10-3
「……!?」
悲鳴に似た叫びを、咲はのた打ち回る龍の腹のような土石流の中から、しかと聞いた。しかし、その声の発生地点を割り出すことは、上を向いているのか下を向いているのかさえ分からないほどに揉みくちゃにされている状況では難しく、焦燥感が一層増した。
ただ、意志はハッキリとしていた。生きたい。という思いが駆け、その信号が右手に伝わる。
「いいぞ!」
重く、気だるさすら覚える土の中から、一本の腕が出たことをトキは確認する。
流れに沿うように湾曲する斜面をトキは駆けた。
そして、太い幹の木を見定め、そこに片方の腕を回した。
トキが行動に移そうとしていること。それは、人の手によるサルベージ。
濁流の中、人間という質量の大きいものを掴んで引き上げようとするため、危険度は最高潮。命綱と呼ぶにはあまりにも頼りない、木の腹を素手で掴むだけというのは、無謀にも程があるといえる。
トキもそのことは重々承知の上である。
間違えれば、この荒れ狂う化け物に喰われてしまい兼ねない。
そんなことは、百も承知。それでも、助ける・助けたいという気持ちが上回っていた。
トキは可動域限界まで手を伸ばし、咲の手首を掴んだ。
「――!」
咲はその事に気付き、手を掴み返す。お互いが手首を掴み合うことで、安定した力の送り方が可能となるため、偶然ではあるものの理想的な展開となった。
だが、一喜したのも束の間、変化はトキに起こった。
「うぉ…おおおッッ!」
上半身が、咲の流れていく方向へと、持って行かれる。抗えない慣性。そのエネルギーは凄まじく、腕は突っ張り、肘からビキビキという骨の軋みが悲鳴のように鳴り始める。
奥歯を噛み締め、両腕に全霊に近い力を込める。が、踏ん張りが先ず折れた。
ズッ…ズズズ
ぬかるんだ土に、足をとられてしまうのだ。
ズルリと滑る度に、心臓の鼓動の一拍が金槌で叩かれたかのように大きくなり、逼迫した息が温度を伴い出入りする。
木を掴む腕にも血管が浮き始め、限界点が見えてきた。
「くっ……ぁあああ!」
トキは足を滑らせ、尻餅をついた。しかし、体から力を抜くことは一切せず、立ち上がり、引っ張る引っ張る。
まるで、化け物の舌の上で足掻いているよう。
肉体の負荷は強烈且つ残酷で、トキに一瞬、『無理だ』という言葉が過ぎった。
とても、人間一人の力、それも片腕だけでは、この重量を持ち上げることは、無理だ。
咲が縋るような気持ちで掴んだ、トキという名の藁は――
それでも尚、諦めなかった。
不可能だろうが何だろうが、掴んだ以上、助けたい。救いたい。
傍観が嫌で嫌で仕方がなく、咲に歩み寄ったのに、救えずに終わってしまえば、それ以上の後悔が、立っているはずだ。
救いたい。助けたい。
偽善だろうが何だろうが、咲を助けたい。
孝治が行なおうとしている事を、何としてでも止めたい。
ドドドドドドドドドド…ド…ド…
トキの想いが通じたのか、濁流が一瞬、緩んだ。力を溜め、更なる破壊力を生むための前段階。その手順の中に見える、緩み。
この機を逃せば、咲は愚か、トキも呑まれかねない。
「咲ッ! こっちに、来い!!!!」
間隙を見逃すなどしない。トキは大音声で咲を焚き付けた。
生者の海岸に、来いと。死者の底へと落ちるなと。
「――――!」
咲の心を埋め尽くしていた『生きたい』という願いのような感情が、『生きる』という己から前を向くものとなった。
二人の呼吸が、合致した。
咲は空いている片手に全力の力を盛って、水掻きを。
トキは、そのタイミングに合わせて、最後の力を振り絞り、引っ張る。
流れに沿いながら、咲はトキの方へと着実に近づいていった。だが、その速度はあまりに遅く、力を蓄えた濁流の反動が、後ほんの僅かで、押し迫ろうとしていた。
一刻。一刻。
「……ッッ!」
「……………」
焦燥が、二人を襲う。
トキは、噛み締めていた口を開き、雄たけびを上げた。
「うぁぁぁあああああああああああああああああああああ――ッッ!!!!!」
腕が、咲の身体を引き寄せ、曲折した。
咲は、その上半身を山肌に付けた。
「上がれ!!」
トキは体力の残っていない咲に鞭打つ。
まだ、助かってはいないのだ。
「うっ………あっ……あ……」
咲は片手で時の手を掴み、片手で山の草を掴んで、殆んど皆無に近い力を振り絞った。
下半身が、その身を見せた。
ドシャリと、二人は泥濘に倒れこんだ。
その瞬間。
ドッ――!
という第二派の波が押し寄せ、流れは急速化した。
「…………」
だが、二人は驚くことも、顔を青ざめることもしなかった。いや、出来なかった。疲労が全ての感覚を奪っていて、もう、それどころではなかった。酸素の運搬に全てを使い、体力の回復を優先していた。
何分という時間の間、二人からは荒れた息遣いしか、発せられることはなかった。
息の回数が徐々に落ち着きを取り戻した頃。咲は、誰が自分を助けたのかを確認した。胡坐を掻いて座っているのは、この村にはいない、見知らぬ男。
「…………。あっ…助けていただき、本当に……ありがとうございます」
呆気にとられる前に、咲は気付いたように礼をした。
トキは、複雑な心境を表す、細い目をした。そして、「ん」とだけ言って、頬を掻いた。
「貴方は、どちらの方なのですか?」
と、咲は不思議そうに問い掛けた。
「都合よく、この惨事に居合わせた、通りすがりの者だよ。と、言いたいところだが、無理があるよな」
名前、呼んじまったし。と、顔を逸らしてトキはボソリと付け加えた。
「俺を説明すると、突飛な話になっちまうが。恐らく、そのくらいでないと逆に信じられんと思う。だから、話そう」
「……」
「…俺は、未来から来た人間でな。孝治に、…………咲を助けてやってくれと、頼まれてきたんだ」
「孝治さんに……?」
「ああ」
咲は明るい顔になった。
「じゃあ、孝治さんは、生きているんですね」
その姿を見て、トキは目を見開いてから、淑やかに笑みを出した。
「ああ。孝治は生きている」
答えながら、良い夫婦だ。という想いを乗せる。
だが、それは決して、繋ぎ止められた訳ではない。過去の咲を救ったからといって、現在の咲が無事なのかどうかは、不明確である。だからこそ、告げなければならない。
「……だが、あんたは分からない」
「分からない…というのは、どういう意味ですか?」
「未来のあんたは、実際は死んでいるかもしれん状況でな。もしも、亡くなっていた場合、今此処に居るあんたは、死んじまうかもしれん」
助かったのに、死の宣告を受けるなど、途方もない矛盾である。だが、受け止めてもらう他、道はない。この世の理なのだから。
咲は、少々の時間を流した後、細く言った。
「そうですか……。でも、孝治さんが無事なら、満足です」
トキは、一言、言いたかった。「すごいな」と、称えたかった。純粋なる愛が、この夫婦に朗々と、せせらぎのように流れている。羨ましいというのもあつかましく、紡げる言葉は、感嘆か、賞賛くらいなものだった。
「そうか。すまんな。不安を、取り除けなくて」
「いいんです。一度は、死を決意した身ですので。それに、また、孝治さんに逢えるかもしれないという可能性があるだけで、希望は尽きません」
語るに尽きた咲を見て、トキは強く願った。
――この夫婦に、どうか幸せを
トキは、「それじゃあ、俺は戻る。また、あっち(現行世界)で会おう」と約束し、帰化した。
咲は、七色に光る粒子を目にして、頭を深く深く下げた。
そして、大粒の涙を落として、壊れた村、日常、亡くなった人の事を想って、大声で咽び泣いた。
悲しみの慟哭は、山々に木霊して、村を弔悼した。