月夜の晩に幼馴染のオークは微笑んだ
夜明け前、イクトールは前もって準備していた荷物を持って家を出ようとした。
服装はいつもの薄くて臭い古い服ではなく、麻の丈夫な服を着ている。
ある程度いい格好をしなければならないと思ったので、行商人の格好を参考にして服装をコーディネートした。
大きな背嚢に入っているのは、旅のための食料がほとんどだ。
その上に弦をたすき掛けするように弓をかけ、護身用の斧を腰に下げ、負い紐をつけた愛用の弩をまたたすき掛けした。
静かに準備をしながら、イクトールは兄アレクトールのことを想った。
すでに成人している兄アレクトールは、イクトールと同じくして集落を出て行っていた。
家にいるのはすやすやと寝息を立てている妹のガルシアとウラグ、そして身動ぎもせずに横になっている母のルルゥ。
ルルゥは寝ていなかった。
アレクトールが出て行ったときもルルゥは寝なかった。
そんな母のいじらしい行動を見て、イクトールは悲しくなった。
「ごめん、母さん……。俺、行くよ」
イクトールの妹たちを起こさないように気を使った小さな声に、ルルゥはもぞもぞと動くことで返事とした。
その様子を見て、イクトールはさらに心が締め付けられた。
郁人には緑色の太った豚が体勢を変えているだけにしか見えない。
この動物臭漂うあばら家から一刻も早く立ち去りたいと思っている。
しかし、イクトールにはかけがえのない生家である。
ルルゥのことだって、当然のように愛おしく思う。
愛おしく思わないほうがどうかしているとさえ思う。
イクトールには自分を育ててくれた大切な母が、息子の望みを邪魔しないようにと、あえて無視しているように見えた。
郁人にとって醜い亜人でも、イクトールには代わりの存在しない実母なのだ。
残される母の、ルルゥのことを思うとイクトールは悲しくなった。
郁人も、自分が死んで残してしまった母と重ねあわせて、悲しくなった。
『あなたの中には、2人の人格が存在するんですか?』
形のない女神アンジェリカが面倒くさそうに言った。
『違いますよね?認めてしまいなさい。あなたは人間であり、またオークである存在……。いえ、種族をを超越した、神の使いなのです』
アンジェリカの言葉はどこまでも利己的だった。
でも、従うしかない。
そうでなければ、彼女が預言としてこの集落を崩壊させるように他の集落に働きかけるというのだから。
そう思うといくらか気が楽になった。
イクトールがそっと家を出て行くと、ルルゥは静かに泣いた。
家を出ると、イクトールは驚愕に目を開くことになった。
声を上げなかったのは全くの偶然だった。
いや、心の何処かでこんな奇跡のようなことを期待していたのかもしれない。
だから、イクトールは、家を出た先にカルアがいても声を上げなかった。
「やっぱり」
カルアは無邪気にいつものように笑った。
「ど、どうして……」
「イクトールのこと、私がわからないわけないでしょ?」
カルアは蠱惑的な笑みを浮かべた。
よく微笑む彼女は、その魅力を十二分に放っていた。
淡い若葉が萌えるような薄緑色の肌は怪しい魅力を放ち、頭の天辺の柔らかな金髪の房は月光に揺らめいて輝きを反射する。
黒真珠の瞳は何もかもを吸い込む憂いの闇で、つんと立った豚鼻の先は彼女の目と同じくらい潤いを湛えていた。
彼女の格好はいつも着ているワンピースで、旅の服装ではなかった。
「……行くんだね」
その言葉で、イクトールは彼女が自分を見送りに来たのだと思った。
一瞬でも一緒に来てくれるのではと思った分だけ、さらに切なさが増した。
「うん」
「いつ帰ってくるの?」
「わからない。でも、手紙を書くよ」
「うん。待ってるから」
それだけの言葉を交わせば十分だった。
イクトールは夜明け前の山道をずんずん進んでいった。
地図は事前に入手していたので、問題なかった。
それに狩りに行くときも何度か山頂付近からベーティエの街を見ていたので、方角もわかっている。
イクトールは力強く歩き出した。