オークと奴隷と町娘
「何?奴隷市場ぁ?」
翌日、部屋を訪ねてきたナーキスは素っ頓狂な声を上げた。
イクトールの容態が心配だったのだが、ナーキスが見たのは宿屋の一階にある飯屋になっている場所で、朝食にしては大量の飯を食っているオークの姿だった。
イクトールのテーブルには子豚の丸焼き、魚のフライ、ピラフ、それとエールが置かれていた。
ナーキスは呆れたが、イクトールの巨体を維持するとなるとこれくらいは必要なエネルギーなのである。
「ああ。一度見ておきたい」
イクトールは油まみれになった口をテーブルナプキンで拭った。
「つってもなあ。あそこは許可証が必要なんだ。まあ、奴隷ってのは高価だからな」
ナーキスはイクトールの向かいに座って、我が物顔でイクトールの朝食を摘んで食べたが、イクトールはそれに関して何も言わなかった。
それどころか、イクトールは給仕の娘を呼んでエールを持ってこさせた。
「高いのか。いくらぐらいするものなんだ?」
「こっちがこの豪勢な朝食について聞きたいね」
「マルクス銀貨で20枚」
イクトールは子豚の足を骨ごとしゃぶりながら言った。
「食ったなあ、お前……」
ナーキスも子豚の足を骨ごとしゃぶりながら、呆れたように言った。
先日港で荷降ろしをしていたアイエルロの日給がマルクス銀貨3枚ほどで、銅貨に換算すると36枚ほどに相当する。
「昨日の晩、何も食べなかったからな。で、奴隷っていくらくらいなんだ?」
「奴隷っていってもピンキリだ。人間の男がマルクス金貨400枚くらいが相場だったかな」
「き、金貨400!?」
イクトールは思わず子豚の足の骨を噛み砕いた。
マルクス金貨1枚は銀貨に換算すると12枚ほどになる。
つまり日雇い労働者が1600日、約4年間働いてやっと稼ぐ金額だ。
一日の平均食費が切り詰めれば銅貨10枚までは抑えられるから、一日に余る金額はマルクス銅貨で26枚。
1食で銀貨20枚分食べるイクトールは、明らかに食べ過ぎだ。
一日に銅貨20枚を貯金するとして考えても、2880日、約8年もの間、不眠不休で働き続けなければならない計算になる。
それにこれは机上の空論で、実際には宿代や風呂代、服代もかかるだろう。
「高えってこともないだろ。人1人の命を買うんだぜ?」
「まあ、確かに……」
ナーキスの言うことはもっともだった。
人の命を金に代えることはできない。
そう考えるなら金貨400枚は安いような気がしてきた。
「で、人間の女だと……、えーと何枚だったかな。忘れちまったよ。奴隷の相場なんて気にしねえからな。ちょっと待ってろ。調べてきてやるよ」
「ありがとう。依頼料はいらないのか?」
「商人をそこまでがめつい生き物だと思ってくれるなよ。……まあ大半はそうだけどな。俺は違う」
それに、とナーキスは続ける。
「エールも奢ってもらっちまったしな。もう腹ン中だから返すこともできない」
そう笑って、ナーキスは宿を出て行った。
しばらくイクトールは1人になって、ちびちびとエールを飲みながら子豚を腹に入れていると、給仕の娘がイクトールの向かいに座った。
「よく食べるんですね。見てるこっちまで楽しくなっちゃいますよあ、これはサービスですよ」
と言ってテーブルに置かれたのはザワークラウトに似た野菜の漬物だった。
「ありがとう」
イクトールが言うと、給仕の娘は満面の笑顔で応えた。
「オークの方が今この街にいるって珍しいですね!旅の方ですか?」
「そうだけど……。たしかにこの街、オークって見ないけどいつもはいるの?」
「オークの方々は今はみーんな出払っちゃってますよ」
「へえ。何か理由があるのかな」
「さあ。それはもうちょっと酔ってお口が緩くなったら喋るかもしれませんね」
給仕の娘は暗にチップを要求した。
イクトールは頭を掻いて、巾着を探った。
「そう言われると弱い……。これで好きな物を買って好きなだけ飲むといい」
そう言ってイクトールは給仕の娘に、マルクス銀貨2枚を握らせた。
「まあ!こんなにはもらえませんよ」
「その笑顔と情報、それと未来に、ってことでどうだろう。しばらく滞在する予定だし、この街を案内してくれないか?」
「えー…、と。でも知らない男性と歩いているところを見つかったら、友達に何を言われるか……」
給仕の娘はさらにチップを要求した。
「うーん、じゃあこれで友達を食事に誘って誤解を解くといい。それに新しい服を買えば、遠目からは君だとは気づかれないかもしれない」
イクトールは渋々といった感じにさらにマルクス金貨1枚を握らせた。
すると給仕の娘はにっこりと笑って、イクトールの横の席に座りなおして、腕を組んだ。
「よろしくね!あたし、ツエル!よろしく、ええと……」
「イクトールだ」
交渉成立である。
女性に対して転生する前にはこんな体験をしたことがないイクトールは、緑の皮膚を赤くした。
イクトールは完全にこの給仕の娘の手玉に取られていた。そもそも給仕の娘は並み居る男性宿泊客を相手にしてきたのである。無職童貞だった郁人なぞ、彼女からすれば雑兵にすぎない。
いくらかの情報をツエルからもらいながら、イクトールは彼女と2人で飲み食いを続けていた。ツエル曰く、オークはその全員が傭兵団に所属していて、今は戦争のために出払っているとのことだった。
「おっ?どうした。俺がわざわざ商館まで行って相場を見てきたってのにその間にお前さんはナンパか?オークってそんな種族だったか?」
しばらくしてナーキスが帰ってきて、うんざりしたように言った。
「いや、いつまでもナーキスを拘束しているわけにはいかないから、現地のガイドを雇っただけさ」
「なるほど。まあ、いい手段だろうな」
ナーキスは品定めをするようにツエルを見た。イクトールがツエルにエールとツマミを持ってくるように頼むと、彼女は笑顔を振りまきながら厨房の方へ小走りで引っ込んだ。
「持ってきたぜ。相場表。読んだら燃やすからな」
イクトールの向かいに座りながら、ナーキスは紙を1枚渡した。
「ありがとう」
イクトールは相場表が書かれた紙を受け取って目を通した。
そこには種族と性別による相場が書かれていた。
『人間男:450
人間女:300
リョスアルヴ男:500→450
リョスアルヴ女:550→500
デックアルヴ男:500
デックアルヴ女:500
オーク男:600→650
オーク女:300→350
アイエルロ男:200
アイエルロ女:230
キュオーン男:550
キュオーン女:400』
「全部マルクス金貨だ。あと技能やらなんやらを加味して決まるんだとよ。基本的に全部オークション形式で決まるらしい」
ナーキスは機嫌が悪そうで、頬杖をついてツエルが持ってきたナッツを口に放り込んで、エールで流し込んだ。
「どうしたの?嫌なことでもあったの?」
機嫌の悪そうなナーキスに、ツエルが尋ねた。
「別に」
ナーキスはナッツを親の敵のように力強く噛んでいた。
「人の命の買った売っただのが気に食わねえのさ。その相場を見てたら新しく相場表を書き換えてた奴隷商のやつがいてな。鬱陶しいのなんの……」
「嫌なやつなのか?」
「奴隷商なんてのは嫌なやつの糞を掻き集めて作った像みたいなもんだ。良いやつなんかいるはずがねえ。……読んだか?」
「ああ、読んだ。ありがとう。すまなかったな」
イクトールが相場表のメモを返すと「別に」と言ってナーキスは紙を受け取った。
その紙をどう燃やすのかと思ってみていると、ナーキスは指を鳴らすように擦って、その指先に火を灯した。
「魔法!」
イクトールはテーブルにその巨体を乗り出した。このとき初めて魔法を見たのである。
「な、なんだ?こんな魔法がそんなに珍しいかよ」
空いた皿の上でメモを燃やしつつ、ナーキスは驚いたイクトールにさらに驚いた。何よりオークであるイクトールの表情は、ただでさえ人を恐怖させるのだから、その屈強そうで人殺しをいとわなそうな顔が目の前に近づけられると、慣れていない者は自然と恐怖してしまう。
「ど、どうやって火を起こしたんだ?」
イクトールはナーキスの黒い指をまじまじと見つめた。すでに指先の火は消えていて、奴隷の相場表メモを燃やしている火が空いた皿の上にあるだけだ。
「しょ、初歩の初歩だ。こんなもんエルフなら誰でも使える」
「俺には使えないのか?」
イクトールは期待に胸を踊らせて聞いた。
「オークのメイジなんて聞いたことないな……。中央のメイジギルドに1人もいないんじゃないか?」
「そうか……」
イクトールはその巨体をしゅんと縮めて落胆した。
「まあ、その、なんだ。そんなに落ち込むなよ。その代わりお前さんにはその腕があるじゃねえか」
ナーキスにそう言われて、イクトールは自分の腕を見た。
ダークエルフであるナーキスの腕と比べ、自分のオークの腕は非常に太い。その腕に漲る力も、イクトールは知っている。本気で振るえば、目の前の厚さ10cmはありそうなテーブルを砕けるほどの力は余裕で有している。
「魔法で殺そうが剣で殺そうが同じことってやつさ。魔法にできて力にできないことはない。そうだろお前さんよ」
「うーん、まあナーキスが言うんならそうかもな」
「そうだろう、そうだろうとも」
ナーキスはうんうんと頷いてみせた。
「ところで、奴隷の相場なんて知ってどうすんだ?集落に連れ帰るのか?」
「いや、単純に奴隷がほしいなーと思って」
「ええっ!イクトールさんって奴隷商人だったんですか!?」
ツエルがわざとらしく驚いてみせたが、イクトールは無視することにした。
「お前、思いつきにもほどがあるってもんだぜ。まあ、田舎者だからしゃあないかもしれんが……」
ナーキスは呆れたように言った。
「奴隷ってのは要するに労働力だ。重いもん運ばせたり、延々と単純作業をさせたり、まあ、そういう経済を動かす歯車の一種だな。それをお前さん「ほしいなー」って……。金200もあれば新しい馬車が買えちまうぜ?」
「私も、金200もあったら何を買おうかしら……。……家?」
「家か……。農家のあばら家くらいならいけそうだな」
ナーキスとツエルは2人でマルクス金貨が200枚あればという話に花を咲かせた。
イクトールには金貨200の価値があまりピンとこない。
自分が貨幣経済から離れたところで15年間過ごした上に、前世でもろくに働いた経験がないため、貨幣の価値を体感的に受けたことがないからだ。
「なあ、ついでに聞くけど、傭兵を雇うならいくらくらいするものなんだ?」
イクトールは聞いた。
今後、絶対に遺跡に行くことになる。そのときに傭兵の世話になる可能性もあるし、相場を聞いていて損はないと思ったからだ。
「傭兵?ますますおかしなことを聞くなあ。お前さん、戦争でもする気か?」
「いや、そんなつもりは毛頭ない。俺は集落を出てきたんだ。戻ることはできない」
ナーキスは冗談めかして言ったのだが、イクトールは思わず強めに反論してしまった。
「……でもお前戦争もしねえのに傭兵なんて雇ってどうするんだ?」
「……え?」
イクトールは間の抜けた声を上げた。
「お前さんは何にも知らねえんだなぁ」
ナーキスは呆れたように溜息を吐いた。
「傭兵ってのはなあ、戦争で敵将を人質にとって身代金を要求して生計立ててんだよ。言ってみれば戦争もしないのに傭兵を雇うのは無理だってことだな」
「そうかあ……」
イクトールは天井を見上げた。
「じゃあダンジョン攻略なんてのには誘っても無理かな」
「ダンジョン?」
ナーキスが鸚鵡返しに聞き返した。
「ああ、この近くに遺跡があるんだろ?」
「遺跡っつってもあそこは観光施設だぜ?ダンジョンなんてやばいものじゃねえよ」
ナーキスはそう言ったが、イクトールの中にはちょっとした違和感が湧き上がっていた。
女神が言っていたのは『まずは遺跡の調査をしなさい。遺跡の深部は魔素によってモンスターの巣になっていますので、死なないように気をつけてくださいね』というものだった。
女神が間違ったことを言うことはない。嘘をつく可能性がないわけではないが、女神が嘘をついても利益はない。
しかしイクトールはこれ以上ナーキスに意見する必要はないと考えた。もし1人で事足りるならそれでいいし、増援が必要なら増援するに足る理由を提示すればいいだけだ。
そのあと、ナーキスは仕事に出て行ってしまい、イクトールはツエルと一緒に街を見て回った。
女性と一緒に街を回るなんてことは前世では一度もなかったし、今世でもオークのカルア相手にしか経験したことはなかった。