オークと犬族キュオーン
ナーキスの馬車に揺られること丸1日が経過したころ、ようやくベーティエの街が見えてきた。太陽が登り始めていて、時間はおそらく8時か9時くらいだと思われた。
ベーティエの街はその周囲をぐるりを城壁が囲んでいた。大きな城門が見え、そこには青いチェーンメイルのような簡単な鎧を着た衛兵が腰に剣を下げて警備をしていた。城門は開け放たれていたが、そこに馬車の渋滞が起きていた。
「兄ちゃんは向こうの小さい方から入りな」
ナーキスが指差す先には、城門より少し小さな通用門が見えた。そこにもやはり衛兵が立っていて、出入りする人の荷物を検査していた。
「どうしてあっちに行ったほうがいいんだ?」
「税金が向こうの方が安いからだよ」
「税金?」
イクトールは聞き返した。
「ああ、そうか。田舎から来たから知らなくても無理ねえわな」
ナーキスの言い方に、イクトールは少しむっとした。
「城門も城壁もそこを守る衛兵も無料じゃねえ。その維持費を城門を利用するやつからもらおうってこったな」
関税というやつである。街の商品の価格の維持にも一役買っていて、郁人の世界にも普通にある制度の1つだ。その規模は国家という枠組みになっているが、ベーティエの街だって言い方を変えれば国である。
ベーティエの街はベーティエ侯爵の領地であり、その城を中心に発展した典型的な城郭都市である。その領地内はすべてベーティエ公爵の行政が支配する範囲であり、それは国と言っても過言ではない。何よりヒュムランドは諸侯国家である。つまりベーティエはそれ単体だけで国としての機能を有しているのである。
「なるほど。これはいいことを教えてもらった」
「いいってことよ。これもお釣りだと思いな」
「ありがとう」
イクトールは陽気に笑うナーキスに別れを告げて、足を止めた馬車からひょいと飛び降りた。次いで載せていた荷物をぐいと引っ張り下ろして背負った。
「お前さんの旅路にヴァナディースの加護あらんことを!」
ナーキスは笑顔で手を振りながら言った。
ヴァナディースはデックアルヴたちの女神であり、オークに対しての女神アンジェリカのようなものだ。
「そこのオーク。止まれ」
イクトールが通用門に近づくと、人間族の衛兵の1人が面倒くさそうな顔をして近づいてきた。その表情から明らかにオークを見下した態度だった。その隣にはキュオーンの衛兵がいて、こちらの表情は顔が毛で覆われていてわからなかった。
キュオーンは二足歩行の犬の姿をした種族である。この種族も、イクトールは初めて見る種族だった。
「どこからきた?」
「ブルナーガの集落から来ました」
「……それはどこだ?」
どうやらこの衛兵はイクトールの出身地について、何も知らないようだった。もちろん、これが標準的な帝国国民であるし、ブルナーガの集落などヒュムランドの小さな村より小さい規模であるから、この反応は至極当然である。
「向こうの山の中腹にあるオークの集落です」
「ふうん……。目的は?」
「観光です」
「その荷物は?武器は今見えているので全部か?」
人間族の衛兵は矢継ぎ早に質問を繰り出した。
「武器は斧、弓、弩、それと矢が数本。荷物の中身は保存食と衣服と……」
「見せろ」
あまりに横柄な態度に、イクトールは腹が立った。しかしここは彼らが絶対の権力を持っている。下手に逆らえば牢屋に直行することになるのはイクトールでも理解できた。
イクトールは素直に従い、背嚢を下ろして中身を見せた。
「ふんふん……」
人間の衛兵はイクトールの背嚢をごそごそと漁り、いくつかの中身をその辺に広げだした。草がまばらに生えただけの地面に、硬くなったライ麦パンや干し肉が投げ出される。
「…………」
「な、なんだその反抗的な顔は!何か不満か?あ?」
衛兵は腰の剣の柄を触りながら、イクトールを下から見上げた。イクトールの背は180cmほどあり、人間の衛兵は160cmほどに見えた。明らかに誰が見てもイクトールがその気になれば人間の衛兵は一瞬で首の骨を折られるだろうと思ったが、イクトールはそれをしなかった。
ただ、衛兵を見るイクトールの目と表情は、傍から見ているだけでも、今にも鮮血飛び散る惨劇を予感させるほどだった。
「おい、それくらいでいいだろ」
途中でキュオーンの衛兵が割って入った。人間の衛兵が怒った顔をしたが、キュオーンの衛兵は毛に覆われた手でイクトールの後ろを指した。
イクトールの後ろにはすでに短い列ができていて、何事かと何人かが首を伸ばしていた。
「ちっ、マルクス銀貨2だ」
人間の衛兵が不機嫌そうに言った。どうやらそれが関税らしい。イクトールは素直に銀貨を払って、放り出された食べ物もそのままに通用門をくぐった。
一刻でも早くその不快な場所から逃げ出したかった。通用門はトンネルのようで、薄暗かった。
通用門のトンネルを通り抜けると、途端に世界が変わった。通用門から伸びる道は街の目抜き通りに通じているらしく、通用門からの道だけにもいくつもの露天商が店を構えていた。
色とりどりの日除けテントの下に、頑丈そうな木箱やテーブルを置いて商品を並べている。そこには見たことのない果物や野菜が並んでいて、イクトールの目を楽しませた。急に色が増えたので、イクトールは目がチカチカしたように感じるほどだった。
ブルナーガの集落ではこんなに物が溢れていなかった。イクトールの中の文明的な部分が、つまり郁人の部分が歓声を上げた。
「おーい、さっきのオーク!」
さっそく何かを食べようかと足を向けようとしたとき、不意に後ろから呼び止められた。振り返ってみれば、さっきの通用門前にいたキュオーンの衛兵だった。手にはさっき投げられたイクトールのいくつかの食料があった。
「さっきは悪かったな。一応砂は払ったつもりなんだが……」
「……わざわざどうも」
イクトールは品を受け取りながら、不快感を隠さずに吐き捨てるように言った。
「あいつにはあとでキツく言っておくよ」
「そりゃどうも」
「はは、嫌われちまったようだな」
キュオーンの衛兵は青いチェーンメイルをじゃらじゃら言わせながら頭を掻いた。よく見れば青いチェーンメイルには鷹か何かを象った紋章が描かれていた。ベーティエの象徴か何かなのだろう、とイクトールはあたりをつけた。
「俺はグルオン。今更こう言うのもなんだが、この街をゆっくり観光していってくれ」
「はあ……、どうも」
さっきからどうもしか言っていないような気がしたが、イクトールは気にしないことにした。衛兵に目をつけられるなんて至極面倒なことになったとしか思っていなかった。
「じゃあ、俺は職務に戻らないと。観光、楽しんでくれ!」
そう言うとグルオンと名乗ったキュオーンの衛兵は、くるりと軽い身のこなしでまた通用門を引き返そうとした。
「あ、ちょっと!」
気づけば、イクトールはグルオンを呼び止めていた。自分でもなぜ呼び止めたのかはわからなかったが、本能のようなものがグルオンが悪人ではないと告げていた。
「俺はイクトール。あんた、いい人だな」
そう言って、イクトールは受け取った干し肉をグルオンに放り投げた。グルオンはそれを犬のように器用に口で受け取った。それから口をにっと開いて牙を見せて、笑顔を作った。
「ありがとよイクトール!」
なんとなく、イクトールはグルオンと友達になれそうな感じがした。