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トキのアパートから出たシズクは、とある駅の近くの交差点の前で、電柱に背を預けながら人を待っていた。
時折、辺りを見渡しては携帯に目をやり、時刻を確認する。そんな時、視線が携帯に向いたのを衒ったような時機に、横から声を掛けられる。
「よう、シズクちゃん。無代の餓鬼とはヨロシクやってっか?」
渋味のあるどら声で、粗野な言い回しをシズクに発したのは、30代後半の男であった。
顔つきは、セットされていない天然パーマの黒髪に、疲れたような二重瞼が特徴的な目。嘲るのが得意そうな眉と口に、小汚い印象の無精髭。
身なりは、灰色をした薄手のロングコート、下には着馴れたスーツ、靴はブラウンのビジネスシューズと、一見すればサラリーマンのようではあるが、どこか胡散臭さを漂わせる、そんな男であった。
男はロングコートのポケットに手を入れたまま、シズクの側まで近寄った。道行く人々から見れば、上司と部下が待ち合わせたように映る。
シズクは冷めた目で男を見るや否や、ゴソリと左手をズボンのポケットに入れ、細く小さな機械を取り出した。
「セクハラですよ、加室さん。私がこの録音機を警察に持ち込めば、即逮捕ですよ」
小型の録音機の頭部分は赤い光が点滅していた。加室と呼ばれた男は、頬に汗を流して口を曲げた。
「手厳しいな、おい。まーた無代の奴にフラれたのか?」
揶揄な物言いにシズクは少々の苛立ちや不満を含んで返す。
「別に、あんな唐変木の粗チンに興味はありません」
「なんだ、見たことあんのか」
「見ていません。本当に豚箱送りにされたいのですか?」
「お、おいおい。言ったのはシズクちゃんの方じゃん」
シズクの八つ当たりの対象として、加室は持って来いの的となっていた。
加室は無精髭を掻くと、「しかし、シズクちゃんの用心深さには参るよ」と感心の念を込めて吐いた。
シズクは面倒くさそうに目を瞑り、「周到さで加室さんには敵いませんよ」と、相手を持ち上げた。
対して、加室は煽てに乗らず、「そうかぁ?」と嘯いた。
すると、シズクからふぅ…という嘆息が漏れた。軽く腕を組んで顔を逸らす無愛想な態度に、加室はうーん…と眉間にシワを寄せる。
「仕事の話、すっか」
早急に終わらせたいと露にしていることを悟った加室は、そういって後方にある喫茶店を親指で指差した。
「ええ。そうしましょう」
足早にシズクはカツカツと足音を鳴らして加室の脇を通り、先陣を切っていった。
後ろ姿を見つつ、加室は呟いた。
「態度に滅茶苦茶表れんのに、何でアイツは気づかねーんだ」
カランコロンという鈴の音が鳴った。
* * * * *
身支度を済ませ、顎をさっぱりとさせたトキは、宮路 美登理が過去の改変前に入院していた病院に居た。真っ直ぐエレベーターに向かい、搭乗し、まだ違和感の残る顎を撫でながら、一枚の紙切れを見る。
(3階の東南突き当りか)
エレベーターは3階に到着した。トキは紙切れを仕舞うことなく東南の廊下を歩く。たどり着いた突き当たりの一室の名札には『篠原 つや子』と記されていた。トキは持っている紙切れを確認する。
「ここか」
呟くと、名前の記されているであろう紙切れをクシャリと丸め、ポケットに忍ばせた。
そして腕を振るい、ノックをする。コンコンと音をさせ、返事を待たずにドアをスライドさせた。
視界をついたのは夕陽の光と、ベッドから上半身を起こした体勢で、死んだような微笑みをかけてくる、年老いた女性だった。
衰え、乾いた華奢な身体。年を表す織り込まれたシワの数々、いくつも見られる黒子のような墨色の斑点。そして、不自然に黒い髪の毛。
傍目から見ればただのご老体の女性だが、トキは釘付けにされた。
儚い・虚無・黄昏、そういった負に隣接した不明瞭な物々が一心に集まったような女性に、ただただ唖然とした。
「……貴方が、鉦代さんが言っていた、無代……トキさんで?」
つや子が開口したのは、放心状態のトキを十数秒眺めてからであった。霞み掛かった声に、トキは我に返ったように見開いていた目を閉じて、改めて開いた。
「あ…ああ。あんたが、篠原 つや子…?」
「ええ。お世話になります」
つや子は甲斐甲斐しく頭を下げた。そして来客用の椅子を指差し、「お掛けください」と進めた。「悪いね」とトキは引いた態度で椅子に腰を下ろした。
「……」
トキは直ぐに用件を訊くつもりであったが、口が軽く開かなかった。何か言おうにも、脳が勝手に言葉を篩い(ふるい)に掛け、厳選を始めてしまう。必然的に沈黙が長くなる。
つや子は、そんな虫の這うような時間の空間を、容易く流してゆく。まるで魂が半分掛け落ちているようにさえ思えてくる。
トキは小さく喉を鳴らして口を開いた。
「あんた、歳はいくつに?」
出てきた言葉は、何ともその場しのぎのような稚拙なモノだった。篩いに掛けられた言葉の中に、生き残るものがいなかったのだ。
つや子は希薄な笑みを浮かべて、「今、62になります」と答えた。
トキは見た目以上に若いつや子の年齢に、少々驚いた。
「ほぉ。なら、鳶渡を使えば後十数年は固いな」
女性の平均寿命は現在では約85歳と長きに渡るものである。つや子は目を伏せると、振っているのかさえ分からぬほど小さく首を横に振り、疲れきった目をトキに当ててこう断言した。
「いえいえ、私は後、5日足らずでこの世を去ります」
間が開いた。聴き入れたトキの耳から脳にその言葉が届くのに、時間を要した。
「……どういう…ことで?」
「恥ずかしながら、発見が遅れてもうどうにもならない癌なんですよ。病名は……悪性末梢神経鞘腫瘍という…末期癌です」
つや子の説明に、トキは第一印象から感じた物々を理解する。
日々行われる検査、癌の摘出手術・抗がん剤・それに伴う疼痛。手術前の恐怖や畏怖・死の契機。それらに曝される毎日、変わらぬ毎日。労の居場所のない毎日。気が滅入り、淡い背景を背負うのは当然と言える。
ぼんやりと、そして沈痛な面持ちで、つや子はこう話す。
「もう…、ここで二年になります。最初の頃は…皆、心配してくれて、よく顔を見せに来てくれたものです。でも、時間が経つと、意識が薄れていくのか……皆、忘れたように来てくれなくなりました。娘は時折来ますが、用事を片すと、忙しなく出て行くのです」
そこで、つや子は笑う場面でも無いのに、笑みを浮かべた。
「でも、それでよかったのかもしれません。みすぼらしい姿を見られるのは、心中が痛みますから……。見てください、この有様を」
そういって、つや子は髪に手を掛け、下へズルリと落とした。黒髪は手に纏い、頭上は蛻の空となり、髪の毛といえるものが全て無くなっていた。突如として、坊主となったつや子を前に、トキは目を細め、嘆かわしい表情をさせた。
抗がん剤による副作用として、吐き気や脱毛が上げられる。副作用の無い抗がん剤など存在しない。つや子の姿は、それを如実に語っていた。
トキは視線をつや子の手元に向けた。
「そのウィッグは、娘さんからの贈り物で?」
意外な質問につや子は顎が少し上がる程度の反応を見せると、「ええ。その通りです」と嬉しそうに答えた。
「中々、似合ってたじゃないか」
口の端を持ち上げて言うトキから視線を切って、つや子はウィッグをとんとんと軽く叩いた。
「…不自然と思いませんか。こんな老いぼれにこんなツヤのある黒髪なんて……」
「ま、多少はな。でもまぁ、見慣れりゃそれも判らんようになるさ」
トキは歯に衣着せずに言ってのけた。そんな正直者を見て、つや子は柔和で彫りの深い笑みになった。
「貴方の声と云いますか…言葉と云いますか、何だか不思議ねぇ……力が沸いてくる様な…」
小首を傾げて微笑むつや子を見て、トキに笑みが零れた。
「あんたの笑顔をも相当なもんだ。人を幸せにする、そんな良い笑顔だ」
トキの中に、本調子になったらどれほど人を魅了する笑顔をするのかと、期待と好奇心が込み上げてきた。それほどまでに、つや子の笑顔は心強い。この女性には、死んだような微笑みはあまりに不釣合い。トキの中に、沸々と『そんな陰鬱なモノを生まれさせてはいけない』、という使命感が込み上げた。
「あんたの依頼は、癌を早期に発見できる時期に俺が行き、忠告をして貰いたい。ということでいいか?」
つや子は首を縦に振ることはしなかった。その胸中をまるで捉えられないトキは、神妙な顔つきになった。
「今更、生き永らえようとは思っておりません。ただ、このまま逝きたくは無いのです。こんな梅雨のような心のまま死ぬのは……辛い…」
文末になるにつれ、つや子の目に涙が微かに溢れた。徐々にトキの目が見開いていく。素直に、驚いていた。死を受け入れていることに。延命を望まないことに。ただ心の靄を晴らして死にたいというつや子に、驚いていた。自害とは違う、自然の摂理に身を任せる行為。目の前に、未来を繋ぐ希望があるのに、それに頼ろうとせず、今、この時の心の雨を止ませたい。つや子は真っ直ぐとそれだけを目指していた。
「……じゃあ、俺は何をすればいい」
目的を見失ったトキが訊くと、つや子は涙を拭った。
「難しいことはお願いしません。一つ、伝言を頼みたいのです」
「伝言…? 誰に?」
ウィッグを持っている手に力を込めて、つや子は言う。願うように言う。
「私です。2週間ほど前の私に、伝えて欲しいのです――」