10-4
現行世界、及び、自室へと帰還したトキを出迎えたのは、孝治の驚いた表情だった。
「す、すみません。それほど大変なことを推し付けてしまって……」
「ん」
トキは自分を見た。
泥に塗れ、グチャグチャな衣服。片手には切り傷があり、血が滲んでいた。腕のほうも、服が破れている箇所があり、過酷な状態であったことを、公言していた。
「まあ、色々あってな。少し話そう」
トキは、一連の流れを話した。
その中から生まれてくる可能性を、孝治は胸いっぱいに噛み締めた。
「ありがとう……ございます」
感激から、涙が止め処なく溢れた。
「本当に、ありがとうございます。これで、咲はもしかしたら、生きているかもしれないんですね」
「確証がないから、断言できんが、ゼロじゃなくなった」
「それだけでも、希望が持てます……ッ!」
その言葉は、とても重く、トキは受け止めるのに少し迷いが出た。孝治が、何を画策していたのか、その全貌が、シルエットのように見えた。しかし、この出来事により、無くなるだろう。
希望がある限り、人は生きようとする。
「本当に、本当に、ありがとうございます」
孝治は、畳の上に額を当て、心の底から感謝した。
「礼には、及ばんよ」
それから、咲がどうなったかを知るために、孝治は村へ戻ることにした。
アパートから出た両名。
トキは、「達者でな」といい、孝治は、深く会釈をして、アパートを後にした。
トキはその後ろ姿を眺め、咲の心配を胸に秘める。
「……さて、着替えるか」
トキはやれやれと首下を伸ばしながら、玄関の方を向いた。
突如。
「――!?」
災厄の骨頂とも云える様な、強烈且つ心身を貫くような悪寒が、訪れた。
(なんだ、この感じ。鳶渡の時の波のような感覚とは、別物だ)
まさか。素早く察し、振る返った次のこと。
「なっ……」
前に居た孝治の足元の地面に、異変が起きた。
地面の底から、墨があふれ出したように、黒く黒く、ただ黒い気炎が立ち昇った。
トキは、その光景に対して、微細な反応も、思考も行なえず、絶句した。
孝治は気付かない。
自身を中心に異変が起きているのに、平然としていた。
どす黒い気炎は、化け物が口を開いたように、身を裂いて巨大になる。
「こ……孝治!!!」
唖然を払い、トキは咆哮した。
「え?」
孝治は振り向いた。が、顔を合わせたのは1秒もなかった。
黒の気炎は、孝治を食すが如く、開いた口を閉じ、飲み込むように、地面へと還っていった。
――孝治の姿は、無くなっていた。
神隠しといえるこの現象は、正に一瞬の出来事であった。
ドッ――
と、トキは膝から崩れ落ちた。
――鳶渡は、現行世界で死んでしまった者の死を避けることは出来ないが、生きている者に死を与えることは可能である。
例えば、花房 孝治は、土石流に流されている最中に、妻の咲を視界の端に捉え、叫びながら手を伸ばした。その伸ばした先に、捕まる物。電柱を奇跡的に掴んだとしたら。
トキがそうなるはずの過去を、キッカケである咲を、孝治が目にする前に、助けたとすると――
「……」
トキは、そのことを重々承知していた。
しかし、怠っていた。一瞬の時、良心が圧倒した。
ただ傍観しているだけの状況が、この上なく許せなかった。
もしかしたら、二人とも助かって、不完全ではあるものの、幸せを取り戻せるかもしれない。
かも。
――不明瞭なのは、判っていた。
――トキは、賭けてしまった。
そして、――犠牲、一人。
掴むはずだった、孝治の命を繋ぐ藁は、幻となって、消えてしまった。
「トキ?」
大きな声が聞こえたため、美登理は外へ出ると、どんな困難にぶつかったのかと思える程に、グチャグチャになった衣類に身を包み、くず折れているトキを見つけた。小走り気味に駆け寄って、足をたたむ。
「どうしたの?」
問い掛けても、対する反応は一切無く、ただ目を見開いて、四肢を震わせて、ボソリボソリと、トキは呟くのだ。
「俺の……せいだ……」
現実から背を向けたくなるのを必死で抑え付け、トキは言い聞かせる。
「俺の……せいだ……」
美登理は何の事か、分からない。
ただ、異常なのは分かる。トキが、強いショックを受けていること。其れに対する自責の念を、纏っていること。
「ねぇ。トキ」
美登理は、只事ではないと、トキの背に触れて、揺らす。
「トキ。どうしたの!」
必死に訊くが、トキの耳に美登理の声は届かなかった。
頭の中は、黒穴に飲まれていく孝治の姿に、支配されていた。
「――俺の、せいだ……」