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鳶渡の時  作者: 春日戸
第拾話【幻の藁】
42/44

10-2

 それから、トキが耐え忍ぶこと7時間丁度。

 ゴロゴロという轟きを上げる濃色の雲が、村の空を奪うように覆った。

 木陰から身を乗り出したトキは、「そろそろ…来るか…」と頬に一筋の汗を垂らして呟いた。


 それから10分も経たぬ内に、言葉通り、雨が落ちてきた。雨粒は類を見ないほどに大きく、伝線か何かから伝ってきたのかと思わせる。

 そして、数合を経て、雨はゲリラ豪雨と化した。


 ザーーー!と叩きつける雨には、ほどほどの反応しか示さなかった村人たちも、てんやわんやと家に駆け込んでいく。その姿を見て、トキの胸中に言葉が、脈打つごとに現われる。

(逃げろ…逃げてくれ……此処から、逃げろよ……)


 何も知らぬに、自ら逃げられぬ檻へと入っていく様は、叫び狂いたいほどに、虚しかった。木造の家など、糸も簡単に屑切れ同然にしてしまう土砂の大群が、この大雨を餌に押し寄せてくる。

 その事を、叫び回りたい。出来ることなら、この村人全てに生きて欲しい。しかし、それは叶わない。決して叶わない。


 トキは、奥歯を噛み締め、拳を握り締め、全身に力込め、震えていた。

 その時、


ドドドドドドド……ッッ!


 という爆音が響き渡る。

 山肌が、突然の豪雨により泥濘、動き出した音だった。

 トキは思い出す。惨状を産んだ一つの要因のことを。


 トキの居る場からでは確認は出来ないが、遠くに聳える山の裏手には大池があり、そこに先程の雪崩のような山肌の波が交通事故のようにぶつかり、大波を生むのだ。冠水した大池からは水が溢れ、ぶつかった衝撃によって出来た流れに身を任せた、時速30kmの津波のようなものが、辺りを所構わず飲み込みながら、村を襲うのだ。

 その要因の一つが、今動き出し、地震と思えるような低い唸りを上げた。


 雨は止まない。まるで子に餌を上げているように、これでもかと降り続ける。栄養を蓄えた地すべりから生まれる土石流は、後30分もすれば、トキの眼下に広がる村を、飲み込んでいく。


「…………………ッッッッッ!!!!!!!!!」


 表情筋が強張りを見せるトキは、絞り出そうとしていた。

 人の意識の中で、最も多岐に渡り使用され、最も残酷且つ非道なものを、トキは絞り出そうとしていた。


――――他人事。


 損得勘定に置いて、自身に何ら影響が無い時に発現する、無関心という名の無情。

 近くで人が死のうが、何をしようが、自分に被ることがなければ、別に気に留めない。

 そんな感情を、トキは絞り出そうとしていた。

 無理矢理、全身の血管がはち切れそうなほどに力を込めて、出そうとしていた。



ドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドドド――――!!!!



 恐ろしいほどの負を宿した重低音が、一際、山々に木霊した。


 来る。


 トキは本能的に察して身構えた。

 後、数分もすれば、奴は来る。眼前に姿を現す。


ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッッッッ!!!


 まるで、怪獣や恐竜、伝説とされる龍などの巨大生物が、威嚇音を出すような恐々とした爆音が響いた。

 遠巻きに聞こえる轟音は、まさに毒手が十重二十重に迫る音。

 今まさに、波乱が起き、崩壊が始まろうとしている。

 小さな村を飲み込み、何の罪もない者たちが、咎をその身に一心に当てられる。耐え切れなかった者たちの末路は、多くの者が考えるうる、途方もない『死』という境地。


 トキは考えた。

 その光景を見た自分は、何をするのか。

 奥歯が噛み締められる。

 何も出来ないから。いや、何か出きる領域のことではない。

 これは人智を超えた災い。

 手のうちようもない、平伏すだけの出来事。


 安全地帯に居る者にとって、できることは自問自答による、精神の安定を謀ることだけ。

 トキの経験上、類を見ない惨憺さが、それを強いた。

 

――そして。


「――――――!!!!!!!!!!」


「!!!!!!!!!!!」


『~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!』


 耳を塞ぎたくなる程の、悲鳴と慟哭の数々が、空を割るように響き渡った。


 家を破壊する炸裂音。巨大な芋虫が這うような、締め付け上げた音。

 周りの木々や電柱は薙ぎ倒され、果ては飲み込まれ、その一部へと成りゆく。


 もしもこれが猛火であるなら、劫火と呼ぶに相応しいだろう。


「ひど……すぎる……ッッ」


 トキは足をふら付かせ、尻餅をついた。眼下で巻き起こる事が、直視できない。

 地響きは鳴り止まない。鎮まらない。


「早く、早く……! 終わってくれ……ッ」


 失意体前屈になったトキは、拳をぬかるんだ地面に叩きつけた。まだ、寸刻の出来事。しかし、漫然と眺めるだけの者にとっては、悠久の時と等しい。


 トキは、この惨憺たる光景に見合う言葉を口にすることが出来なかった。

 代わりに、統制を外れた器官部たちが云う。


 目が云うには、地獄絵図。

 耳が云うには、阿鼻叫喚。

 身体が云うには、生き地獄。


 口からは、吐瀉物が出た。


 胃を這い上がり、喉を通った熱の篭ったそれを出す時、あまりの苦しさにトキは涙を浮かべた。そして、それが功を奏した。

 苦しみから解放されるべく、一瞬だけ、脳が冷静さを求める時、トキは己の目的を思い出したのだ。

 そう、トキはただこの惨状を見に来たのではない。花房 咲が死に往く様を見届けて、遺体の在処を定めなければならないのだ。


 トキはフラフラな身体に鞭打つように立ち上がり、ザッと一歩前に進む。

 瞬間。


「はっ……!」


 手前にあった家屋。つまり、花房 咲が現存する家が、土石流に飲み込まれた。


ドンッ!! ドドドドドドドドドド!


 まるで、爆薬でも仕込んでいたのではないかと思えるその破壊光景に、トキは目を眩ませかけた。しかし、眼光は鋭かった。ここからなのだ。見逃してはならない、目的の時間は。


「ばっ、がっ…ふぁ!」


 トキが轟々に流れる土石流を追っていると、中から咲が嗚咽を上げて顔を出した。しかし、すぐにまた沈んでいく。水分を十分に含んだ服に、身体に圧し掛かる泥が、咲の抗いを糸も容易く無にしていた。


 正に、底なし沼に溺れた者が、捕まるもの、言うなれば、藁にも縋る思いで抗っている。


 必死な様を、トキはただただ傍観する。


 非情に、無情に、下劣に、臆病に。


 咲を飲み込んだ土石流は南の方へと向かっていく。合わせて、トキも歩いていく。顔面蒼白で。


 脳内には、自分を抑えつけるための言葉だけが、連なっていた。


――無力無力無力無力無力――


 心臓が張り裂けそうであった。

 鼻息は荒く、目頭が熱い。

 喉からは、歯軋りのような音が漏れ、眉間にシワが蔓延った。


 その時だ。


「――!」


 ある言葉が、トキの脳に走った。


『土砂に埋もれ、居所不明な状態が――』


 そして導き出される。この悔悟のような嘆かわしい状態を吹き飛ばす考え。


 咲の遺体は見つかっていない、行方不明状態。

 行方不明を死と断定しているのは、孝治の経験則を下に導き出しただけの憶測にしか過ぎない。


 助かるはずがないというものの、死を確認したわけではない。


――もしかしたら。


「もしかしたら……」


 ――咲は、生きているかもしれない――


 まだ、現行世界で、辛々ながらも生きているかもしれない。

 救助を待っているかもしれない。


 ならば!

――トキがこの場で咲を救えば、助ければ。



「掴めッッ!!!!」



 あの2人は、仲の良い夫婦は、幸せを――



――失わないで、済むのではないか。



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