かなりの重傷を負わせたという自覚はあった。
なにせ頭から血を流してぴくりともしなかったのだ。
しかしイクトールは気絶しているだけだろうと思っていた。
たしかに人間は頭を切った場合、傷の深さより多くの血が流れ出るような構造になっているが、真実は残酷であった。
その上、最初に殴り飛ばした青年も死んだということを女神アンジェリカは言っている。
『反省しなさい、イクトール』
「はい……」
イクトールはその場に膝をついて頭を垂れた。
殺人、という実感はなかったが、気味の悪い感触は拳が覚えている。
頭蓋骨を砕き、中の肉を傷つける殺しの感覚だった。
『次からは1人残らず始末すること。よろしいですね?』
「はい……。て、えっ?」
イクトールは呆気にとられて遺跡の天井を見た。
そこに女神アンジェリカがいるわけではないのだが、ついつい上を見てしまう。
『この私の使徒を侮辱しておいて命を残しておく必要などありません。その魂を残らず私の元に献上しなくて何が使徒ですか』
「え、ちょ、ちょっと待って下さい」
『ええ、わかっています』
女神は言った。
『どうせあんなものは微々たるものです。あなたはこれからいくつもの魂をより効率的に魔素に変換し、私に献上しなければなりません。とはいえ、久しぶりの新鮮な定命の者の魂は美味しかったですよ。我が使徒イクトール』
「…………」
話が全く噛み合わなかった。
女神がどうしてこんなに喜んでいるのか、イクトールにはわからなかった。
イクトールにはわからなかったが、女神アンジェリカはいくつかの術式をイクトールの魂に施していた。
自動翻訳、自動治癒、自動筋力強化……。
そのうちの3つが、自動的にイクトールが殺したものの魂を捕らえ、魔素として変換し、女神アンジェリカに届けるというものだった。
術の名を「ソウルテイカー」と「オートソウルコンバージョン」と「マギアテイカー」いった。
その中でも「オートソウルコンバージョン」は今まで生きている者によって成し遂げられたことのない|《奇跡》の権能だ。
『まったく、あんな下賎な娘を相手に何を考えているのか。神の使徒たる自覚をもっと持ってください。あなたは女神アンジェリカの神聖なる使徒なのですよ』
ブツブツ文句を垂れる女神アンジェリカを無視しつつ、イクトールはさらに遺跡を深く降りていった。
『ああ、そこで止まってください。その――――――――――――の前で止まってください』
「えっ?何?」
突然、イクトールの中に響く女神アンジェリカの言葉がノイズ混じりの耳鳴りを誘発するような不快音を放った。
不快音は高音であり低音であるような、奇妙に心地よい感じすら持っていた。
生き物の言葉ではない、という感じがした。
事実、アンジェリカは正しく「女神アンジェリカを讃える古き紋章」と発音しようとしたが、その言葉が紋章の持つ力と共鳴して、正しくイクトールの心に届けることができなかった。
『失礼、変換に失敗しました。その丸い紋章の前で止まってください』
「はあ」
イクトールは溜息とも返事ともつかない相槌を打った。
女神が何か説明するのを面倒臭がったなという雰囲気だけは、イクトールは敏感に感じ取っていた。
それは実際正しかったが、面倒臭がった内容まではわからなかった。
紋章は、中心に何か女性のようなものが描かれており、それを囲うようにいくつもの円が描かれていた。
円は太さがまちまちで、また綺麗な線ではなかったが、一定の規則性を持っているようにも見えた。
高名な帝国宮廷魔術師が何人も解読に挑戦したが、全員がその匙を投げ、これはただの装飾であると結論付けていた。
『ちょっと調整します。少し待ってください』
女神アンジェリカがそういうので、イクトールは待った。
10秒も待たずに、また女神アンジェリカが語りかけてきた。
『お待たせしました。それでは私の言葉を復唱してください。「女神アンジェリカを讃える古き紋章よ」』
「女神アンジェリカを讃える古き紋章よ」
『「使徒たる定命が降臨をも讃えよ」』
「使徒たる定命が降臨をも讃えよ」
『「其が権能を觀せ」』
「其が権能を觀せ」
『はい、次に指でも切って血を出して紋章に当ててください』
「はい、次に指でも切って血を出して――」
イクトールは素でボケをかました。
イクトールは感じることはできなかったが、彼の周囲に集まっていた空気中の魔素が霧散していって、遺跡の闇にまた溶けていった。
女神アンジェリカがイクトールに唱えさせたものは、音節起動式魔素利用法、略して音節魔法と呼ばれる魔法の一種だった。
この世界で2000年前ごろ、すでに忘れ去られて久しい古代の魔法であったが、イクトールは何も知らない。
それどころか、今自分が魔法を起動しようとしていたことすらわかっていなかった。
音節魔法は魔力を持たない生物でも使用できる魔法で、描く魔法陣によって魔法術式を設定し、空気中の魔素を用いて発動させる。
現在帝国で主流になっている体力を魔力に変換して放つ、魔力体伝導発動式魔素利用法、略して伝導魔法とは全く異なる系統の魔法であった。
習得は困難を極めるが、保存性と持続性に優れ、設定次第では誰でも使用できる魔法ということで、3000年前から2000前まで広く使われた魔法だ。
汎用性に富んだ触媒変換式魔素利用法、略して変換魔法が出現してからは衰退の一途を辿り、ついには忘れられた魔法だった。
そんな帝国魔素利用研究所の職員なら泣いて喜ぶような、滅びた古代魔法の再現だったが、そんな6000年に渡る魔素利用法の歴史を知らない、転生者のイクトールにとってはただの作業にすぎなかった。
『ここは復唱しなくていいです!!まったく!最初からやり直しですよ!もうっ!』
イクトールは言われるまま詠唱をやり直した。
イクトールはどうも女神の機嫌が良さそうだと感じていた。
怒り方も可愛かった。
さっき殺した強盗による魔素補給が余程嬉しかったのだろうかと考えた。
そう考えながらも、イクトールは持っていた動物を解体するためのナイフで指を切って血を滲ませ、それを紋章に押し当てた。
瞬間、光が満ちた。
その煌々たる光は遺跡の全てを輝かせ、海岸沿いにポッカリと空いた遺跡の入り口から、極太の光条を空に突き立てた。
その光景は遠く離れた場所、帝都アルファードの国立天文台からも観測された。